『麒麟がくる』あれこれ「聖徳寺の会見」2020-04-21

2020-04-21 當山日出夫(とうやまひでお)

『麒麟がくる』第十四回「聖徳寺の会見」
https://www.nhk.or.jp/kirin/story/14.html

前回は、
やまもも書斎記 2020年4月14日
『麒麟がくる』あれこれ「帰蝶のはかりごと」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/04/14/9235150

この回のみどころは、やはり織田信長と斎藤道三の対面シーンだろう。これは、これまでに幾度となく、戦国時代ドラマに描かれてきたところである。

見た印象を記すならば……どうやら織田信長には、「天下」ということが見えているようである。尾張の国を守ることだけではなく、その先にある天下統一ということをなんとなく感じさせる信長であった。

それに対して、対照的であったのが、斎藤高政である。道三の子どもということだが、どうやらこの人物は、せいぜい美濃の国のことしか眼中にないようである。そして、父である道三と強く対立することになる。

そして、この回には登場していなかったが、帰蝶の存在というものを感じさせた。信長を影であやつっているのは、あるいは帰蝶なのかもしれない。

藤吉郎(後の豊臣秀吉)も登場していたが、まだ何者でもない。これが、織田信長と出会うことになるはずだが、それはどのようにこのドラマでは描かれることになるのだろうか。

また、ここまでの展開でも、光秀は歴史の目撃者という立場であった。

次回は、美濃の国の内紛を描くことになるようだ。これも楽しみに見ることにしよう。

2020年4月20日記

追記 2020-04-28
この続きは、
やまもも書斎記 2020年4月28日
『麒麟がくる』あれこれ「道三、わが父に非ず」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/04/28/9240154

スノーフレーク2020-04-22

2020-04-22 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日なので花の写真の日。今日はスノーフレークである。

前回は、
やまもも書斎記 2020年4月15日
散る桜
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/04/15/9235470

我が家の池のほとりにほんのわずかであるが、スノーフレークの花が咲く。特に世話をして育てているということもない。が、春になると、小さい花が咲く。今年もこの花の写真を撮ることができた。

ところで、なんで水曜日を写真の日にしているかというと……たまたま、ここ数年、水曜日が出講日になっているからである。今では、一科目「日本語史」のみ教えている。以前は、火曜日にも出講していた。家を留守にするので、本を読んだり文章を書いたりするのが、ちょっと手間である。ということで、水曜日を、写真の日ということににしたのだったと覚えている。それが習慣になって、水曜日は写真の日が続いている。

しかし、今年度は、新型コロナウイルスの影響で学校が無い。しばらく休校である。だから暇になっているかというとそうでもない。オンラインの授業の準備とかあって、それなりにすることはある。とはいえ、朝早く家を出る必要は無い。

毎朝、子ども(長女)を仕事に駅まで送っていって、帰ってから、NHKの朝ドラを見る。今は、『エール』である。だが、このドラマの収録も、新型コロナウイルスの影響で中断しているとのことである。いつまで放送がつづくのか、ちょっと気がかりなところもある。

雨が降っていない限り、朝早くに写真を撮りに外に出る。スノーフレークも、気をつけて見ていて、花の咲き始めたころから、写真に撮ったりしてきた。ただ、掲載の写真は、このために、それ専用にしているSDカードに記録するために、写真に撮ったものである。

これも、今年は、タムロンの180ミリをつかってみた。小さい花を、ちょっと距離をおいて接写できる。

スノーフレーク

スノーフレーク

スノーフレーク

スノーフレーク

スノーフレーク

Nikon D500
TAMRON SP AF 180mm F/3.5 Di MACRO 1:1

2020年4月22日記

追記 2020-04-29
この続きは、
やまもも書斎記 2020年4月29日
木蓮
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/04/29/9240532

『ラオスにいったい何があるというんですか?』村上春樹2020-04-23

2020-04-23 當山日出夫(とうやまひでお)

ラオスにいったい何があるというんですか

村上春樹.『ラオスにいった何があるというんですか?』(文春文庫).文藝春秋.2018
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167910563

続きである。
2020年3月20日
『雨天炎天』村上春樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/03/20/9226037

