『スカーレット』あれこれ「スペシャル・サニーデイ」2020-03-01

2020-03-01 當山日出夫(とうやまひでお)

『スカーレット』第21週「スペシャル・サニーデイ」
https://www.nhk.or.jp/scarlet/story/index21_200224.html

前回は、
やまもも書斎記 2020年2月23日
『スカーレット』あれこれ「もういちど家族に」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/02/23/9216781

この週は、スピンオフの物語であった。脚本も、新たに書いたものであった。

舞台は、大野家の喫茶店、サニー。

大野と妻の陽子が有馬温泉に孫をつれて行ってしまう。残ったのは、信作と百合子である。信作は、慣れない喫茶店のマスターになる。登場人物としては、まず、照子と夫の敏春が出てきていた。この週で、喜美子の出番はなかった。登場していたのは、回想シーンのみ。

これまで、この物語は、喜美子を中心に展開してきた。それを、妹の百合子の視点から見るとどうなるのか、あるいは、幼なじみの照子の視点から見るとどうなるのか、といったところだろうか。

なんだかんだと、てんやわんやの一日であったが、どうにかサニーの一日が終わった。たった一日のことを描くためだけに、一週間をつかっていたことになる。その長さを感じさせないほど、描かれていた中身は濃かったというべきだろうか。

ここで、あえてスピンオフの物語を、ドラマの終盤にさしかかろうかというところで持ってきた意図は何なのであろうか。おそらく、次週以降、『スカーレット』という喜美子を中心としたドラマは、急展開するのかもしれない。それにそなえて、一息いれると同時に、回想シーンを多く挿入することによって、これまでのこのドラマの流れを復習しておく、そんな意味合いがあったなのかと思う。

さて、次週以降、このドラマはどのような展開を見せることになるのか。楽しみに見ることにしよう。

2020年2月29日記

追記 2020-03-08
この続きは、
やまもも書斎記 2020年3月8日
『スカーレット』あれこれ「いとおしい時間」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/03/08/9221842

『おしん』あれこれ(その一一)2020-03-02

2020-03-02 當山日出夫(とうやまひでお)

続きである。
やまもも書斎記 2019年12月14日
『おしん』あれこれ(その一〇)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/12/14/9188996

今、ドラマは終盤である。スーパーたのくらの経営者としてのおしんの姿が描かれる。ここでは、もう「家」というものが表に出てこない。それよりも、「家族」である。田倉の「家族」の人びとの生活を描いているのが、このドラマの最後の部分であると見ている。

希望は、百合と結婚して、窯をつくり独立することになる。が、その百合も交通事故で死んでしまって、子どもの圭と生きていくことになる。

一方、長男の仁は、妻の道子との関係が今一つうまくいかない。かつての百合とのことが、どこかしこりになって残っている。家族とのことが順調でない仁は、そのこともあってか、より一層のことビジネスにのめり込んでいく。次々と支店を増やすことになる。

娘の禎も、結婚して、これはこれで田倉の経営の一部を担っている。

このような「家族」のなかにあって、けなげに生きているのは、初子である。田倉に奉公でやってきて以来、ずっとこの家に住み続けることになる。そして、今では、田倉の「家族」の一員である。

この田倉の「家族」の軸になる位置にいるのが、老年になったおしんということなのであろう。

かつて、このドラマは、「家」のドラマであった。山形の小作農とはいえ一つの「家」であった谷村、そして、佐賀の田倉の「家」での嫁としての生活。「家」から自由になることができたのが、東京で生活であったり、あるいは、これは短い期間ではあったが、酒田での飯屋の仕事であった。そして、最終的には、浩太の縁故ということで、三重におちついて、ここで生活の基盤を築くことになる。この三重の田倉は、「家」というよりも「家族」というべきであろう。

三重の田倉も、戦争を経て、竜三と雄の死ということがあった。田倉の「家族」は、おしんが支えてきた。そして、老年をむかえたおしんの気がかりなのが、この三重での田倉の「家族」の面々の生活ということになる。

