『国語教育 混迷する改革』紅野謙介2020-01-17

2020-01-17 當山日出夫(とうやまひでお)

国語教育

紅野謙介.『国語教育 混迷する改革』(ちくま新書).筑摩書房.2020
https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480072801/

国語学、日本語学という学問のはしくれで仕事をしてきた人間として、国語教育という分野のことは、まったく他人事ではない。また、今回の改革とされるものが、そもそもの教育と何か、学校はどうあるべきかの、根本にかかわる問題にもつながっている。等閑視するわけにはいかない。さらには、昨年から、議論のつづいている「古典は本当に必要なのか」の論点にもふみこむところがある。

もうやめてしまったのだが、以前、大学で、「アカデミック・ライティング」という授業を担当していたことがある。大学生に、論文やレポートの書き方を教えていた。そのとき、主に参考にしたのは、木下是雄の著作であった。直接、テキストに採用したのは、戸田山和久の『論文の教室』であった。

このとき、私は、学校における、(いまでいう)コミュニケーション・スキル、プレンゼテーション・スキルの重要性について、学生に語ったものである。そして、文学教育、情操教育に偏重している、日本の国語教育については、批判的であった。

だが、今になって、学習指導要領の改訂、さらには、大学入試共通テスト、これらによって変わるであろう、これからの日本の国語教育の未来には、不安を感じずにはいられない。

この本で直接対象としているのは、学習指導要領であり、予定されている大学入試共通テストである。大学入試共通テストについては、英語の民間試験利用が中止になったり、さらには、国語と数学における記述式問題の是非が話題になっている。

だが、問題は、国語の試験において、記述式問題を導入することにあるのではない。どのような試験を課すのか、それによって、どのような勉強が必要なるのか。影響の範囲は大きい。

同時に、大学入試の改革にあわせて、国語とく科目のカリキュラムも大きく変わろうとしている。

国語……ことばの教育……というのは、それを学ぶ人間のこころに刻み込まれる。場合によっては、人を傷つけもする。だからこそ、学校という場所における「ことば」は、より慎重でなければならない。ことばというものに対する畏敬の念が必要である。ことばの教育にうついては、常に謙虚である必要がある。

しかし、新しい学習指導要領を見ると、どうやらそうではないようだ。

ところで、「古典は本当に必要なのか」の議論と関連して、次の箇所を引用しておきたい。新しく設定される「言語文化」の授業について、次のように指摘する。

「もとより、自文化に対する知識と誇りをもたない者が、国際社会で自立した社会人として扱われることなどあり得ない」、藤森さんはそう書いています。しかし、それはずいぶん偏った認識です。中東やアフリカで内戦や混乱によって難民となり、あるいは他国に移り住んだ人がわずかな幸運と並々ならぬ努力によって国境を越えて新たな土地で活躍している、そうしたケースがたくさんあります。「国際社会で自立した社会人」というとき、そういう人たちの存在が浮かばないとしたら、思い描かれている「国際社会」といはせいぜい日本の延長線上にある名ばかりの「国際」社会ではないでしょうか。

以上、p.177

これからの日本、これからの国際社会において、古典教育とはどうあるべきか、改めてかえりみるべきところがある。

2020年1月12日記

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