村上春樹の紀行文集である。収録してあるのは、次の文章。

チャールズ河畔の小径 ボストン1
綠の苔と温泉のあるところ アイスランド
おいしいものが食べたい オレゴン州ポートランド メイン州ポートランド
懐かしいふたつの島で ミコノス島 スペッツェス島
もしタイムマシーンがあったなら ニューヨークのジャズ・クラブ
シベリウスとカウリスマキを訪ねて フィンランド
大いなるメコン河の畔で ルアンプラバン(ラオス)
野球と鯨とドーナッツ ボストン2
白い道と赤いワイン トスカナ(イタリア)
漱石からモンまで 熊本県(日本)1
「東京するめクラブ」より、熊本再訪のご挨拶 熊本県(日本)2

ここ二〇年ぐらいの間に書かれた、いろんなところに行ったときの紀行文を編集したものである。

これを読んで思うことは、村上春樹という人は、実によく旅に出る人であるということ。そして、その行った先で、実に旅をたのしんでいる。

この本、他の本を読む合間に、一章づつ読むように読んでいったので、特に全体として印象に残ることがなく終わってしまった。だが、読みながら、ふと村上春樹の文学的想像力の世界に入り込んでしまうように感じるところがあった。

それから、この本に限らずいえることだが……村上春樹は、食べ物についての記述がうまい。そんなに高価なもの、珍味を食するということはない。旅に出て、そこにある普通の食堂やレストランで食事をしている。その描写が、実にいい。さりげなく、しかし、本当に食べることが好きでおいしいものを食べているという感じがつたわってくる。

また、日本においては熊本をたずねている。地震のある前と、あった後である。このような文章を読むと、村上春樹のもつ文学的想像力の世界をつよく感じる。地震の被害にもかかわらずそこに生きている熊本の人びとに共感するイメージがつたわってくる。文学者ならでは紀行文であると感じるところあった。

これは気楽に読むことのできる、村上春樹の紀行文集であると思う。

2020年3月13日記

オンライン授業あれこれ(その一)2020-04-24

2020-04-24 當山日出夫(とうやまひでお)

非常勤講師で教えている大学からは、まだ正式の通知はないのだが、たぶん前期の間は、オンライン授業になると考えている。予定では、通常の授業を5月11日から開始ということだが、たぶん無理だろう。すでにニュースなどでは、緊急事態宣言の延長をいつどのように決めるかということが、報じられるようになってきている。この先のことを楽観視する要因はひとつもない。

学生の履修登録が済んだ段階で、私の担当している日本語史の科目について、オンライン授業でどのように行うか、基本の方針を、大学のLMS(Learning Management System)「学生ポータルサイト」に掲載しておいた。(テキスト、PDF、Word文書ファイル、同一内容)。

基本的には、教材をオンラインで配布して、レポートを提出する。テキストを読み、文章を書くということを基本とした。

世の中の他の大学の動きなど見ていると、すでに前期の授業はオンラインと決めたところもいくつか目につく。京都の大学でも、その方針がHPなどで確認できるところが、いくつかある。

オンライン授業といっても、やり方は様々である。たとえば、WEBカメラとマイクをつかっての、リアルタイムでの双方向通信もある。その代表が、ZOOMの利用だろう。

だが、ZOOMの利用については、それを推奨する学校もある一方で、否定的な学校もある。セキュリティの問題もあるし、また、データ通信量の問題もある。あるいは、それに代わるものとして、音声データつきのPowerPointのスライドという方法もある。

これらの方法があるとしても、何よりも問題なのは、学生の利用可能な通信環境である。スマホを持っていない、パソコン(インターネットにつながっている)を持っていない、という学生が少なからず存在する。そのような学生が学校のPCを使おうと思っても、今は立ち入り禁止になってしまっている。(これは、特別に、PC利用のための許可を出すことでなんとかなるかもしれないが。)

とにかく、今の学生のコンピュータ利用の環境、インターネット接続の環境というのは、劣悪と言っていいだろう。自分の部屋の自分のパソコンがあり、固定光回線でインターネットにつながっている、というのは希少であると言ってもいいだろうか。

