『古典は本当に必要なのか、否定論者と議論して本気で考えてみた。』2019-10-11

2019-10-11 當山日出夫(とうやまひでお)

古典は本当に必要なのか

勝又基.『古典は本当に必要なのか、否定論者と議論して本気で考えてみた。』.文学通信.2019
https://bungaku-report.com/books/ISBN978-4-909658-16-6.html

https://bungaku-report.com/blog/2019/09/post-601.html

この本は出てすぐに読んだのだが……読んで思ったことなど書こうと思いながら、時間がたっている。それは、この本に書かれていることについては、すでに私が書いたこと以上のことは、もう言う必要がないと思われたからである。

やまもも書斎記 2019年1月18日
「古典は本当に必要なのか」私見
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/01/18/9026278

やまもも書斎記 2019年1月26日
「古典は本当に必要なのか」私見(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/01/26/9029000

やまもも書斎記 2019年2月16日
「古典は本当に必要なのか」私見(その三)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/02/16/9036658

これらの文章で私が考えてみたことに、はっきり言って、この本は答えてくれていない。いやむしろ、これは避けるべきであろうとした問題点に陥っているとさえ言える。それは、上記の「私見(その三)」の末尾に書いたことである。繰り返しになるが、再度書いてみる。

次のことを書いた。

=====

最後に付け加えて書いておきたいことがある。「古典は本当に必要なのか」をめぐっては、様々にWEB上で議論がある。それらを見て思うことがある。次のことは語ってはいけないことだと、自分自身への自省として思っていることである。

それは、
・高校の時のルサンチマンを語らない
・自分の今の専門への愛を語らない
この二つのことがらである。

このことをふまえたうえで、何故、古典は必要なのか、あるいは、必要でないのか。また、他の教科・教材についてはどうなのか、議論されるべきだと思うのである。

=====

これをふまえて、さてどうだろうか。この本は、陥穽におちいってはいないだろうか。

いくら今の自分の専門……江戸時代の文芸であろうと……への愛を語ったところで、それが、古典不要論に対する反論としては、意味を持つものではありえない。

そして、それからいろいろ考えて、今思うことは、「教養」というものがもっている「暗黙知」の問題である。実際に社会に出てつかう実用的な必要のある人はあまりいないかもしれないが、しかし、この程度のことは、社会人として一般的に知っておくべきこと……それを「教養」と言ってみるが……これは、時代や社会によってかわる。また、それは、「暗黙知」でもある。

おそらく「教養」には、実際に役にたつ知識や技能という側面と、「暗黙知」として、その社会の構成員である人びとに共有されるべき知識、この二つの側面がある。

たとえば英語(なかんずく英会話)やプレゼンテーション技能などは、さしずめ前者であろうし、広義に考えれば数学などは後者にはいるだろう。無論、大学以上の専門においては、数学は実用的に必須という領域がある(工学部など)。

だが、その一方で、いわゆる理系の大学の学部などで必要であるというだけではないという側面もある。文系の勉強をするにも数学への理解は必要になってくる。「教養」としての数学である。この意味で、「古典」は後者に属する。

「暗黙知」……言いかえるならば、あえてそれを表に出して議論しようとするならば、わけがわからなくなり雲散霧消してしまうしかないものである。しかし、ある時代や社会においては、人びとに共有される当然のこととして、確固として普通に思っていること、ということになる。

古典否定派の言うこと、たとえば、有限の高校生の授業時間の中で、何を優先的に教えるべきか……このことを正面から問われたときには、「古典」必要派としては、実用性という観点からは、もはや沈黙するしかないように思える。

ところで、これも繰り返しになるが、「古典」というものが近代になってから再発明、再発見されてきたものであるという側面を、きちんとふまえて議論しなければならない。「古典」が必要であるというならば、そのようなものとしての「古典」の性格をわかったうえで、これからの「古典」の教育の是非、必要・不必要が論じられるべきである。

たとえば、今の元号「令和」の出典は『万葉集』である。これは、『万葉集』が「国書」であり「古典」であるから、そこに典拠をもとめた……これは、元号を決めた側の理屈である。日本の国・政府の立場である。これに対して、いや、そうではないと言うこともできよう。元号がそこからとられたことによって、『万葉集』が「古典」として、再定義、再生産されていくのである、と。

