『おしん』あれこれ(その一二)2020-03-23

2020-03-23 當山日出夫(とうやまひでお)

続きである。
やまもも書斎記 2020年3月2日
『おしん』あれこれ(その一一)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/03/02/9219799

一年間の再放送がようやくおわった。以前に再放送されたとき、そのほとんどを見ているので、私が『おしん』を見るのは、二回目ということになる。

ふりかえってみるならば、このドラマがスタートしたのは、明治の終わりのころであった。それが、大正から昭和、そして、戦争の時代を経て、戦後の高度経済成長の時代までを描いてきたことになる。

このドラマが、最初に放送された当時は、ドラマの「現在」が、まさに現在であった時代である。高度経済成長を経て後、その後に迎えることになるバブル経済の時代より前の時期ということになる。この時代、このドラマの視聴者には、まさにおしんと同時代を生きてきた人びとが多くいたことになるのだろう。

そして、このドラマは、海外でも反響を呼んだ。おそらく、日本のテレビドラマにおいて、現代のアニメ作品をのぞいて、世界でもっとも多く知られている作品ではないだろうか。

平成の時代……今から振り返れば、失われた時代ということもできようが……を終えて、新しい時代になろうとしているとき、このドラマが問いかけてくるものはなんだろうか。それは、やはり、「近代」という時代を生きてきた人間のドラマということになるのかと思う。同時にまた、自立した人間の生き方を描いたドラマでもあった。

『おしん』に登場しない種類の人びとがいる。それは、サラリーマンである。ヒロインのおしんは、一貫して、自営業をいとなんでいる。それは、髪結いであったり、露天商であったり、魚の行商であったりした。最終的には、スーパーたのくらということになるが、おしんは、常に自分の力で生きてきた。また、いわゆる専業主婦ということもしていない。

このドラマが問いかけるものは、自立して生きる道をえらんだ人間の生き方ということになるのかもしれない。子守奉公からはじまるおしんの苦労の人生は、常に自立して生きる姿とともにあった。

日本の近代において、かつておしんが経験してきたような時代が確かにあったことを忘れてはいけないのだろう。それを、戦後の経済成長を遂げた時点で、ふりかえってみたところに、この『おしん』というドラマの意義があるにちがいない。そして、その意義は、現代においてもなお継続するものでもある。

この『おしん』というドラマは、おそらくは、これからも人びとの記憶の中に生き続けていくことになるにちがいないと思う。

さらに書いてみるならば……『おしん』の再放送の最終盤のころは、まさに日本において、新型コロナウイルスの災いにどう対処するべきか、社会が模索している時期でもある。この事態において、これまでの日本の社会がつみあげてきたシステムが崩壊の危機に直面している。

おしんは学校に通えなかった。「義務教育」という。これは、子どもを学校に通わせる義務のことである。その義務が、親にあり、それを、社会が保証しなければならない。子どもが持っているのは、教育をうける権利である。その権利を侵害することがあってはならない。

学校の一斉休校の要請があった。だが、これを語るときに、子どもに教育を受けさせる義務をどう保証するのか、子どもがもっている教育をうける権利がどう守られるべきなのか……ここのところの議論がまったくなかったといってよい。少なくとも、学校に休校を要請するならば、同時に、教育をうける権利をどう保障するのかが語られねばならなかった。しかし、現実には、日本の社会において、この論点が議論されることはなかった。

『おしん』というドラマは、過去のものではない。その描いたところは、今の、これからの日本の社会に、厳しい問いかけとなっている。

2020年3月22日記