私が、オンライン授業を計画するときに考えたのは、次のようなことである。

より多くの学生が、より公平に、より無理なく、より継続的に……そして、それを担当する教員の側でも同じように、継続可能な方式は何であるか、ということである。

ところで、日本語史の科目で教えている内容は、基本的に、文字・表記、あるいは、文章についてのことである。大きなテーマとしては、日本文学はどのように書かれてきたか、ということで設定している。このような内容の場合、配布レジュメや解説文を読んで、それについてレポートで答えるという形で、十分になりたつ。いや、このようなテキストをベースにした授業の方が、より望ましいとさえも言えるかもしれない。

これが、音声や音韻、アクセントなどについての授業だったら、何らかの形で、音声や画像データを、学生に見聞きさせることが必用になる。しかし、文字や表記、文章といった分野のことであるから、基本的には、書いたものをじっくり読んでくれれば、それで教えたいことの意図は伝えることができる。

これまで(昨年度まで)、授業のプリントを、毎回A4で1枚、1ページあるいは裏表2ページで作って配布してきた。終わると、大学の学生ポータルに、PDFにして置いておくことにした。紙のものは、残さないことにしてきている。だから、大学の学生が利用するシステムに教材を置くことについては、私としては慣れているので問題はない。今回は、例年使ってきている教材プリントに、解説文を加筆したものを送信することを考えている。毎週読む負担を考えると、4ページ以内ぐらいだろうか。

レポートは、4回にするつもりでいる。数回分の授業について、要点をまとめて(数百字程度)、電子メールで送信ということにする。その電子メールの送信先は、大学の私のアカウントに指定しておく。また、この送信については、学生は、大学のメールから送信ということを、絶対条件にしておく。大学のメールがつかえることが、お互いの身分証明でもあることを、周知徹底させたいということもある。

4回のレポートで、各25点として、4回満足なものを出せば100点になる。これも、毎回レポートを提出させてもいいようなものかもしれないが、履修者数が100名を超えている。仮に7割の学生が提出したとしても、70名にはなる。これを、毎週適切に管理するのは、電子メールのシステムとしては、あまり現実的ではない。かといって、学期末の1回だけのレポートでは、適切に評価するのも難しい。4回ぐらいが妥当で現実的なところかと判断した。

先週、この授業をオンラインで行うときの方針について送信した。今週は、第1回のプリントと解説を、送信した。全部でA4で4ページ。これは、PDFとWord文書ファイルの両方で送信している。もし、学生の使っているのが、スマホだけであるとしても、このいずれかを開いて読むことは可能だろう。また、もしプリントアウトしたければ、今では、コンビニでプリントすることもできる。

学生がファイルを見れば、そのことが分かるようになっている。まだ、見ていない学生も少なからずいることは確かである。が、これも、正式に、大学から学生にオンライン授業の方針が示されれば、見てくれるだろう。

ともあれ、オンライン授業ということでやってみようと思っている。

2020年4月23日記

追記 2020-05-02
この続きは、
やまもも書斎記 2020年5月2日
オンライン授業あれこれ(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/05/02/9241775

『戦争と平和』(二)トルスト/岩波文庫2020-04-25

2020-04-25 當山日出夫(とうやまひでお)

戦争と平和(2)

トルストイ.藤沼貴(訳).『戦争と平和』(二)(岩波文庫).岩波書店.2006
https://www.iwanami.co.jp/book/b248227.html

続きである。
やまもも書斎記 2020年4月18日
『戦争と平和』(一)トルストイ/岩波文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/04/18/9236539

岩波文庫の第二冊は、第一部の第三編と第二部の第一・二編をおさめてある。ここまで読んで思うことは、次の二点ぐらいある。

第一に、ピエールとフリーメーソンのこと。

以前に新潮文庫で読んだときにも、フリーメーソンのことが出てきて、ちょっととまどった、というか、はっきりいってよく分からなかったところである。フリーメーソンについて、知識を得ようと思って、いろいろと見てはみるのだが、どうもよくわからない。これは、キリスト教を社会の基盤としていない日本においては、いたしかたのないところかもしれないが。