このような批判的視点こそ、これからの時代において必要なものであると私は思う。そのためには、最低限の「古典」の素養は、「教養」として身につけておくべきものである。むろん、そこでの知識は、ちょっと専門的な勉強をすれば、すぐに消し飛んでしまうようなものかもしれない。だが、そうではあっても、それを知っていることを当然の前提、基礎として、それに対する批判的知見というものが成り立ちうる。(さらにいえば、このような批判的視点を持ちうるのが、真の「教養」というべきものであろう。)

『万葉集』が「古典」になったのは、近代になってからであり、また、元号の出典として「古典」として再定義されているものである……このような批判的視点を確保するためには、まず『万葉集』が「古典」として教育の場に出てこなければならない。このような、非常に屈折した意味においてであるが、「古典」は教育において必要であると考える。

「古典」をめぐる議論は、「教養」における二つの点……「実用」という側面と、それから、「暗黙知」という側面と、この二つのこと両方を視野にいれた議論として……そして、それを区分して……展開されるべきものであると考えるのである。

追記 2021-06-13
この続きは、
やまもも書斎記 2020年7月12日
『「勤労青年」の教養文化史』福田良明

『結婚式のメンバー』カーソン・マッカラーズ/村上春樹(訳)2019-10-12

2019-10-12 當山日出夫(とうやまひでお)

結婚式のメンバー

カーソン・マッカラーズ.村上春樹(訳).『結婚式のメンバー』(新潮文庫).新潮社.2016
https://www.shinchosha.co.jp/book/204202/

続きである。
やまもも書斎記 2019年10月3日
『遠い太鼓』村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/10/03/9160554

やまもも書斎記 2019年9月28日
『その日の後刻に』グレイス・ペイリー/村上春樹(訳)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/09/28/9158550

新潮文庫で「村上柴田翻訳堂シリーズ」として刊行されたもの。文庫オリジナルの翻訳である。

この作品も、おそらく、村上春樹訳ということで新潮文庫に入っていなければ、読むことがなく終わってしまっていただろう。村上春樹の翻訳ということで、現代のアメリカ文学を読んでいっているなかの一つである。

さて、この小説……第二次大戦中のアメリカ南部の田舎町、そこに住む一二才の少女のフランキーの生活をえがいたもの。ちょっと大人びたところがあるとはいうものの、まだ一二才の少女である。その眼でみた世界……大人たちの世界、それから、時として、戦争のことも出てくる……は、どのようのものとしてあるのか。読みながら、ふとその心の中に入り込んでしまっていることに気付く。やはり、こういうのを文学というのであろう。

その考えていることに共感するというのとはちょっとちがう。二一世紀の日本と、二〇世紀半ばのアメリカの田舎町、しかも、一二才の少女……今日に共通する要素はほとんどないかもしれない。しかし、読みながらふとそこに語られる物語世界、小説世界、の中にひたってページをめくっている自分に気付く。

解説を読むと、村上春樹は、この作品を読んで『たけくらべ』を思ったという。私は、もう『たけくらべ』を忘れてしまっている。読みなおしてみたくなった。

ともあれ、ここには、文学でしか描くことのできない、人間のこころがある。あるいは、文学とは、このようなものを描きうるということで、今日にいたるまで、文学というものが続いてきているといっていいのかもしれない。この意味において、文学が何を描きうるのか、まだその世界は広がっていると考えるべきであろうと思う。

次の村上春樹は、『うずまき猫のみつけかた』である。

追記 2019-10-18
『たけくらべ』については、
やまもも書斎記 2019年10月18日
『たけくらべ』樋口一葉
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/10/18/9166118

追記 2019-10-19
この続きは、
やまもも書斎記 2019年10月19日
『うずまき猫のみつけかた』村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/10/19/9166420

『スカーレット』あれこれ「意地と誇りの旅立ち」2019-10-13

2019-10-13 當山日出夫(とうやまひでお)

『スカーレット』第2週「意地と誇りの旅立ち」
https://www.nhk.or.jp/scarlet/story/index02_191007.html

前回は、
やまもも書斎記 2019年10月6日
『スカーレット』あれこれ「はじめまして信楽」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/10/06/9161640