また、酒田の加賀屋という「家」とともに生きざるをえなかった(そして、死んでしまったのが)加代ということになるであろうか。

それから、ドラマを見ていて感じるのは、このドラマは、まさに日本の戦後の復興から高度経済成長を描いていることである。この時代の流れに乗って、スーパーたのくらは営業規模を拡大してきている。そもそも、セルフのスーパーの方式が、戦後の生活スタイルの変化をうけてのものである。

『おしん』というドラマの戦後編は、戦後の日本の復興から経済成長をとげた時代における、ある一つの「家族」の物語として見ることができると思う。

さて、三月になって、一年続いてきたこのドラマも終わりに近づいてきた。以前の再放送の時に見ているので、最後のところはよく憶えているのだが、ここは、近代の日本とともに生きてきたおしんという女性の物語として、結末をもう一度見届けてみたいと思う。

2020年3月1日記

追記 2020-03-23
この続きは、
やまもも書斎記 2020年3月23日
『おしん』あれこれ(その一二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/03/23/9227300

『麒麟がくる』あれこれ「帰蝶の願い」2020-03-03

2020-03-03 當山日出夫(とうやまひでお)

『麒麟がくる』第七回「帰蝶の願い」
https://www.nhk.or.jp/kirin/story/7.html

前回は、
やまもも書斎記 2020年2月25日
『麒麟がくる』あれこれ「三好長慶襲撃計画」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/02/25/9217532

海から登場してきた信長が新鮮であった。

この週の見どころは、次の二点かと思う。

第一に、帰蝶のこと。

尾張の織田が、美濃の斎藤との和議を申し込んでくる。その条件として、帰蝶を欲しいという。だが、帰蝶はこれにあまり乗り気ではないようだ。

これまで、戦国時代ドラマとしては、幾たびも描かれてきた、帰蝶(濃姫)である。この『麒麟がくる』では、どのような人物として描かれることになるのか、興味深い。そういえば、以前の大河ドラマでは、『国盗り物語』では、松坂慶子が演じていたのを、私は憶えている。

第二に、海のこと。

道三は言っていた。美濃には海がない。海は、冨をもたらす。このような海――というよりも、海上交易――のことに直接言及したのは、大河ドラマの、それも戦国時代を描いたものとしては、珍しいかもしれない。

海上交易――言い換えるならば、非農業民による冨である。この海という視点を持ち込んできたことが、これからのこのドラマの展開に、どのような影響があるのだろうか。

以上の二点が、今回を見て思ったことなどである。

さらに書くならば、やはり謎なのが菊丸である。いとも簡単に信長のことを知っていた。ただの農民ではないようだ。これから、この菊丸が、ドラマの展開において、重要な意味を持ってくるのかもしれない。

また、以前にも書いたことだが、このドラマの演出では、女性が床に座るとき、立て膝で座るようにしている。時代考証としては、これであっていると思う。

次回、美濃と尾張の関係はどうなっていくのだろうか。結果としては、帰蝶は織田にとつぐことになるはずだが、そのプロセスをどのように描くことになるのか、楽しみに見ることにしよう。

2020年3月2日記

追記 2020-03-10
この続きは、
やまもも書斎記 2020年3月10日
『麒麟がくる』あれこれ「同盟のゆくえ」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/03/10/9222597

ヤツデ2020-03-04

2020-03-04 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日なので写真の日。今日はヤツデである。

前回は、
やまもも書斎記 2020年2月26日
木瓜のつぼみ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/02/26/9217935

我が家にいくつかのヤツデがある。晩秋から冬にかけて白い花を咲かせる。花の少ない冬の時期にあっては、貴重な花である。写真を写していると、虫がよってきていることが多い。

ヤツデの花といって思い出すのは、高村光太郎の詩である。冬になったことをイメージさせるものとして、ヤツデの花が出てきたのを憶えている。(ただ、その詩集は、今この文章を書いている手元にはない。)