ただ、この小説は、これから、ピエールとフリーメーソンをめぐって大きく物語が展開することになる。このことは以前に読んでいるので記憶にに残っている。『戦争と平和』は、宗教にも踏み込んでいる作品であると認識している。

第二に、戦争というもの。

今の日本において「戦争」といって何をイメージするだろうか。この小説には、「戦闘」のシーンはかなり出てくる。そして、そこにおける人間のあり方に、ふと共感して読みふけってしまうところもある。

だが、この岩波文庫の第二冊の終わりのところで、一応の講和がなりたったあと、ロシアとフランスの両軍の軍人(といっていいのだろうか、ニコライなど)が、親しく歓談している様子が描かれる。ここのあたり、ナポレオンの時代の「戦争」とはいったいどんなものだったのか、少なくとも、第二次世界大戦とか、ベトナム戦争のようなものをイメージして読んではいけないのだろうということは、なんとなく分かる。

このあたり、「戦争」といっても、国民国家を総動員しての総力戦、ということではないようだ。いや、近代の国民国家というものが、誕生してくるのは、ナポレオン以降のことであると理解しておくべきかもしれない。(世界史の知識というと、高校のときに習ったぐらいしかない人間には、どうも理解が難しいところがある。)

以上の二点が、岩波文庫の第二冊を読んで思うことなどである。続けて、三冊目を読むことにしたい。

2020年3月4日記

追記 2020-05-14
この続きは、
やまもも書斎記 2020年5月14日
『戦争と平和』(三)トルストイ/岩波文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/05/14/9246472

『エール』あれこれ「君はるか」2020-04-26

2020-04-26 當山日出夫(とうやまひでお)

『エール』第4週「君はるか」
https://www.nhk.or.jp/yell/story/week_04.html

前回は、
やまもも書斎記 2020年4月19日
『エール』あれこれ「いばらの道」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/04/19/9236927

この週も様々な展開があったが、思うところは次の二点だろうか。

第一に、音楽家としての裕一。

裕一は、世界の作曲コンクールに応募する。そして、入賞をはたす。ご褒美として、イギリスへの留学がかなう(かもしれない。)たしかに裕一に音楽の才能はる。世界がそれを認めた。だが、すんなりと音楽の道にすすむことはできないようだ。養子の話しが、その妨げとなっている。

ともあれ、このような裕一をはげますことになるのは、音の存在である。

第二に、音との文通。

コンクールに入賞した裕一のことを新聞で知った音は、ファンレターを書く。それをきっかけに、二人は文通をはじめる。そして、どうやら、音は裕一のことを、また、裕一は音のことを、恋してしまったようだ。

文通だけで恋におちるものだろうか、という気がしないでもない。特に今日の感覚からすればそうだろう。だが、昭和のはじめである。文通だけでお互いの気持ちを確かめ合うことがあってもいい時代である。

以上の二点が、印象に残っているところであろうか。

それから、さらに書いてみるならば、銀行の仲間たちがこころやさしい。はたして銀行の業務の方は大丈夫なのだろうかと心配になってくることもあるが、ともかく職場においては、裕一は恵まれている環境といっていいだろう。

さらに、音の気性の激しさがある。姉にたのまれて見合いをするときのこと、男の後をついていくのはいやである、並んで歩きたいと、語っていた。このような音であるからこそ、これからの人生において、裕一のよき人生のパートナーになることになるのだろう。

次週、いよいよ裕一と音はめぐりあうことなるようだ。また、裕一は音楽の道にすすむことになるのだろう。楽しみに見ることしよう。

2020年4月25日記

追記 2020-05-03
この続きは、
やまもも書斎記 2020年5月3日
『エール』あれこれ「愛の狂騒曲」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/05/03/9242126

『源氏物語』岩波文庫(六)2020-04-27

2020-04-27 當山日出夫(とうやまひでお)

源氏物語(6)

柳井滋(他)(校注).『源氏物語(六)』(岩波文庫).岩波書店.2019
https://www.iwanami.co.jp/book/b458076.html

続きである。
やまもも書斎記 2020年4月20日
『源氏物語』岩波文庫(五)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/04/20/9237352

