新潮日本古典集成『源氏物語』(七)2020-01-06

2020-01-06 當山日出夫(とうやまひでお)

源氏物語(7)

石田穣二・清水好子(校注).『源氏物語』(七)新潮日本古典集成(新装版).新潮社.2014
https://www.shinchosha.co.jp/book/620824/

続きである。
やまもも書斎記 2019年12月30日
新潮日本古典集成『源氏物語』(六)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/12/30/9195432

この本を前回読んだときのことは、
やまもも書斎記 2019年3月1日
新潮日本古典集成『源氏物語』(七)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/03/01/9042032

この第六冊目には「総角」から「東屋」までをおさめる。

いよいよ浮舟の登場である。読みながら思うことであるが、この「宇治十帖」になってから、筆致が変わってきていることを感じる。今のことばでいえば心理描写に重きをおき、ああでもないこうでもないと考え続けるこころのうちの叙述が長くなっている。それと同時に、本編でみられた、風景描写であざやかに場面の転換をはかるということが見られなくなってくる。

都で、浮舟が、中の君のところをさって、小さな家に移るあたりとか、それから、宇治に行くあたりとか、本編の方であれば、きっぱりと、風景、季節の風物の描写から、登場人物の心理描写に移っていくであろうところである。

本編と「宇治十帖」でも変わっているが、「宇治十帖」になってからでも、筆致が変わっていっていることが感じ取れる。薫、匂宮、中の宮、それから、浮舟、これらのメインの登場人物のこころのうちを描くことに、この物語の作者のねらいがさだまっていくかのごとくである。

たぶん、浮舟のような登場人物(地方の受領の娘)が、身分の高い男性にみつけだされて、その寵愛をうける……こんな、昔物語が、先行するものとしてあったのだろう。

ここまで読んで来た印象としては、やはり「宇治十帖」は、『源氏物語』本編を書いた作者でなければ書けるものではないと感じるところがある。残りは、最後の八冊目である。

追記 2020-01-13
この続きは、
やまもも書斎記 2020年1月13日
新潮日本古典集成『源氏物語』(八)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/01/13/9201415

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