『陽暉楼』宮尾登美子 ― 2020-02-06
2020-02-06 當山日出夫(とうやまひでお)

この作品は、再読になる。映画も見たと憶えている。探せば古い本がみつかるかとも思うが、新しい中公文庫版を買って読んだ。正直、読み始めるまえ、どうしようかと思った。一度読んでいるし、もう一回読むのも手間かな、という気もしないではなかった。しかし、読み終えたあとでは、やはり、この作品を読んでよかったと感じる。(ただ、本文の字が小さいのがつらかった。もう老眼である。)
『陽暉楼』を読んで思うことを書くならば次の二点。
第一には、昭和戦前の土佐の芸妓の世界。
芸妓のことを描いた作品である。小説は「保名」の踊りのシーンからはじまる。主人公は房子。芸妓……ただ、本文には、この語に「げいしゃ」のルビをつけた箇所がある……である。表向きは、芸で身を立てていることになる。その仕事の舞台を提供しているのが、陽暉楼という、妓楼というか、料亭というか、である。
踊りの稽古の場面とか、芸妓の日常生活、毎日の様子、一年の年中行事などが、こまやかな筆致で描かれる。表向きには華やかの芸妓の世界、お座敷の様子が、重厚で緻密な文章でつづってある。読みながら、このような芸の世界が昔はあったのか、と思う。
第二は、その世界の実情。
芸妓の世界といっても、これを、現代の価値観で表現するならば、人身売買であり、売春の横行する世界である。借金でがんじがらめされて、行動の自由をうばわれた芸妓。また、客がのぞむならば、その夜の相手もしなければならない。
この二つのことが、からまりあって物語は進行する。人身売買と売春の世界といってみたが、この作品には、そのことを、現代の価値基準から糾弾するようなところはない。ただ、そのような人びとの世界があり、そこに生きて、生活していた、多くの女性たち、また、男性たちがいた、このことを、情感を込めて描いている。そして、それは、もはや今のわれわれからすれば、失ってしまったものでもある。そこには、そこはかとない哀惜の情を感じるところもある。
とはいえ、この小説は、房子という芸妓の生涯……それは、今日の目からみれば残酷で不幸なものであるといえるかもしれないが……を、高知の陽暉楼という店においてくりひろげられる人間模様をからめながら、情緒をこめて描いている。芸妓という、いわば特殊な職業のことを描きながら、そこにあるのは、市井の人びとに共通する情感である。
この小説が、これからも読まれていくとするならば、一つには、昭和戦前の土佐の妓楼における人間ドラマとしてであり、さらには、そこから感じ取ることができる人間の情愛……芸にかける心意気であったり、家族の気持ちであったり、朋輩への思いやりであったり、あるいは、恋であったり、子どもへの思いであったり……さまざまな人間の情感を、こまやかで落ち着いた文章でつづってある……への共感においてであろう。
まさに宮尾登美子でなければ書けなかった小説であることを強く感じる。
2020年1月2日記
『陽暉楼』を読んで思うことを書くならば次の二点。
第一には、昭和戦前の土佐の芸妓の世界。
芸妓のことを描いた作品である。小説は「保名」の踊りのシーンからはじまる。主人公は房子。芸妓……ただ、本文には、この語に「げいしゃ」のルビをつけた箇所がある……である。表向きは、芸で身を立てていることになる。その仕事の舞台を提供しているのが、陽暉楼という、妓楼というか、料亭というか、である。
踊りの稽古の場面とか、芸妓の日常生活、毎日の様子、一年の年中行事などが、こまやかな筆致で描かれる。表向きには華やかの芸妓の世界、お座敷の様子が、重厚で緻密な文章でつづってある。読みながら、このような芸の世界が昔はあったのか、と思う。
第二は、その世界の実情。
芸妓の世界といっても、これを、現代の価値観で表現するならば、人身売買であり、売春の横行する世界である。借金でがんじがらめされて、行動の自由をうばわれた芸妓。また、客がのぞむならば、その夜の相手もしなければならない。
この二つのことが、からまりあって物語は進行する。人身売買と売春の世界といってみたが、この作品には、そのことを、現代の価値基準から糾弾するようなところはない。ただ、そのような人びとの世界があり、そこに生きて、生活していた、多くの女性たち、また、男性たちがいた、このことを、情感を込めて描いている。そして、それは、もはや今のわれわれからすれば、失ってしまったものでもある。そこには、そこはかとない哀惜の情を感じるところもある。
とはいえ、この小説は、房子という芸妓の生涯……それは、今日の目からみれば残酷で不幸なものであるといえるかもしれないが……を、高知の陽暉楼という店においてくりひろげられる人間模様をからめながら、情緒をこめて描いている。芸妓という、いわば特殊な職業のことを描きながら、そこにあるのは、市井の人びとに共通する情感である。
この小説が、これからも読まれていくとするならば、一つには、昭和戦前の土佐の妓楼における人間ドラマとしてであり、さらには、そこから感じ取ることができる人間の情愛……芸にかける心意気であったり、家族の気持ちであったり、朋輩への思いやりであったり、あるいは、恋であったり、子どもへの思いであったり……さまざまな人間の情感を、こまやかで落ち着いた文章でつづってある……への共感においてであろう。
まさに宮尾登美子でなければ書けなかった小説であることを強く感じる。
2020年1月2日記
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