五冊目である。「柏木」から「幻」までをおさめる。この五冊目を読んで感じるところは次の二点ぐらいであろうか。

第一に、夕霧のこと。

「夕霧」の巻で、落葉宮との恋(あるいは、当時の風習にしたがえば、結婚といっていいか)が語られる。ここを読んで、いかにももどかしくあり、また、興味深いところがある。それは、光源氏の若いときの数々の恋にくらべて、いかにも、優柔不断という気がしてしまう。あるいは、雲井の雁との関係が面白いというべきか。

落葉宮との関係を読んでいると、近現代の恋愛小説を読んでいるような気にふとなったりもする。それほどまでに、ここのあたりで語られる恋というものが、人間の心理の綾に入り込んでいるというべきかもしれない。そして、ここでは、恋される側の女(落葉宮)と、男の妻(雲井の雁)との心理の交錯が、いったりきたりしながら描かれる。

このあたりになってくると、光源氏の「色好み」とはちょっと違った感覚で読むことになる。これは、続く、宇治十帖における、浮舟をめぐる恋の模様につながるものと感じる。「若菜 上下」ぐらいまでは、恋を描くのに、主に男性(光源氏)の視点で描いていた。それが、女性の視点から、恋される女の心理を描くようになってくる。

ここで描かれる恋は、むしろ近代のそれに近い感覚で読めるといってもいいだろう。

第二に、紫上の死。

「御法」「幻」の巻で描かれるのは、紫上の死である。おそらく、日本文学において、人間の死というものを、もっとも印象深く描いた作品であるといっていいだろう。

そして、すでにわかっていることだが、『源氏物語』では、光源氏の死を描かない。このことについては、この文庫本の解説で説明がある。読んでなるほどという気もする。だが、その一方で、もし光源氏の死を描くとしたら、どのように描けるのかとも思ってしまう。

紫上の死を描くことで、この『源氏物語』の主要な部分、紫上をめぐる物語は終わることになる。ある意味では、ここで、『源氏物語』は終わってもいいことなのかもしれない。これは、あまりに近代的な読み方かもしれない。(が、文学が文学であるというのは、近代、現代においても、それなりの読み方ができるということでもある。)

以上の二点が、この六冊目を読んで感じるところである。

それから、さらに書いてみるならば……紫上の死ということを描く一方で、小さな子どもの描写が印象的でもある。平安貴族の家庭というものを、現代の我々のそれと同じに考えることはできないだろうが、子どもをめぐる情感というものについては、共感するものがある。

さて、次は、七冊目になる。宇治十帖にはいることになる。続けてよむことにしたい。

2020年2月13日記

追記 2020-05-04
この続きは、
やまもも書斎記 2020年5月4日
『源氏物語』岩波文庫(七)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/05/04/9242605

『麒麟がくる』あれこれ「道三、わが父に非ず」2020-04-28

2020-04-28 當山日出夫(とうやまひでお)

『麒麟がくる』第十五回「道三、わが父に非ず」
https://www.nhk.or.jp/kirin/story/15.html

前回は、
やまもも書斎記 2020年4月21日
『麒麟がくる』あれこれ「聖徳寺の会見」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/04/21/9237651

このドラマの主人公は、あるいは帰蝶なのではないだろうか、と思わせる展開であった。

描いていたのは美濃の国の内紛。道三は出家して、家督を子どもの高政にゆずるが、それでうまくことが収まるということでは無かった。いや一層、二人の仲は険悪なものになっていったともいえる。

また、一方で、尾張の国においては、信長が実権をにぎることになる。ここに帰蝶の策略とでもいうべきものがあったことになる。

やはり、帰蝶はただものではなかった。

それにくらべて、本来、このドラマの主人公であるはずの光秀は、どうも存在感がない。歴史の大きな事件を動かす、その表舞台に出るということがない。あくまでも、歴史の目撃者の位置にいるようだ。

ところで、このドラマをこれまで見てきて、まだ「天下」ということが出てきていないように思える。歴史の結果としては、天下統一を成し遂げるのは信長であり、その後を継ぐのが秀吉(今の段階では、まだ藤吉郎)である。このことは歴史の結果として、今日の我々は知っている。そこにいたるまで、まだ「天下」ということが、戦国武将たちの意識のなかにはなかった時代のこと、ということなのであろう。

