『愛について語るときに我々の語ること』レイモンド・カーヴァー/村上春樹(訳)2019-11-30

2019-11-30 當山日出夫(とうやまひでお)

愛について語るときに我々の語ること

レイモンド・カーヴァー.村上春樹(訳).『愛について語るときに我々の語ること』(村上春樹 翻訳ライブラリー).中央公論新社.2006
http://www.chuko.co.jp/tanko/2006/07/403499.html

続きである。

やまもも書斎記 2019年11月22日
『村上ラヂオ』村上春樹・大橋歩
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/11/22/9179939

やまもも書斎記 2019年11月15日
『大聖堂』レイモンド・カーヴァー/村上春樹(訳)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/11/15/9177103

中央公論新社の「村上春樹 翻訳ライブラリー」で読む、三冊目の作品集になる。ここまで、レイモンド・カーヴァーを村上春樹の訳で読んできて思うことは、次の二点になるだろうか。

第一には、作品の改稿。

随所で村上春樹が書いていることだが、レイモンド・カーヴァーは、その作品を、たびたび改稿して、手を入れている。長いものがあったり、それを短くしたり、各種のバージョンがある。

この『愛について語るときに我々の語ること』を読むと、そのような作品のいくつかに出会うことになる。これは、以前に他の作品集で目にしたことのある作品の、別バージョンだなと気付く。そして、これは私の印象なのだが、概して短いバージョンの作品の方が、読後の印象が強い。そのかわり、詩情とでもいうべきものがなくなり、作品の骨格そのものが露骨に読者につきつけられるような感じにもなる。

第二には、カフカ的ななにか。

この本を読みながら感じたことであるが、人生の、この世界の、どうしようもなり理不尽、不条理を、カーヴァーは描いているように思えてならない。たまたま、去年の今頃のことになるが、カフカの作品のいくつかを読んでいた。そのことが、読みながらふと頭をよぎった。

非常に平明な文章で、分かりやすいというべきなのだが、しかし、その登場人物のおかれた状況とか、物語の筋道に、どうしようもない不可解なものを感じてしまう。このような読み方は、間違っているだろうか。それを、たまたま、私の今の印象としては、カフカの作品になぞらえるような感覚で受けとめてしまっている。

このカフカ的としかいいようのなに何かを感じるところが、チェーホフとは異なるところでもある。

以上の二点が、『愛について語るときに我々の語ること』を読みながら思ったことなどである。つづけて、レイモンド・カーヴァーの作品を読むことにしたい。次は、その復元版とでもいうべき『ビギナーズ』である。

追記 この続きの村上春樹は、
やまもも書斎記 2019年12月7日
『村上ラヂオ2』村上春樹・大橋歩
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/12/07/9186095

追記 2019-12-13
この続きは、
やまもも書斎記 2019年12月13日
『ビギナーズ』レイモンド・カーヴァー/村上春樹(訳)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/12/13/9188650

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