この週で、喜美子は中学生にまで成長する。そして、大阪に向けて旅立つことになる。

見て思ったことなどは、次の二点になるだろうか。

第一に、この週のタイトルにある「意地と誇り」……これは、幼い喜美子の言った台詞だった。たぶん、これからのこのドラマは、「意地と誇り」をキーにして進行することになるのかと思う。ヒロインは、最終的には、女性として陶芸家を道を歩むことになるのだろう。その精神の軸にあるものは、まさに「意地と誇り」なのかもしれない。

第二に、「故郷」の信楽への思い。大阪で就職することになる喜美子は、信楽から離れたくないという思いを強くもっている。信楽こそが、自分の「故郷」である、と。幼いときに、ここにやってきたときは、よそものであったのかもしれないが、いまは、信楽こそが「故郷」である。大阪ではたらくことになる喜美子だが、いずれ、信楽に帰ってくることになるはずである。その帰ってくるべき「故郷」としての信楽への思いを描いていた。

以上の二点が、この週を見て思ったことである。

さらに書くならば、柔道のことがある。幼いときに、喜美子や照子たちは、草間宗一郎から柔道をならう。その柔道の精神が、成長した喜美子のなかにも生きている。

次週から、舞台は大阪に移って、そこでの生活を描くことになる。どんな大阪暮らしが展開されることになるのか、楽しみに見ることにしよう。

追記 2019-10-20
この続きは、
やまもも書斎記 2019年10月20日
『スカーレット』あれこれ「ビバ!大阪新生活」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/10/20/9166789

『カッティング・エッジ』ジェフリー・ディーヴァー2019-10-14

2019-10-14 當山日出夫(とうやまひでお)

カッティング・エッジ

ジェフリー・ディーヴァー.池田真紀子(訳).『カッティング・エッジ』.文藝春秋.2019
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163911120

ジェフリー・ディーヴァーの作は、翻訳が出るときに買って読んできている。これは、『ボーン・コレクター』以来、ずっとそうしてきている。すこし待てば文庫本になるのだが、しかし、文庫本になったからといって、そう格段に安くなるということもない。単行本の発売を待って買って読むことにしている。

私は、この『カッティング・エッジ』まで、リンカーン・ライムのシリーズは、順番に全部読んできているはず。それをふまえて思うことは次の二点。

第一には、やはりこれは傑作と言っていいだろうということ。

しかし、傑作と言ってしまうのは、ちょっとためらわれるところもある。それは、この作品が、単独での完成度が高いということもあるが、それよりも、これまでの、リンカーン・ライムのシリーズ、さらには、キャサリン・ダンスのシリーズを読んでいることを前提として、その良さが分かるという面があるからである。

とはいえ、最後の方になってあきらかになる「真相」……これは、さすがにジェフリー・ディーヴァーの作品だなと感じさせるところがある。

第二には、この本の訳者あとがきに書いてあることだが、作者(ジェフリー・ディーヴァー)は、この後、別の新シリーズに手をつけているらしい。これも、なるほどという気はする。

リンカーン・ライムのような科学的な捜査法、特に物理や化学を中心として、この捜査方法は、近年のサイバー犯罪などには、あまり意味がない。無論、「犯罪」の種類によっては、このような捜査方法が有効であることもあるだろう。しかし、それでは、シリーズとして、マンネリになってしまう。

この作品では、これまでの本にみられたような、ホワイトボードに書いた証拠物件の一覧、というものが登場してきていない。つまり、リンカーン・ライムの科学的な捜査方法で、犯人をおいつめるという方向の作品にはなっていない、ということになる。(だが、作品の随所に科学的捜査法は登場する。)

つまり、読み始めてすぐに感じることだが、この作品になって、従来の作品であったような科学的捜査法とは別の筋書きが用意されていることになる。そして、その筋書きにしたがって、ラストへと物語はすすむ。

以上の二点が、この本を読んで思うことなどである。

おすすめの作品ではあるが、しかし、それは、これまでの他の作品を読んできている人にとっては、より一層たのしめる作品になっている。

ともあれ、次作の新シリーズに期待することにしよう。

『いだてん』あれこれ「懐かしの満州」2019-10-15

2019-10-15 當山日出夫(とうやまひでお)

『いだてん~東京オリムピック噺~』第39回「懐かしの満州」
https://www.nhk.or.jp/idaten/r/story/039/

前回は、
やまもも書斎記 2019年10月8日
『いだてん』あれこれ「長いお別れ」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/10/08/9162470

