『行人』夏目漱石2019-12-12

2019-12-12 當山日出夫(とうやまひでお)

行人

夏目漱石.『行人』(新潮文庫).新潮社.1952(2011.改版)
https://www.shinchosha.co.jp/book/101012/

続きである。
やまもも書斎記 2019年12月6日
『彼岸過迄』夏目漱石
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/12/06/9185705

はて、漱石という作家は、緻密な計画をたてた上で小説を書いていたのだろうか、ふと疑問に思うところがある。特に、この前作『彼岸過迄』と『行人』を読むと、どうもどのような結末になるか、あらかじめ計算しておいて執筆したとは、あまり感じ取れない。何となく小説を書き始めて、それが興味のおもむくままにストーリーが展開していって、気がつくと、作者としては、近代的な人間のエゴイズム……通俗的な理解かもしれないが……を、ほりさげることになってしまっていた……どうやら、こんな感じがしてならない。

「朝日新聞」の読者を相手に「小説」を書く。その技量において、漱石は卓絶したものをもっていた。小説の結末を決めていなくても、ペンのおもむくままに書いていって、それが「小説」として読めるものになっている。自分の小説家としての技量に自信があってのことなのかもしれない。

以上のようなことを思って見るのは、この『行人』という小説も、どうも、はじまり……二郎郎が大阪に旅行するところ……からはじまって、その家の人びとが出てきて、最後には、兄の一郎の内面の苦悩するこころのうちを、Hさんからの手紙で語らせる……この筋のはこびが、はじめから、このように計画して書いたとするならば、どうにも行き当たりばったりでストーリーがすすんでいくように思われてしかたがないからである。

あるいは、こうも言えようか……漱石は、「小説」を書くことによって、この「小説」では兄の一郎を登場させることによって、書きながら近代的な人間のエゴイズムを、発見していったのである、と。

そして、『彼岸過迄』『行人』を書いてしまって、これらの「小説」を書くことによって、近代的な個人という問題につきあたった漱石は、次には、正面からそのテーマで作品を書くようになる。それが次の『こころ』以下の作品になる。

それから、この『行人』は、Hさんの手紙で終わっている。このような終わり方というか、小説の構成は、次の『こころ』でも用いられることになる。先生からの手紙である。

手紙、書簡、それも言文一致体……「ですます体」の文体で書かれた……このような日本語文が、その当時、明治の終わりから大正の始めにかけて、一般的に確立していないと、この小説はなりたたない。ここから先は、日本語史の分野における、近代的な文章の成立プロセスと密接な関係のある議論になる。(今の私としては、ここから先に踏み込んで、周辺の資料を見るだけのちからがない。このような問題点につらなるということを、書いておくにとどめる。)「ですます体」書簡文で、人間の心理描写をこころみる、このことに成功したのが、この『行人』であり、『こころ』であるのだろうと思っている。

追記 2019-12-20
この続きは、
やまもも書斎記 2019年12月20日
『こころ』夏目漱石
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/12/20/9191512