『麒麟がくる』あれこれ「光秀、西へ」2020-01-21

2020-01-21 當山日出夫(とうやまひでお)

『麒麟がくる』第一回「光秀、西へ」
https://www.nhk.or.jp/kirin/story/1.html

トラブルがあったせいなのだが、今年の大河ドラマはスタートが少しおくれて、一九日の放送からとなった。そのせいもあってか、NHKがさかんに番組の宣伝をしていた。そのため、放送が始まるまでに、主な登場人物のことなど、いつの間にか憶えてしまった。

ともあれ、今回の大河ドラマの主人公は、明智光秀である。ということは、本能寺の変のところまで描くことになるのだろう。本能寺の変で信長が死ぬことになるはずだが、それで「麒麟」が来たことになるのだろうか、ふと今からそんなことを思ってみる。

ただ、このドラマの最終的な着地点はまだ決まっていないらしい。どのような本能寺の変を描くことになるのか、これが楽しみである。

第一回の放送を見たところで感想など書けば次の二点ぐらいだろうか。

第一は、やはり、従来のステレオタイプをなぞった戦国時代ドラマになっていること。

これは悪いと思っているのではない。このようなドラマの作り方がある、という一つの見方であることを、確認しておきたいのである。

ドラマのスタートは、野盗の襲撃から村人……その村人の仕事は、水田の稲作のようである……を守ること。この設定、どうしても、黒澤明の『七人の侍』を思ってしまう。水田で稲作をする無力な農民と、それを守る武士……この設定は、こういう歴史観なのだろうと思って見ていた。

第二は、堺の街の繁栄と京の荒廃。

実際の当時の京の街がどうであったか、これは歴史的にいろいろ言えそうだが、ドラマでは、商業で栄える堺の街と、戦乱で荒廃した京都を対照的に描いていた。この京の地において、覇権を確立することこそが、このドラマのテーマである「麒麟」に他ならないであろう。そして、その京において起こったのが、本能寺の変である。

以上の二点が見ていて思ったことなどである。

さらに書いておくならば、このドラマにNHKは力をいれてつくっていると感じる。特に、後半の京の街での火事のシーンなどは、撮影がたいへんだったろうと思うが、リアルな描写であった。

国語学、日本語学の観点から見るならば……このドラマでは、特に地方の方言は出てこないようだ。武士においても、極端な武士ことばとでもいうべき役割語をつかっていない。また、庶民という設定の登場人物でも、普通のことばをつかうようになっている。ただ、これも、これから京の公家などが登場するようになると、どうなるだろうか。

それから、余計なことかもしれないが、ドラマの最後で、ナレーション(市川海老蔵)が年号の「天文」を「てんぶん」と読んでいた。

次回は、戦国ドラマらしく合戦の場面となるようだ。これも期待して見ることにしよう。

2020年1月20日記

追記 2020-01-28
この続きは、
やまもも書斎記 2020年1月28日
『麒麟がくる』あれこれ「道三の罠」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/01/28/9207333