たぶん、この『いだてん』というドラマの一番いいところと悪いところが、一緒になったような回であったと言っていいだろうか。

第一に、(これはほめてみるのだが)これまでの各種のストーリー、特に金栗四三を中心とする物語と、志ん生を中心とする物語が、ここで一緒に融合している。前回までは、それぞれに別の物語であったものが、満州という舞台を設定することによって、そして、五りんの父である勝との出会いが描かれる。

第二に、(これは批判的にみるのだが)ここまでの物語を、満州におけるどさくさ紛れに、なんとかつじつまを合わせて、どうにかドラマとして成り立たせていることになる。ここには、ちょっと無理があるように感じる。

以上の二点を思ってみる。

それから、この回においても、落語がうまくつかわれていた。特に「冨久」がうまかった。また、一緒に満州にわたった圓生もよかった。いろいろ批判はあるにせよ、満州での出来事をうまく描いていたと言えるのではないだろうか。

次回から、いよいよ、一九六四年の東京オリンピックの話になる。心機一転、新たなドラマがどのようにはじまるのか、楽しみに見ることにしよう。(ところで、10月20日は、ラグビーの放送のため、次回はその次になるとのこと。)

追記 2019-10-29
この続きは、
やまもも書斎記 2019年10月29日
『いだてん』あれこれ「バック・トゥ・ザ・フューチャー」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/10/29/9170316

コスモス2019-10-16

2019-10-16 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日なので花の写真。今日はコスモスである。

前回は、
やまもも書斎記 2019年10月9日
ヒガンバナ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/10/09/9162816

我が家で植えている花ではない。家の近辺のところどころに、空き地などに植えてある花である。毎年、秋になると花が咲く。

コスモスは最もポピュラーな秋の花である。しかし、写真に撮ろうと思うといろいろ難しい。とにかく、少しの風でもゆらぐ。望遠レンズで、これときめた花を撮るのだが、なかなか思い通りにはならない。かなり回数、シャッターを切ったなかから選んである。

使っているのは、ごく普通のデジタル一眼レフである。カメラがデジタルになって、写真を撮るとき、シャッターを切る回数が増えた。いろいろ理由はあるが、一番大きな理由は、フィルムの代金を気にしなくてよくなったということがある。使っているのは、SDカード。今では、64Gから128Gぐらいが、最もリーズナブルな価格で買える。いくつか用意しておいて、月ごとに変えるようにしている。過去の一~二ヶ月は、カードにデータで残っている。三ヶ月以上なれば、思い切って消してしまう。ここは、割り切りである。Facebookやブログに掲載した写真(JPEG)は、残しておくが、後は、全部消去してしまうことにしている。

これもハードディスクを買い足して、写真用にRAWデータを残すようにしてもいいのかもしれない。が、年々歳々、花も同じではないが、その時々の花の様子を写真に撮っていければいいと思っている。

コスモス

コスモス

コスモス

コスモス

コスモス

コスモス

Nikon D500
AF-P DX NIKKOR 70-300mm f/4.5-6.3G ED VR

追記 2019-10-23
この続きは、
やまもも書斎記 2019年10月23日
ハギ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/10/23/9167976

NHK『怪談牡丹燈籠』巻の弐「殺意」2019-10-17

2019-10-17 當山日出夫(とうやまひでお)

NHK プレミアムドラマ 令和元年版 怪談牡丹燈籠 Beauty&Fear
https://www4.nhk.or.jp/P5858/

続きである。
やまもも書斎記 2019年10月10日
NHK『怪談牡丹燈籠』巻の壱「発端」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/10/10/9163196

これも録画しておいて、翌日に見た。日曜日は、BSで『いだてん』を見て、晩御飯をたべると、もうあとは寝るだけである。

この回も、思わずテレビの画面に見入ってしまった。テレビの画面で、まさしく映像美というべきものを表現していたように感じる。

この回も、基本的には、三組の男女の仲のこととして話が進む。が、メインは、無論、お露と新三郎、それから、お国と源次郎である。

お露は、こがれ死にをしてしまう。こんなに簡単に死ぬものなのかと思わないではないが、しかし、そこはそんなに不自然でなく、あっけなく死んでしまう。そして、幽霊になって現れる。この幽霊のシーンがよかった。カランコロンという下駄の音。それが音楽で実に見事に表現されていた。