掲載の写真は、以前に写しておいたものである。この花の時期は長い。

この花は、雌雄をめぐっていろいろ難しく、興味深いことがあるらしいのだが、よく調べないでいる。次のシーズンにまたこの花を写してみたいものである。

ヤツデ

ヤツデ

ヤツデ

ヤツデ

ヤツデ

ヤツデ

Nikon D500
AF-P DX NIKKOR 70-300mm f/4.5-6.3G ED VR

2020年3月3日記

追記 2020-03-11
この続きは、
やまもも書斎記 2020年3月11日
梅の花
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/03/11/9222952

『復活』(上)トルストイ/岩波文庫2020-03-05

2020-03-05 當山日出夫(とうやまひでお)

復活(上)

復活(上)

トルストイ.藤沼貴(訳).『復活』(上)(岩波文庫).岩波書店.2014
https://www.iwanami.co.jp/book/b248239.html

この作品は読んでいない本であった(と思う。)ひょっとして若いころに手にしたかもしれないのだが、今ではすっかり忘れてしまっている。昨年末(二〇一九)、『アンナ・カレーニナ』の光文社古典新訳文庫版(望月哲男訳)を読んだ。トルストイの作品を続けて読んでおきたくなって読んでいる。

やまもも書斎記 2019年12月27日
『アンナ・カレーニナ』トルストイ/望月哲男(訳)(一)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/12/27/9194202

岩波文庫で読んでみることにした。新潮文庫でも出ているのだが、岩波版の方が新しく刊行になっている。解説から読むと……この岩波文庫版は、古い訳をもとにしている。

一九六九年に、横田瑞穂・藤沼貴共訳で、講談社の世界文学全集。
一九七五年に、藤沼貴が全体に手を入れて、講談社の世界文学全集。
岩波文庫版は、これをさらに改稿したものである。

ただ、訳者の藤沼貴は、二〇一二年に亡くなっている。そのため、解説としては、一九七五年の講談社版の再録である。あとがきを、阿部昇吉が書いている。(以上の事情は、このあとがきによる。)

読んでみての印象は、訳文が古めかしいという感じである。ちょっと前の翻訳文である。これは、オリジナルが、一九六九年ということを考えれば、このような文体かなと思う。そして、この文章は、まさに文学の文体であることを感じる。

えてして、海外文学の翻訳は、ただ日本語に訳しただけという生硬なものがある。しかし、この作品の訳文は、実にこなれている。文学の日本語になっている。この日本語訳文が、『復活』という作品の魅力としてあると感じる。

上巻を読んだところで思うこととしては、次の二点であろうか。

第一に、ロシアにおけるキリスト教の信仰。「復活」というタイトル自体が、キリスト教の重要な要素である。それを、ロシア正教において、どのように人びとが理解して感じ取っていたことなのか、興味がある。あるいは、今の私には、今一つわからないところでもある。

第二に、農奴解放。主人公のネフリュードフは、貴族として土地を所有していることに罪悪感を感じている。それを、土地をたがやす農民に分け与えようととする。だが、そのネフリュードフの気持ちが理解されることは難しい。このあたりは、著者のトルストイの思想を強く反映したところだろうと思う。

以上の二点が、上巻を読んで思うことなどである。

さらに書けば、帝政ロシアの時代における、裁判、それから、犯罪者がはいる監獄のことなど、これはこれとして、非常に興味深いものがある。

それから、余計なことかもしれないが、「カチューシャの唄」が、この作品が演劇として日本で上演されたときに作られたものであることを知った。「カチューシャの唄」は、今では、YouTubeで聴くことができる。いろんな歌手が歌っているようだ。

「カチューシャかわいや わかれのつらさ」の歌詞である。松井須磨子の歌っているのを聴くことができる。
https://www.uta-net.com/movie/107491/