これから、このドラマにおいて、「天下」ということが、どのような形で登場してくるのか、このあたりが気になるところである。

次回、美濃の国の内紛のゆくえをどう描くことになるのか、そして、それが光秀の生き方にどう影響を及ぼすことになるのか、楽しみに見ることにしよう。

2020年4月27日記

追記 2020-05-05
この続きは、
やまもも書斎記 2020年5月5日
『麒麟がくる』あれこれ「大きな国」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/05/05/9242997

木蓮2020-04-29

2020-04-29 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日なので花の写真。今日は木蓮である。

前回は、
やまもも書斎記 2020年4月22日
スノーフレーク
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/04/22/9237986

我が家にある木蓮の木である。春になって、桜の花が咲くのに合わせて花が咲く。

日本国語大辞典(ジャパンナレッジ)を見る。

モクレン科の落葉低木。中国原産で観賞用に庭などに栽植される。高さ二~四メートル。

とあって、さらに説明がある。用例は、応永本論語抄(1420)、多識編(1631)、和英語林集成(初版)(1867)などにある。中世から用いられていることばのようである。

『言海』にもある。

もくれん 木蓮 名 古ク、木蘭(モクラニ)。樹、高サ八九尺、叢生ス、葉ノ長サ七八寸、柿ノ葉ノ如クニテ、末廣ク、光リテ亙生ス、春、新葉ヲ生ジ、夏ノ初メ、枝上ニ一花ヅツ開ク、七八瓣ニテ、形、蓮花ニ似テ、瓣狹ク、外ハ、深紫ニテ、内ハ、白クシテ紫ヲ帶ブ、香氣アリ、内ニ、寸許ノ心アリ、筆頭ノ如ク、紫刺亂布シ、邊ニ黄蘂アリ、多ク庭院ニ植ウ。

木蓮

木蓮

木蓮

木蓮

木蓮

木蓮

Nikon D500
TAMRON SP AF 180mm F/3.5 Di MACRO 1:1

2020年4月28日記

追記 2020-05-06
この続きは、
やまもも書斎記 2020年5月6日
カリン
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/05/06/9243426

『猫を棄てる』村上春樹2020-04-30

2020-04-30 當山日出夫(とうやまひでお)

猫を棄てる

村上春樹.『猫を棄てる-父親について語るとき-』.文藝春秋.2020
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163911939

村上春樹が書いた作品のなかでは、異色の一冊と言っていいだろう。主に、父親のこと、特に、戦争とのかかわりについて書かれている。読んで思うところは、次の二点ぐらいになるだろうか。

第一には、非常に重たい内容の本だということがある。

戦争……日中戦争から太平洋戦争にかけて……において、自分の父親が、軍隊でどのような行動をしていたのか、史実と、いくぶんの推量をまぜて、淡々と語っている。だが、そこで語られる内容は、日本軍の残虐さであり、悲惨な戦争の末路でもある。

村上春樹は、あまり歴史ということを書いていない。また、特に政治的ということもない。読んだ印象としては、どちらかといえば、意図的に、政治的であることを避けているようにも思える。

しかし、この文章では、歴史というもの、また、それをとりまく政治の大きな流れというものを、深く洞察していると感じさせる。

第二には、それにもかかわらず読後感としては、清涼な感じがすることである。

確かに重たい内容の本なのだが、それが、幼いときに猫を海辺に棄てに行った話しを発端として語られるせいもあるのかもしれない。読み終わって、そんなに重苦しい感じが残らない。

これは、村上春樹の文章の巧みさなのであろう。戦争というもの、歴史というものを語りながらも、その後には、一陣の風が軽やかに吹き抜けた後のような印象が残る。

以上の二点が、この本を読んで感じたところなどである。

おそらく、村上春樹の文学を理解するためには、重要な一冊であるにちがいない。歴史の流れのなかで、自らの生いたちをどのように感じているのか、特に、その父親のことをどう思っているのか、戦争について何を思うのか……その小説やエッセイでは、あまり描かれることのない部分を、きわめて率直な文章でつづってある。

2020年4月27日記