『大聖堂』レイモンド・カーヴァー/村上春樹(訳)2019-11-15

2019-11-15 當山日出夫(とうやまひでお)

大聖堂

レイモンド・カーヴァー.村上春樹(訳).『大聖堂』(村上春樹 翻訳ライブラリー).中央公論新社.2007
http://www.chuko.co.jp/tanko/2007/03/403502.html

続きである。

やまもも書斎記 2019年11月8日
『ふわふわ』村上春樹・安西水丸
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/11/08/9174145

やまもも書斎記 2019年11月2日
『象』レイモンド・カーヴァー/村上春樹(訳)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/11/02/9171894

おそらく、日本語を母語としていることの幸福のひとつとして、レイモンド・カーヴァーの作品を村上春樹の訳で読めるということがあるのではないか、こんなふうに思ってみる。(そのほかに私が思うこととしては、『源氏物語』の原文(校注テキスト)があるし、また、井筒俊彦の日本語の著作があるのだが。)

そして、この本を読みながらなんとなく感じたことは、レイモンド・カーヴァーの語る物語世界と、村上春樹の文学世界との共鳴とでもいうべきものである。これは、たまたま、村上春樹の作品(長編、短篇)と読んで、それから、エッセイ、翻訳を読んできているということも影響してのことかとも思う。だが、そのことを割り引いて考えるとしても、レイモンド・カーヴァーの作品に感じる文学的感銘は、村上春樹の短篇、あるいは、エッセイを読んでいるときに感じるものに、どこか通じるものがあると思ってしまう。

村上春樹は、レイモンド・カーヴァーの作品集のなかでは、この『大聖堂』が一番いいと書いている。そうなのだろうと思う。どの作品を読んでも、しみじみとした感銘が残る。

レイモンド・カーヴァーの作品に登場する人物たちは、社会の上流階級というのではない。いや、むしろ、中、下層の人びとと言っていいかもしれない。時代設定としては、同時代。つまり、一九七〇年代以降の二〇世紀のアメリカ社会である。このせいもあってか、現代の日本の社会的状況から、そう違和感なく作品世界のなかに入っていける。(とはいえ、やはり、日本とアメリカとの社会の違い、時代の違いというところを、たまに感じはする。が、それも作品の理解の障害になるということはない。)

描かれているのは、アメリカの現代の(二〇世紀後半の)、普通の人びとである。普通の人びとが、あるとき、ある状況のなかで、感じること、悩むこと、驚くこと、恐れること……さまざまな情感が、細やかなタッチで描写されている。どの作品も短いものだが、ある人びとの人生の、ふとしたある瞬間をきりとって、あざやかに物語っている。

私が読んだ印象では、やはりタイトルになっている作品『大聖堂』が一番よかったように感じた。他のレイモンド・カーヴァーの作品など、読み終えてから再度たちもどって、この本を読んでみたいと思っている。

次の村上春樹は、『村上ラヂオ』である。

追記 2019-11-22
この続きは、
やまもも書斎記 2019年11月22日
『村上ラヂオ』村上春樹・大橋歩
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/11/22/9179939