『おしん』あれこれ(その一〇)2019-12-14

2019-12-14 當山日出夫(とうやまひでお)

続きである。
やまもも書斎記 2019年11月18日
『おしん』あれこれ(その九)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/11/18/9178325

このドラマについては、以前の再放送のとき、全部見て知っているのだが、そのなかで、どうしてもふにおちない、あるいは、ちょっと疑問に感じるところがある。それは、竜三の自決である。

終戦の玉音放送の後、竜三は家を出る。そして、人知れず離れた山のなかで一人死をえらぶことになる。

はたして、竜三は、そこまで思い詰めるほどのことをしてきたのだろうか。たしかに、軍需工場の経営にはたずさわっていた。また、隣組の組長もしていた。この意味では、戦争に加担していたといってもいえなくなくはない。

しかし、この程度のことであるならば、その当時の多くの日本国民のしていたことである。ことさら、竜三がきわだって軍国主義的であったということはない。

さらにいえば、竜三が死んだのは、玉音放送の後ではあるが、日本が正式に降伏文書に調印した日……九月二日……よりも前のことである。連合軍の進駐もまだはじまっていない。無論、東京裁判があって、それによって、戦前、戦中の日本について裁きが始まる、そのはるか以前のことである。

なぜ、竜三は死ななければならなかったのだろうか。以前にこのドラマを見たときに疑問に思ったことであるし、今回の再放送を見ていても、やはり気になることである。

おそらくは、脚本(橋田壽賀子)においては、竜三の死ということで、戦争というものを精算してしまいたかったのかと思う。竜三一人が責任を感じて死ぬことで、それでおしんの気持ちも、ある意味で軽いものになる。

おしんにとって、竜三の死の衝撃は大きかった。また、おしん自身も、戦争のときに、それに反対しなかったことへの自責の思いもある。しかし、竜三の死によって、その自責の念も、払拭されてしまったかとも思われる。

そのまま、戦後をむかえ、新しい時代になっていったとして、おしんは、戦争に反対しなかった自分を責める気持ちから逃れることはできないであろう。特に、子どもの雄を死なせてしまったことの思いが、残るにちがない。このような思いをひきずったままでは、新しい時代を生きるおしんを描くことはできない。

これらの思いをいったんたちきって、新しい時代を生きていくおしんを描くためには、竜三の死というものが必要であったのではないだろうか。このようにでも考えないと、なぜ竜三が死ななければならなかったのか、理解がおよばない。

以上は、あくまでも私が見て思ったことである。人によっては、また別の解釈をすることになるかもしれないと思う。が、私の思ったこととして書きとめておくことにしたい。

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