『阿部一族・舞姫』森鷗外 ― 2020-05-01
2020-05-01 當山日出夫(とうやまひでお)
森鷗外.『阿部一族・舞姫』(新潮文庫).新潮社.1968(2006.改版)
https://www.shinchosha.co.jp/book/102004/
続きである。
やまもも書斎記 2020年4月17日
『山椒大夫・高瀬舟』森鷗外/新潮文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/04/17/9236215
新潮文庫で読んでいる森鷗外作品の二冊目。次の作品が収録してある。
舞姫
うたかたの記
鶏
かのように
阿部一族
堺事件
余興
じいさんばあさん
寒山拾得
どれも昔に読んだことのある作品である。すっかり忘れてしまっていたものもあれば、覚えていたものもある。が、やはりこれらの作品のなかでは、「舞姫」であろう。
「舞姫」は明治二三年の作品である。日本文学史で言えば、二葉亭四迷の「浮雲」が書かれたのが、明治二〇年。ここから言文一致体の小説がスタートしたと考えてみるならば、その刊行の後に、文語文で書かれた「舞姫」ということになる。まあ、この数年のちがいは、ほとんど無視してもいいようなものかもしれないが、明治なって近代文学の成立に重要な位置をしめる作品が、刊行されたころということになる。
読むのは久しぶりである。最初に読んだのは、中学か高校のころだったろうか。学生のときにも読んだように覚えている。それ以来である。何十年ぶりかになるはずである。
「舞姫」は、読み継がれるべき作品であると感じる。これは、その主人公の青年の行動に肩入れするということではないが……しかし、考えてみれば、この主人公はかなり身勝手な人物ではあるが……読んでいて、硬質な文語文で語られるこの小説のなかに浸って読んでいることに気付く。良くも悪くも、これもまた明治の青年のあり方であったのだろう。そして、これは、明治になって近代日本が成立していくなかで、くぐり抜けなければならなかった一つの試練の物語であるようにも読める。
かつての日本において、西欧の異国に学び、そして、恋をして、結局選ぶことになったのは、文明開化ということなのかもしれない。このような時代がかつてあったということを確認するためにも、この小説は読まれてもいいだろう。無論、近代という時代の流れのなかにあった、一人の男性の悲恋の物語としても読める。
なお、新潮文庫版は、基本は、現代仮名遣い、新字体であるが、「舞姫」については、歴史的仮名遣いで本文が作ってある。ルビも歴史的仮名遣いになっている。これは、文語文で書かれた「舞姫」の文章を読むには、ふさわしい処置と言っていいのかもしれない。
それから、「寒山拾得」。これは、『文章読本』(三島由紀夫)で言及されている作品である。読んでみて、「水が来た」という一句には目がとまる。文豪鷗外ならではの練達の文章というべきであろう。
2020年4月27日記
https://www.shinchosha.co.jp/book/102004/
続きである。
やまもも書斎記 2020年4月17日
『山椒大夫・高瀬舟』森鷗外/新潮文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/04/17/9236215
新潮文庫で読んでいる森鷗外作品の二冊目。次の作品が収録してある。
舞姫
うたかたの記
鶏
かのように
阿部一族
堺事件
余興
じいさんばあさん
寒山拾得
どれも昔に読んだことのある作品である。すっかり忘れてしまっていたものもあれば、覚えていたものもある。が、やはりこれらの作品のなかでは、「舞姫」であろう。
「舞姫」は明治二三年の作品である。日本文学史で言えば、二葉亭四迷の「浮雲」が書かれたのが、明治二〇年。ここから言文一致体の小説がスタートしたと考えてみるならば、その刊行の後に、文語文で書かれた「舞姫」ということになる。まあ、この数年のちがいは、ほとんど無視してもいいようなものかもしれないが、明治なって近代文学の成立に重要な位置をしめる作品が、刊行されたころということになる。
読むのは久しぶりである。最初に読んだのは、中学か高校のころだったろうか。学生のときにも読んだように覚えている。それ以来である。何十年ぶりかになるはずである。
「舞姫」は、読み継がれるべき作品であると感じる。これは、その主人公の青年の行動に肩入れするということではないが……しかし、考えてみれば、この主人公はかなり身勝手な人物ではあるが……読んでいて、硬質な文語文で語られるこの小説のなかに浸って読んでいることに気付く。良くも悪くも、これもまた明治の青年のあり方であったのだろう。そして、これは、明治になって近代日本が成立していくなかで、くぐり抜けなければならなかった一つの試練の物語であるようにも読める。
