『源氏物語』岩波文庫(一)2020-03-16

2020-03-16 當山日出夫(とうやまひでお)

源氏物語(1)

柳井滋(他)(校注).『源氏物語(一)』(岩波文庫).岩波書店.2017
https://www.iwanami.co.jp/book/b297933.html

昨年(二〇一九)は、『源氏物語』を二回くりかえして読んだ。ひたすら順番に最初から最後までページを繰ることをしてみた。読んだ本は、新潮日本古典集成である。

他のテクストでも『源氏物語』を読んでおきたいと思って、岩波文庫を手にした。全部で九冊になる予定で、今年(二〇二〇年)になってから、七冊目が刊行になった。「宇治十帖」を残して、本編は全部そろっている。これで、ともかくも読んでみることにした。

岩波文庫の第一冊は、「桐壺」から「末摘花」までをおさめる。

読んで、その注釈を見て気になったことを書いてみる。二点ほどあげてみる。

第一には、「夕顔」の巻で、「六条の女」という言い方がしてある。これは、従来の注釈書では、「六条の御息所」であったところである。

これは、『源氏物語』の成立論、あるいは、受容史とも関連するが……たしかに、「桐壺」から順番に読んでいくならば、まだ「夕顔」の巻では、「六条の御息所」は、この名前では登場していない。この意味では、新しい岩波文庫は、『源氏物語』を順番に読んで行くという主義で注釈をほどこしてあると考えられる。これはこれで一つの立場ではあろう。

だが、このような読み方をするのならば、この立場を取るということを、明記しておくべきかもしれない。

第二には、「草子地」ということばを使っていないことである。

物語の作者、あるいは、語り手が、ふと表面に顔を出して、読者に対してことばに出す部分である。これを、旧来の『源氏物語』の注釈では、「草子地」といっていた。新潮日本古典集成の注釈などでは、その頭注で、「草子地」ということばで説明してあった。しかし、岩波文庫は、この用語を用いていない。そのかわりに、「作者」「語り手」ということで処理してある。

たぶん、「草子地」ということばを使わないことで、旧来の『源氏物語』の注釈から距離を置こうとしているのだろうと思われる。

以上の二点が、岩波文庫の『源氏物語』……これが、現在では最新の『源氏物語』の注釈書ということになるであろう……を読んで気のついたところである。

「六条の女」という言い方にしても、また、「草子地」ということばを使わないということにしても、この新しい注釈は、これまでの『源氏物語』の読み方から離れて、新しい知見で臨もうという意図があるようだ。注釈のいくつかのことばについてみても、従来の注釈書ではない解釈を採用したところが、かなり目につく。

ところで、「桐壺」から「末摘花」までを読んで思うこととして、三つばかり書いてみると、

第一には、「帚木」の「雨夜の品定め」の難解さである。若いころから、『源氏物語』は、折りに触れて手にすることがあった。そのなかで、「雨夜の品定め」の部分がどうにも理解しづらい。その思いは、新しい注釈で読んでも変わらない。

ストーリーの展開のうえでは、光源氏が、夕顔などの受領階層の娘を相手にすることになる伏線ということになるのだろうし、さらに具体的には、常夏という娘の存在が暗示されることになっている。いわゆる玉鬘系の物語の部分の出発点になるところである。

しかし、常夏という娘のことをいうためだけだとしても、「雨夜の品定め」の部分は、あまりにも余計な話しが多いという気がする。いったいなぜ、このような難解で、あるいは、無駄とも思えるような部分が書かれたのだろうか。

第二には、「若紫」において、まだ幼い少女の紫上を、光源氏が抱いて、成長したらきっと美人になるにちがいない、自分のもとで思い通りに育ててみたい、自分のところに引き取りたいと思うところ。このような箇所、確かに、思わず作品の中で読みふけってしまうような部分なのだが、ひるがえって考えてみるならば、このようなことは、今日の価値観からすれば、これは犯罪である。未成年者の誘拐に他ならないし、あるいは、一種、猟奇的な印象さえある。極限すれば、小児性愛でもある。

だが、そうは思ってみても、思わずに作品に読みふけってしまうというのは、まさに、これが文学であるということなのであろう。

第三には、「末摘花」において、その筆跡、あるいは、歌の書き方への言及である。古風な女ということになっている末摘花は、その書く歌もまた古風である。文字(仮名)の書き方などが、時代を感じさせるということになっている。

『源氏物語』自体が、その物語の設定は、一昔前の時代設定で書かれている。その物語中にあって、さらに古風なスタイルの文字の書き方というのは、やはり平安朝にあっても、その時代の流行とでもいうべき文字があったことを示すものなのであろう。

現代の国語学、日本語学において、単純に、万葉仮名(真仮名)から、草仮名、そして、平仮名へと変化して、文字(仮名)が成立したとは考えることはない。この経緯については、もっと複雑なところがあることが指摘されている。平仮名が成立して、それを使いこなして『源氏物語』が書かれたとしても、その時代にあっても、仮名とは、かなり多様な書きぶりをふくんでいたものと考えるべきだろう。

以上の、三点ぐらいが、「桐壺」から「末摘花」までを読んで思ったことなどである。つづけて、岩波文庫の本で読んでみたい。次の冊で「須磨」「明石」までたどりつくことになる。

2020年1月25日記

追記 2020-03-30
この続きは、
やまもも書斎記 2020年3月30日
『源氏物語』岩波文庫(二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/03/30/9229589