『二百十日』夏目漱石2019-10-25

2019-10-25 當山日出夫(とうやまひでお)

二百十日

夏目漱石.『二百十日・野分』(新潮文庫).新潮社.1976(2004.改版)
https://www.shinchosha.co.jp/book/101016/

新潮文庫で、漱石の作品を読んでいこうと思っている。最近、『草枕』『明暗』『硝子戸の中』と読んできている。

やまもも書斎記 2019年7月19日
『草枕』夏目漱石
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/19/9130514

やまもも書斎記 2019年7月25日
『明暗』夏目漱石
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/25/9133086

やまもも書斎記 2019年8月23日
『硝子戸の中』夏目漱石
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/08/23/9144415

上記につづけて、この秋の読書として、漱石を新潮文庫版で読んでいこうと思っている。(これと平行して、村上春樹など読むことにして。)去年のいまごろは、『失われた時を求めて』の岩波文庫版を集中的に読んでいた。これも、ようやく、全一四巻が完結するようである。全巻、岩波文庫本の訳がそろったところで、これも読みなおしてみたい。あるいは、光文社古典新訳文庫版(高遠弘美訳)の既刊分を読んでおきたいとも思う。

で、漱石である。手始めに『二百十日・野分』から手にしてみた。まず、『二百十日』について。

この作品、若いころに読んだかと思うが、近年は手にしていない。数年おきに、漱石の作品は読んできているのだが、たいてい『吾輩は猫である』から『三四郎』に飛んでしまっている。

『二百十日』であるが……これは、落語だな、というのが、読んで感じること。たぶん、こんなことは、近代文学研究の分野では、常識的に言われていることにちがいないが、そう思ってみる。そんなに長い作品ではない。登場人物は、基本的にふたり。圭さんと碌さんである。この二人の登場人物の掛け合い、会話で、小説は進行する。この会話のやりとりは、まさに落語そのものである。特に、「半熟」の卵を注文するところの「おち」など、落語そのままだと言ってよい。

たぶん、漱石は、楽しんで書いているにちがいないと感じる……ということを、感じ取って読むようになっているというのも、今の自分が、すでに漱石の没年をとうにすぎて、ただ馬齢を重ねるだけで生きているようなことであることによるのかもしれない。

漱石は、作品ごとに、新たな文学世界をひらいていった作家である。その漱石において、この作品は、浮世の苦労から離れて、想像と落語の世界にあそんでいる、そんな感じがしてならない。このような作品世界も、また漱石のひとつの側面なのであろう。

ただ、今回、読みなおしてみて気付いたこととしては、この作品は、熊本の阿蘇を舞台にしている。宿の女中は、熊本方言である。五高に奉職していた漱石にとって、熊本方言はなじみのあるものであったにちがいない。(ちなみに、『三四郎』の小川三四郎は、熊本の高等学校を卒業して東京の大学に入学することになっている。)

続けて、『野分』である。

追記 2019-10-28
この続きは、
やまもも書斎記 2019年10月28日
『野分』夏目漱石
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/10/28/9169902

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。

名前:
メールアドレス:
URL:
次の質問に答えてください:
このブログの名称の平仮名4文字を記入してください。

コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/10/25/9168738/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。