お露の幽霊が出る一方で、お国と源次郎の密通がすすむ。不義の仲である。どうやら、このことは、孝助に知られてしまったようだが。さて、この企み……主人の平左衛門を殺して、その後をのっとろうという……は、どうなるのであろうか。

やはり一番の見せ場は、お露の幽霊のシーンだろう。これまでテレビで、幽霊は、それこそ山のようにたくさん映像化されてきているはずだが、この『怪談牡丹燈籠』のお露は、美しく、そして、怖い。見事な演出であるとしか言いようがない。

ところで、この原作の圓朝の『怪談牡丹燈籠』は、すでに買ってある。岩波文庫本。読もうかという気もあるのだが、これは、このドラマの終わりを見届けてから、原作のどの部分がどのように映像化されているのか、ということに留意しながら読んで見ることにしたい。今のところ、おいてある。

次回、いよいよお国たちのたくらみが進行するようである。お露の幽霊、それから、お国の悪だくみ、これがどうなるか、楽しみに見ることにしよう。

追記 2019-10-24
この続きは、
やまもも書斎記 2019年10月24日
NHK『怪談牡丹燈籠』巻の参「因縁」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/10/24/9168365

『たけくらべ』樋口一葉2019-10-18

2019-10-18 當山日出夫(とうやまひでお)

たけくらべ


樋口一葉.『にごりえ・たけくらべ』(新潮文庫).新潮社.1949(2003.改版)
https://www.shinchosha.co.jp/book/101601/

書誌を書いてみて、新潮文庫では、一九四九年(昭和二四年)に出した本を、いまだに売っている。さすがに、途中で改版はしているが。

『たけくらべ』の初出は、明治二八年である。漱石が『猫』を書くより、ざっと一〇年ほど前のことになる。ここに、日本文学の、あり得たかもしれないもう一つの可能性、ということを考えてみることもできるかもしれない。あるいは、『猫』によって漱石が日本文学のなかに登場しなかったら、日本の近代文学の歴史は、違ったものになった可能性もある。

この作品を読んでみよう(再読)と思ったのは、村上春樹の翻訳を読んでいて、『結婚式のメンバー』を読んだからである。この作品の解説において、村上春樹は、『たけくらべ』を思い出すという意味のことを書いていた。

やまもも書斎記 2019年10月12日
『結婚式のメンバー』カーソン・マッカラーズ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/10/12/9163890

久しぶりに読んで見て、そのストーリーの概略は知ってはいたが……これは、文学史の常識と言っていいことだろう……その細部の表現、あるいは、樋口一葉の文章の巧みさというものに、感じ入った。読んで見て、ああこういう文学もあったのだな、という思いがした。

『たけくらべ』は、子どもの世界を描いている。子どもというよりも未成年とでも言ったほうがいいかもしれない。その世界、しかも、吉原という特殊な地域における、幾人かの登場人物を、情感をこめて細やかに描いている。文学的完成度という意味では、きわめて高いものである。

そして、その独特の文体、文章。近代的な言文一致体……現代の日本語に通じる、その完成した形を漱石などにみることができるだろうが……ではなく、流麗な雅文体である。このような文章が文学の文章でありえた時代を、再度確認することになった。

村上春樹を読んでいる途中で、ふと脇道にそれて読んでみた本である。が、ここは、明治の文学史というものを、自分なりにきちんと考えてみたいと思うようになっている。近代という時代、どのような日本語の文章が成立してきたのかである。おおよそのところは、日本語史の常識的な知識は持っているつもりだが、自分の目で読むということをしておきたいと思う。

『うずまき猫のみつけかた』村上春樹2019-10-19

2019-10-19 當山日出夫(とうやまひでお)

うずまき猫のみつけかた

村上春樹.『村上朝日堂ジャーナル うずまき猫のみつけかた』(新潮文庫).新潮社.1999 (新潮社.1996)
https://www.shinchosha.co.jp/book/100146/

続きである。
やまもも書斎記 2019年10月12日
『結婚式のメンバー』カーソン・マッカラーズ/村上春樹(訳)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/10/12/9163890

収録のエッセイは、1994年から95年にかけて、『SINRA』という雑誌に掲載されたもの。それに、安西水丸の絵と、村上陽子の写真をつけて、さらに加筆などして、エッセイ集としたもの。本のタイトルに「村上朝日堂ジャーナル」とあるのは、安西水丸と一緒の仕事とでもいうことだろうかと思う。