さて、続いて下巻である。ネフリュードフとカチューシャは、これからどうなっていくのだろうか。楽しみに読むことにしよう。

2020年2月24日記

追記 2020-03-06
この続きは、
やまもも書斎記 2020年3月6日
『復活』(下)トルストイ/岩波文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/03/06/9221152

追記 2020-03-12
林芙美子『放浪記』については、
やまもも書斎記 2020年3月12日
『放浪記』林芙美子
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/03/12/9223294

『復活』(下)トルストイ/岩波文庫2020-03-06

2020-03-06 當山日出夫(とうやまひでお)

復活(下)

トルストイ.藤沼貴(訳).『復活』(下)(岩波文庫).岩波書店.2014
https://www.iwanami.co.jp/book/b248241.html

続きである。
やまもも書斎記 2020年3月5日
『復活』(上)トルストイ/岩波文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/03/05/9220796

上巻に続けて下巻もほぼ一息に読んだ。だが、はっきり言って、この作品の結末がどうも今一つよくわからない、というのが正直なところ。

ネフリュードフとカチューシャの関係の結末が、なんとなくあっけない。

この文庫本の解説(藤沼貴、「トルストイの最後の長編小説『復活』、二〇〇九)を読むと、この小説は、一九世紀的リアリズムの小説ではない、ということらしい。作者は、さらにその次の段階の文学を目指していたようだ。

ただ、そうはいっても、読後感として残るのは、ある種の宗教的な感銘というべきものである。この作品の最後で、作者(トルストイ)の語っている宗教的なことばに、なるほどと感じるところがある、その一方で、ロシアのキリスト教については、どうにも理解が及ばないと感じるところがどうしてもある。やはり、ロシアのキリスト教についての理解、特に一九世紀から二〇世紀にかけての、についての知識が必要になる。

だが、よくわからないなりにも、この作品を読み終えて感じるところは、まさにトルストイならではの文学世界……それも、かなり宗教的な……を構築していることであり、それを、この訳文は見事に表現しているということである。この翻訳でなければ、かなり退屈して読んでしまったのではないかと思う。

2020年2月26日記

『極北』マーセル・セロー/村上春樹(訳)2020-03-07

2020-03-07 當山日出夫(とうやまひでお)

極北

極北

マーセル・セロー.村上春樹(訳).『極北』(中公文庫).中央公論新社.2020(中央公論新社.2012)
http://www.chuko.co.jp/bunko/2020/01/206829.html

続きである。
やまもも書斎記 2020年2月27日
『辺境・近境』村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/02/27/9218297

たまたまなのだが、私がこの本を読んだのは、『熱源』(川越宗一)を読んだ次ということになった。

やまもも書斎記 2020年2月15日
『熱源』川越宗一
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/02/15/9214035

極北の大地に国境は無い……このようなことを思った。

描かれているのは、極北の地域。強いて、現在の国名でいうならば、アメリカ(アラスカ)、ロシア、ということになる。このような国名のことは、作品中に出ては来るのだが、しかし、作中人物は、国家に帰属するという(つまり国民)ではない。自由に、北の極限の地域で、生きている。そして、自在に行動している。

時代設定としては、現代、あるいは、近未来、といっていいだろうか。特定の時間には設定されていない。しかし、読んで感じるところとしてある出来事としては、ソ連におけるシベリアでの核開発であったり、チェルノブイリ原発の事故であった……というようなことが、どことなくイメージされる。

このようなできごとがあっても、なおかつ、したたかに生きていく生命力の強さを感じる。ここに描かれているのは、根源的な人間の生命力とでもいうべきだろうか。

そして、日本において、二〇一一年の地震と津波、そして、福島の原子力発電所の事故……これらのできごとは、いまだに終わっていない……このことをどうしても思ってしまう。理不尽なできごと、自然災害、あるいは、人的な災害、だが、そのなかにあっても、強くいきづく生命のちからがあるとするならば、それは、人間がこの世界に生きることの意味に根源的に根ざしたものに他ならないであろう。

