『明暗』夏目漱石 ― 2019-12-26
2019-12-26 當山日出夫(とうやまひでお)
夏目漱石.『明暗』(新潮文庫).新潮社.1987(2010.改版)
https://www.shinchosha.co.jp/book/101019/
続きである。
やまもも書斎記 2019年12月21日
『道草』夏目漱石
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/12/21/9191933
ことし、ふとおもいたって、『草枕』を読んでみた。
やまもも書斎記
『草枕』夏目漱石 2019年7月19日
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/19/9130514
この『草枕』のつぎに『明暗』を読んだ。
やまもも書斎記 2019年7月25日
『明暗』夏目漱石
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/07/25/9133086
その後、新潮文庫版で、夏目漱石の作品を読んでおきたくなったので、今、刊行されている分について、順番に買ってよんできた。そして、再度、『明暗』を読んでみたくなって読んだ。
はっきり言って、若いころ、『明暗』という小説は苦手だった。いまひとつその面白さが分からなかったと言える。だが、今、この年になって(もう、還暦をすぎて数年経過している)、漱石の作品を手にとるなかで、この『明暗』が、一番面白いと感じる。
まさに、近代を代表する小説になっていると感じるところがある。特に波瀾万丈の大活劇があるという小説ではない。作品中における時間の経過は、わずかのものにすぎない。登場人物も少ないと言っていいだろう。
が、その少ない登場人物たちのくりひろげる、人間の精神のドラマとでもいうべきものに、魅了されていることになる。とにかく、読んでいて面白いと感じるようになってきた。
その『明暗』の面白さを、国語学の観点から見るならば、やはり、登場人物のつかっていることばにあるだろう。
『三四郎』からはじまって、『こころ』にいたるまで、漱石は、女学生ことばをつかう女性を軸にすえて作品を書いてきている。それが、『道草』でなくなる。そして、『明暗』になると、基本的に、女性の登場人物は、女学生ことばを使っていない。(一部、例外的に、それかと思われる場面があるのだが、これはこれで別の問題があると思う。)
漱石が、女性のこころのうちを描くようになったのは、『明暗』においてであると言っていいだろう。それまでの漱石は、男性主人公の目で描いていた。女性は、あくまでも、見られる立場であった。主体性をもって行動するということがなかった。
しかし、『明暗』になると、女性の登場人物の心理描写、それから、会話文が圧倒的な迫力をもってせまってくる。時代が大正になり、二〇世紀の文学を書こうとした漱石の姿が、そこにはあると思う。
たとえば、津田の細君の名前は、いったい何なのであろうか。「お延」と書かれるところもあれば(地の文においては「お延」である)、会話の相手によって、「延子」「延子さん」と呼称されている。津田の妹の「お秀」についても、同様である。「お秀」と出てくるところもあれば、「秀子」になっているところもある。
このような箇所、気をつけながら読んでみたのだが、というよりも、今回、読みなおしてみて初めて気がついたというべきだが……漱石は、実にこまやかに、このような登場人物の呼称を、使い分けている。その使い分けで、会話している人間の、相手に対する立場や考え方を、暗に示している。
人間の精神のドラマとして読んでこそ、『明暗』は面白い。無論、その対極にある『草枕』の世界にもひかれるところがある。しかし、晩年の漱石が、人間のこころのうちを描いていって、その奥底にあるもの……エゴイズムと言っていいだろう……を、小説で描くことに到達したのが、『明暗』という作品であると感じるところがある。
この『明暗』は、今年になって、新潮文庫版で二回読んでいる。以前は、「漱石全集」で読んだり、「岩波文庫」で読んだりしてきた。新しい「定本漱石全集」で、刊行になったときにも読んでいる。
やまもも書斎記 2017年11月10日
『明暗』夏目漱石
http://yamamomo.m.asablo.jp/blog/2017/11/10/8724386
また、機会をみて、さらに『明暗』を読んでみたいと思う。
2019年12月19日記
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