かつての日本において、西欧の異国に学び、そして、恋をして、結局選ぶことになったのは、文明開化ということなのかもしれない。このような時代がかつてあったということを確認するためにも、この小説は読まれてもいいだろう。無論、近代という時代の流れのなかにあった、一人の男性の悲恋の物語としても読める。
なお、新潮文庫版は、基本は、現代仮名遣い、新字体であるが、「舞姫」については、歴史的仮名遣いで本文が作ってある。ルビも歴史的仮名遣いになっている。これは、文語文で書かれた「舞姫」の文章を読むには、ふさわしい処置と言っていいのかもしれない。
それから、「寒山拾得」。これは、『文章読本』(三島由紀夫)で言及されている作品である。読んでみて、「水が来た」という一句には目がとまる。文豪鷗外ならではの練達の文章というべきであろう。
2020年4月27日記
オンライン授業あれこれ(その二) ― 2020-05-02
2020-05-02 當山日出夫(とうやまひでお)
続きである。
やまもも書斎記 2020年4月24日
オンライン授業あれこれ(その一)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/04/24/9238660
今のところ、五月いっぱいは通常の教室での授業は中止ということになっている。その後、どうなるかわわからないが……たぶん、前期の間は再開は無理だろうと思っている。ニュースなどでは、今月(五月)の間は、緊急事態宣言はつづくらしい。それも状況によってはさらなる延長の可能性もある。
もし、何事もなければ、今年の予定では、カレンダーどおりに連休のはずであった。が、それも、前提が崩れてしまっている。いろいろ考えて、連休の間も教材を配信することにした。
その理由としては、
第一に、オンラインでの教材の配信であれば、学生が、物理的に時間や場所を拘束されることがない。自分の好きな時間に、インターネットからダウンロードできる。祝日だから休みにするということの意味がない。
第二に、今年度の初めの段階で、二回を休んでいる。情勢をみきわめる時間が必用であったし、学生の科目の履修登録が終了するのを待っていたということもある。この最初の休みになった分をおぎなう意味もあって、連休中も教材配信にした。そうすると、前期のうちに、ほぼ最初の予定どおり一五回をこなすことが可能になる。
以上のことを考えて、連休中ではあるが、教材の配信をしてある。
ただ、学生は、あまり大学のHPを見てはくれていないようである。今のところ、アクセス数は半分ほどであろうか。
だが、オンラインになったからといって、学生の全員がついてくると思うべきではないのかもしれない。通常の授業があるときでも、出席は、ほぼ半数程度である。出席は毎回確認している。少人数のゼミのような形態ならば、時間を決めて、リアルタイム双方向通信のシステム(ZOOMなど)をつかっての授業ということも考えるべきであろう。しかし、一〇〇人以上の学生を相手の概論的な講義である。無理に、学生を拘束することもないかと思っている。
おそらく、授業の種類によって、いろんな形態があっていい。卒論のゼミとか、あるいは、新入生の入門的な授業については、時間を決めて、リアルタイム双方向通信で行う必用があるだろう。しかし、すべての授業がそうであることもないと思う。
教材のオンライン配信という方式をとるということは、ある意味で、時間割を決めて、何曜日の何時間目、という制約が無くなることでもある。この制約の無くなることを、むしろ前向きにとらえて考えるべきかと思っている。これまでの学校のシステム、つまり、決められた時間に決められた場所(教室)に集まって、教師の話を聞くという形式が、自明のものではなくなってきているのである。
これは、今まで、このような既存のシステムではついてくることの難しかった学生が、逆に、学習しやすくなるという可能性がある。一方で、時間割があって決まっているからとにかく学校に出てきたという学生が、脱落していく可能性もある。これも、総合的に考えてみるならば、最終的には全体としてそう変わらないということになるのかもしれない。
授業の形態は変わる。教室での話しから、教材配信と課題提出ということになる。だが、そうはいっても、授業の目標、何を教えたいか、ということについては、いわゆる教育のレベルの保証が必用である。そのために、配信の教材は、なるべく丁寧に、しかし、読むのが負担にならないように、簡潔に分かりやすく書くことを、心がけることになる。これはこれで、教室で話しをするのとは、別の苦労と工夫が必用になることになる。
それから……リアルタイム双方向通信(ZOOMなど)では、スマホしか持っていない学生、自分のパソコンを持っていない学生を、見放すことになりかねない。ここは、より多くの学生が、より公平に、アクセス可能な方式を選ぶという選択もあっていいかと思う。