二〇世紀から二一世紀にかけて、この世界でおこった様々なできごと……その中には、災害のみならず、テロや戦争をふくめてもいいかもしれない……について、文学的想像力で何を描くことができるか、その極致にあるといっていいだろう。このような世界においても、人間が、文学という営為において何をなしうるか、そこを問いかけるところが、この作品にはあると感じる。

この本は、今日の世界において広く読まれるべき作品であると思う。

2020年2月18日記

追記 2020-03-20
この続きは、
やまもも書斎記 2020年3月20日
『雨天炎天』村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/03/20/9226037

『スカーレット』あれこれ「いとおしい時間」2020-03-08

2020-03-08 當山日出夫(とうやまひでお)

『スカーレット』第22週「いとおしい時間」
https://www.nhk.or.jp/scarlet/story/index22_200302.html

前回は、
やまもも書斎記 2020年3月1日
『スカーレット』あれこれ「スペシャル・サニーデイ」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/03/01/9219318

この週で描いていたのは、武志の病気のこと。

近年の朝ドラで、人が年をとること、また、病気になるということをじっくりと描いたものは珍しいのではないだろうか。それをこのドラマでは、女性陶芸家というヒロインを設定しながらも、一人の人間としてどのように生きていくのか、というあたりのことを深く掘り下げて描いている。

結局、武志は白血病ということなのだが、元気でいられる時間はそう長くないようだ。この武志についての喜美子の母親としての思い、その揺れうごくこころのうちを、丁寧に描写していたと感じる。

そして、この喜美子の思いをとりまく周囲の人びと……八郎であり、照子であり、また、陶芸教室であったり、このあたりの周囲の人びとのことも、きちんとあつかってあった。これは、この前の週が、異例のスピンオフであったこととも関連するだろう。先週の放送では、これまでの信楽での喜美子の一家の生活が、信作や百合子の視点を通じて、きめこまやかに描かれていた。

それをふまえて、この週の武志の病気のことにつながっている。

このドラマ、信楽初の女性陶芸家という側面をあつかってのストーリー展開かと思ってみていたのだが、そうではないようである。ここにきて、女性陶芸家ということは影をひそめている。むしろ、一人の人間として、母親として、どのように生きていくか、このところが扱われている。

さて、これから武志の病気はどうなるのだろうか。気になるところである。次週以降の展開を楽しみに見ることにしよう。

2020年3月7日記

追記 2020-03-15
この続きは、
やまもも書斎記 2020年3月15日
『スカーレット』あれこれ「揺るぎない強さ」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/03/15/9224356

東洋学へのコンピュータ利用(第32回)に行ってきた2020-03-09

2020-03-09 當山日出夫(とうやまひでお)

東洋学へのコンピュータ利用

3月6日、第32回の東洋学へのコンピュータ利用があったので、行ってきた。

http://kanji.zinbun.kyoto-u.ac.jp/seminars/oricom/2020.html

さて、この研究会、昨今の世情をかんがみて、はたして無事に開催されるかどうか心配だったのだが、中止にするということもなかったので、行ってきた。

発表は、午後からだったので昼前に家を出た。いつものように、近鉄から京阪に乗り換えて出町柳まで。電車は気のせいか乗客は少なかったような気がする。

昼過ぎに会場について、マスクをもらう。参加者は、発表者をふくめて、マスク着用ということだった。また、例年にくらべて、参加者の人数も少なかったように思う。発表は五件であったが、そのうち二件は、インターネットを使っての遠隔発表。北海道と広島からだった。これも異例のことだと思うが、しかし、このごろの世の中の情勢を考えると、このような方式もやむをえないかと思う。

