『きのね 下』宮尾登美子2020-01-24

2020-01-24 當山日出夫(とうやまひでお)

きのね(下)

宮尾登美子.『きのね 下』(新潮文庫).新潮社.1999(朝日新聞社.1990)
https://www.shinchosha.co.jp/book/129311/

続きである。
やまもも書斎記 2020年1月24日
『きのね 上』宮尾登美子

この小説の単行本が、一九九〇年。ということは、小説に登場する、その後の第十二代市川團十郎がまだ存命のときということになる。

私は歌舞伎の分野のことには疎いので、この小説が、どれほど実際にあったできごと、あるいは、歌舞伎役者の世界のことを、描いているのか見極めることがむずかしい。だが、読んで、その小説の世界のなかにひたっていくことを感じる。

下巻まで読んで感じるところは、次の二点だろうか。

第一には、人間の邪悪なこころである。

邪悪といってはいいすぎになるのかもしれないが、どんなに清らかなこころのように見えても、そのこころの奥底には、何かしら影がある。それは、場合によっては、嫉妬であるかもしれないし、あるいは、悔悟の念であるのかもしれない。また、時としては、それが、暴力的なかたちをとって現れることもあるだろう。

その人間のこころの奥底にある影のようなものを、宮尾登美子は、実に丹念に描く。小説の主人公、光乃によりそってこの小説は進行するのであるが、光乃のこころのうちは、揺れうごいている。ときに聖書を読みこころのなぐさめにするときもあるが、場合によっては、役者の妻としての立場がどうあるべきか、悩むこともある。 

一方、光乃が、ついには結婚することになる夫の雪雄(玄十郎)も、また、芸にかけては一流であったかもしれないが、家庭の人としては、常によい夫であったとも限らない。そこは、芸人としての生活がある。

第二には、老いと病である。

病気をあつかった小説は多くある。そのなかにあって、宮尾登美子という作家は、老いとか病とかを、非常に冷静に、あるいは、冷酷なまでに、見つめるとことろがある。この作品においても、最後は、雪雄も病にたおれ、光乃自身も、病気で亡くなる。このあたりは、伝記的な事実に即して書いてあるのだろうと思うが、読んで行って、おもわずに読みふけってしまう。(このあたりのことは、自分の身の上におこったことと引き比べてというところもあるのだが。)

以上の二点が、この小説を読んで感じるところなどである。

たぶん、歌舞伎について造詣のある人が読むならば、この小説は、ぐっと面白い作品であるにちがいない。残念ながら、私には、それだけの知識がない。とはいえ、上下巻をほぼ一気に読んでしまった。特に下巻がいい。晴れて妻となることができ、夫(雪雄)も、玄十郎を襲名する。このあたりの、歌舞伎役者の世界における、主人公の光乃の視点から、細やかにえがかれる。そして、さまざまに揺れうごく光乃のこころのうちに共感しながら読むことになる。

だが、光乃の生涯は、ある意味では忍従の一生であったのかもしれない。決して、近代という社会のなかで自立した生き方をしたというわけではない。夫があり、歌舞伎の家があり、そのなかで生きた生涯であった。あるいは、もう、このような人生を描いた小説というのは、はやらない時代をむかえているのかもしれない。今の若い人たちは、この小説をどう読むだろうか。

2019年12月29日記