新潮日本古典集成『源氏物語』(一)2019-11-25

2019-11-25 當山日出夫(とうやまひでお)

以下の文章(『源氏物語』について)は、今年の夏の間に『源氏物語』を読んで書いたものである。書いて残しておいてあったのだが、村上春樹などのことを集中的に読んで書いてとしているうちに、書き残しておいたままになってしまっていた。順番に掲載していくことにする。

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今年になってからさらに再読である。

やまもも書斎記 2019年2月18日
『源氏物語』(一)新潮日本古典集成
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/02/18/9037548

石田穣二・清水好子(校注).『源氏物語』(一)新潮日本古典集成(新装版).新潮社.2014
https://www.shinchosha.co.jp/book/620818/

『源氏物語』をさらに読んでおきたいと思ったのは、いくつか理由がある。

第一には、秋からの授業の準備である。

『源氏物語』において、文字、あるいは、歌や消息を書くということ、これがどのように表現されているか、自分の目で読んで確認しておきたかったからである。はるか古代、万葉よりはるかの昔、歌は詠むものであり、声に出して伝えるものであったといっていいだろう。それが、文字というものを日本語がもつようになって、文字に書くということになった。歌が書けるようになって、『万葉集』という歌集の成立があり、さらに、平安時代になって、仮名の発明があって、『古今和歌集』の成立ということになる。

この仮名と文学の流れのなかに、当然ながら『源氏物語』の成立もある。『源氏物語』は、「書かれた」文学として成立した。では、その『源氏物語』において、文字を書くという行為は、どのように出てくるであろうか。このことを見ておきたかったのである。

「桐壺」から「末摘花」まで読んだところ(新潮の古典集成の一巻)では、確かに、文字によるコミュニケーションを基盤としていることが確認できる。また、その文字についても、時代にあった流行とでもいうべき書きぶりのあったことが知られる。

おそらく、このようなこと、ちょっと調べれば先行研究の論文があるはずのことだが、ここは、もう老後の読書である。論文を読むよりも、自分の目で、『源氏物語』それ自体を、きちんと読みながら確認しておきたいと思う。まず自分の目でテキストを読むこと、この原点にたちかえって本を読みたい。

第二に、やはり『源氏物語』をきちんと読んでおきたいと思う。

今年の二月頃に、思い立って『源氏物語』を最初から最後まで順番にページを繰るということで読んでみた。そこで、感じたものは、まさに「文学」である。これから、どれだけ本を読んで生活することができるかわからない。つまらない本を読むよりは、「古典」を読みたい……このように強く感じるところがある。

『源氏物語』は、各種のテキストがある。小学館の新編日本古典文学全集の本が、現代では、もっとも一般的な本であることは承知している。国立国語研究所のコーパスもこれに準拠している。しかし、この本は、現代語訳がついている。そして、現代語訳を読まないと意味のとれないところがいくつかある。語釈だけでは十分に書けないところは、現代語訳を読むように作ってある。

それが、どうにもわずらわしいのである。語釈と最低限の説明だけあればいい。この意味では、新しい岩波文庫の本が適当かもしれないのだが、まだ全巻完結していない。これが揃うまで待っていてもいいのだが、その前に、もう一回読むとして、再度、新潮の本で読んでみることにした。

以上のような二つの理由で、新潮のテキストで、『源氏物語』をさらに読んでみている。

「桐壺」から「末摘花」まで読んだ印象として感じることは、「帚木」の「雨夜の品定め」の難解さである。テキスト(本文)を一読しただけでは、なかなか意味がとおらない。語釈を見て、頭注をみて、説明を読んで、どうにか理解できる。「須磨源氏」などというが、私の場合「帚木」ですでに挫折しかけてしまう。

源氏物語の成立論について、ここでとやかく語ろうとは思わないが、しかし、読んだ印象からするならば、どうも、「雨夜の品定め」は、後になってから改めて書き加えたところと感じる。最初「紫上」の物語があって、それに「玉鬘」の物語を書きくわえるにあたって、なぜ、夕顔などのような受領階級の女のことを書くのか、光源氏がなぜ、そのような女と関係することになったのか、その出発点を説明するために書き足したのではないだろうか。こうでも思って読まないと、この難解な部分が、「桐壺」の次に出てくる理由がおもいつかない。

私は、『源氏物語』が現存する巻の順番に、その順序で書かれたとは思っていない。あるまとまりのあるストーリー群ごとに執筆していって、最終的に、現在見るようなかたちにととのえられたのであろうと思っている。ただ、その作業は、かなり集中的に行われたにはちがいないだろう。

この年になって、もはや、『源氏物語』で論文を書こうとは、まったく思っていない。ただ、読書の楽しみとして読んでおきたいのである。そう思って読むと、いろいろ感じるところがある。

「若紫」の巻で、光源氏が、幼い紫の上……まだ少女である……を抱いて、その体や髪を手でさぐるあたり、今の性道徳の価値観からすれば、ほとんど犯罪的である。あえていえば、猟奇的な感じさえする。しかし、読んでいくと、思わずその描写のなかにひたって読みふけってしまうことになる。こういうのを「文学」というのであろう。

また、「末摘花」の話など、『今昔物語集』に出てきてもおかしくないような話でもある。『源氏物語』と『今昔物語集』は、意外と近いところにあるというのが、私の感じているところでもある。

夏の暑い時期で、いろいろ忙しくもあるのだが、時間をみつけて、さらに次を読んでいきたいと思う。

追記 2019-12-02
この続きは、
やまもも書斎記 2019年12月2日
新潮日本古典集成『源氏物語』(二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/12/02/9183986