発表についていろいろと思うことはあるが……私の興味関心の範囲でいえば、漢文をコンピュータ処理する、さらには、訓読、読み下し文まで作ってしまうようにする……これはこれとして非常に興味深いのだが、問題はその先に見えてくるものだろうと思う。それは、人間が、漢文を読む……日本語を母語としている人びとが、漢文という外国語を、日本語で読むということは、いったいどういう意味があるのか、ということの根源的な問いかけがあるはずである。

これまでの日本語研究、訓点語研究、漢文研究では、漢文の訓読ということについては、それが当たり前の読み方であるとして、扱われてきた。その上に、主に近代の訓点語研究の成果がある。これが、コンピュータで漢文を扱うとうことを経て、さらに次のステップの認識へといたるにちがいない。

たぶん、これは、私よりももっと若い、これからの次の世代の研究者たちの仕事ということになるのだろうと思う。コンピュータを使いこなした、漢文研究、あるいは、広く言語研究というのが、次の研究の分野として、確実に視野に入ってきたと感じる。

ただ、私としては、これからは、自分の好きな本を読んですごしたいとは思っている。最先端の研究動向は意識はするものの、自分の生活としては、「古典」を自分の目で読むことを優先させたいと強く感じる。

終わって懇親会。これも、例年よりは、かなり人数が少なかっただろうか。五人だけだった。店もすいているようだった。電車で家に帰った。帰りの電車も、こころなしかすいているように思えた。

家に帰ったら、一〇時半ぐらいだったろうか。普段、かなり早寝早起きの生活になってしまっているので、このような時間まで起きていることは珍しい。だが、翌日の朝は、いつもどおりにおきて、子ども(長女)を仕事に駅まで送っていった。午前中はゆっくりとして、午後からは本を読んですごすこととした。

来年の会は、2021年3月5日のこととのことである。

2020年3月8日記

『麒麟がくる』あれこれ「同盟のゆくえ」2020-03-10

2020-03-10 當山日出夫(とうやまひでお)

『麒麟がくる』第八回「同盟のゆくえ」
https://www.nhk.or.jp/kirin/story/8.html

前回は、
やまもも書斎記 2020年3月3日
『麒麟がくる』あれこれ「帰蝶の願い」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/03/03/9220152

この回を見て印象に残っていることとしては、次の二点だろうか。

第一には、光秀の母(牧)の言っていたこと。

国の興亡はあっても、自然は残る……このような意味のことを語っていた。国破れて山河あり、ということだろうか。このような母の教えは、これから戦国の世を生きていくことになる光秀にとってどのような意味があるのだろうか。

第二には、美濃の国の内情。

斎藤道三と織田との和議について、土岐としては快く思っていないようだ。これが、同時に、斎藤にあっても、道三と高政の確執につながっている。

以上の二つが、この回を見て印象に残っていることである。戦乱の時代にあって、光秀はどう生きていくことになるのであろうか。

さらに書いてみるならば、やはり海から登場してきた信長は新鮮な印象がある。海による交易がもたらす冨を、織田は手にいれていることになる。熱田の市もにぎわっているようだ。

それから、これは好みの問題だと思うのだが、斎藤高政の母の深芳野(南果歩)、ちょっと化粧が強すぎではなかろうか。そう思って見ると、駒(門脇麦)のヘアスタイルも、妙に現代的な感じがする。これを悪いという気はないのだが、ちょっと気にはなる。

そして、このドラマでは、女性が床に座るとき、立て膝で座る方針でいくようだ。織田の屋敷にやってきた帰蝶が、ひとり座敷のなかで座っているシーンが印象的であった。(時代考証としては、中世まで、人の座り方としてはこれが正しいと思っている。今のような正座が一般的になるのは、どう考えても、今の畳が普及してからのことだろう。)

さて、次回はどのような展開になるだろうか。どうやら菊丸はただの農民ではないようである。どうなるか、楽しみに見ることにしよう。

2020年3月9日記

追記 2020-03-17
この続きは、
やまもも書斎記 2020年3月17日
『麒麟がくる』あれこれ「信長の失敗」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/03/17/9225066