アメリカのボストンの隣町、マサチューセッツ州ケンブリッジで住まいしていた時の執筆になる。エッセイ集としては、『やがて哀しき外国語』の続くものという位置づけである。

やまもも書斎記 2019年9月5日
『やがて哀しき外国語』村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/09/05/9149531

著者本人が書いているとおり(あとがき)、この本は、『やがて哀しき外国語』にくらべると、かなり気楽に楽しんで書いているという印象をうける。この本、村上春樹の外国滞在エッセイとして、十分に楽しんで読めばいいと感じる。

読んで印象にのこることがいくつかある。マラソンのこと、自動車のこと、ジャズのこと、それから、猫のこと。この本は、なぜか猫の話が多い。しかも、アメリカの猫のことのみならず、日本にいた時に飼っていた猫のことも書いてある。これを読むと、村上春樹という人は、猫が本当にすきなんだなあ、と感じる。

この本のなかで、というよりも元の連載のなかでといった方がいいかもしれないが、村上春樹は、ボストンでのマラソンを二回はしっている。

運動の苦手な私としては、四二キロもの距離を走ることなど、想像もできないのだが、このエッセイを読むと、そこには、非常に充実したものがあることが理解される。このあたりのことなど、村上春樹の文学と、走るということ、これは興味のあることである。これまでに読んだ他のエッセイにおいても、外国に行っても、村上春樹ははしっている。

さらにこの本全体の印象としては、絵(安西水丸)もいいが、写真もなかなかいい。文章と、絵と、写真と、全体としてまとまって、こぎれいな本にしあがっているという印象である。

とにかく、村上春樹のエッセイは、ちょっとした空き時間があったような時、何か気疲れするするような仕事の合間、ふと手にして読むのにちょうどいい。この本も、何回かにわけて読んだことになるのだが、読んでいて楽しくなる。短い文章ながら、村上春樹の世界のなかにじんわりとひたっていく感じがする。

さて、次は、レイモンド・カーヴァーの翻訳小説ということにする。

追記 2019-10-22
この続きは、
やまもも書斎記 2019年10月22日
『レイモンド・カーヴァー傑作選』村上春樹訳
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/10/22/9167501

『スカーレット』あれこれ「ビバ!大阪新生活」2019-10-20

2019-10-20 當山日出夫(とうやまひでお)

『スカーレット』第3週「ビバ!大阪新生活」
https://www.nhk.or.jp/scarlet/story/index03_191014.html

前回は、
やまもも書斎記 2019年10月13日
『スカーレット』あれこれ「意地と誇りの旅立ち」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/10/13/9164325

この週のポイントは、次の三点だろうか。

第一には、大阪のおばちゃん。

会社の荒木さん、それから、荒木荘の女中の大久保さん。まさに大阪のおばちゃん、である。なかなか手強い。このような大阪らしさを表現しているのは、やはりBK(大阪)の製作らしい。

第二には、奇妙な住人たち。

荒木荘の住人は、だれもかわっているように見える。まともな、普通の人はいないのではないだろうか。この一風変わった住人たちと、喜美子はこれからどうつきあっていくのだろうか。

第三には、喜美子の田舎娘。

中学を卒業したばかりで、信楽の田舎から出てきたばかりの田舎娘である。しかしものおじするということがない。なんとか大阪の荒木荘の女中として頑張ろうとしている。

以上の三点が、この週の見どころかなと思って見ていた。

それにしても、その当時で大卒の初任給が六〇〇〇円ぐらいというところで、喜美子のもらった給料は、一〇〇〇円だった。いくらなんでも、これはどうかなと思わないではない。そして、この週の最後のところで、転職の話がでてきていた。さて、喜美子はどう決断するのだろうか。

たぶん、このドラマの設定からして、このまま荒木荘にいることになるのだろうと思うのだが、そのあたりの事情がどのように描かれることになるのか、次週の楽しみである。そして、どのような転機でもって、信楽に帰って陶芸家の道をあゆむことになるのか、楽しみにして見ることにしよう。

追記 2019-10-27
この続きは、
やまもも書斎記 2019年10月27日
『スカーレット』あれこれ「一人前になるまでは」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/10/27/9169515