また考慮すべきこととして、学生の生活もある。経済活動が停滞してアルバイトもままならないであろう。そこに、既定の方針どおり時間割に従って時間を拘束することが適切かどうか……まあ、たしかに学生の本分は学業にあるといえばそれまでだが……しかし、現実の学生の生活のことも考えてやる必用があるとも、私は思う。
本来ならば、授業形態の変更に合わせてシラバスも書きかえ、内容も根本的に考える余裕、少なくとも一年ぐらいの余裕があってしかるべきところである。無論、学生はそのための準備(パソコンやインターネットへの接続など)も必要になってくる。だが、そうも言っていられない。走りながら考えるしかない。
幸い、昨年までの授業のプリントの蓄積がある。それに解説の文章を付け加えて説明するということでやってみようと思っている。そして、既存の「学校」というシステムとは何であったか、自分なりに考えることにしてみたい。
2020年5月1日記
続きである。
やまもも書斎記 2020年4月24日
オンライン授業あれこれ(その一)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/04/24/9238660
今のところ、五月いっぱいは通常の教室での授業は中止ということになっている。その後、どうなるかわわからないが……たぶん、前期の間は再開は無理だろうと思っている。ニュースなどでは、今月(五月)の間は、緊急事態宣言はつづくらしい。それも状況によってはさらなる延長の可能性もある。
もし、何事もなければ、今年の予定では、カレンダーどおりに連休のはずであった。が、それも、前提が崩れてしまっている。いろいろ考えて、連休の間も教材を配信することにした。
その理由としては、
第一に、オンラインでの教材の配信であれば、学生が、物理的に時間や場所を拘束されることがない。自分の好きな時間に、インターネットからダウンロードできる。祝日だから休みにするということの意味がない。
第二に、今年度の初めの段階で、二回を休んでいる。情勢をみきわめる時間が必用であったし、学生の科目の履修登録が終了するのを待っていたということもある。この最初の休みになった分をおぎなう意味もあって、連休中も教材配信にした。そうすると、前期のうちに、ほぼ最初の予定どおり一五回をこなすことが可能になる。
以上のことを考えて、連休中ではあるが、教材の配信をしてある。
ただ、学生は、あまり大学のHPを見てはくれていないようである。今のところ、アクセス数は半分ほどであろうか。
だが、オンラインになったからといって、学生の全員がついてくると思うべきではないのかもしれない。通常の授業があるときでも、出席は、ほぼ半数程度である。出席は毎回確認している。少人数のゼミのような形態ならば、時間を決めて、リアルタイム双方向通信のシステム(ZOOMなど)をつかっての授業ということも考えるべきであろう。しかし、一〇〇人以上の学生を相手の概論的な講義である。無理に、学生を拘束することもないかと思っている。
おそらく、授業の種類によって、いろんな形態があっていい。卒論のゼミとか、あるいは、新入生の入門的な授業については、時間を決めて、リアルタイム双方向通信で行う必用があるだろう。しかし、すべての授業がそうであることもないと思う。
教材のオンライン配信という方式をとるということは、ある意味で、時間割を決めて、何曜日の何時間目、という制約が無くなることでもある。この制約の無くなることを、むしろ前向きにとらえて考えるべきかと思っている。これまでの学校のシステム、つまり、決められた時間に決められた場所(教室)に集まって、教師の話を聞くという形式が、自明のものではなくなってきているのである。
これは、今まで、このような既存のシステムではついてくることの難しかった学生が、逆に、学習しやすくなるという可能性がある。一方で、時間割があって決まっているからとにかく学校に出てきたという学生が、脱落していく可能性もある。これも、総合的に考えてみるならば、最終的には全体としてそう変わらないということになるのかもしれない。
授業の形態は変わる。教室での話しから、教材配信と課題提出ということになる。だが、そうはいっても、授業の目標、何を教えたいか、ということについては、いわゆる教育のレベルの保証が必用である。そのために、配信の教材は、なるべく丁寧に、しかし、読むのが負担にならないように、簡潔に分かりやすく書くことを、心がけることになる。これはこれで、教室で話しをするのとは、別の苦労と工夫が必用になることになる。
それから……リアルタイム双方向通信(ZOOMなど)では、スマホしか持っていない学生、自分のパソコンを持っていない学生を、見放すことになりかねない。ここは、より多くの学生が、より公平に、アクセス可能な方式を選ぶという選択もあっていいかと思う。
また考慮すべきこととして、学生の生活もある。経済活動が停滞してアルバイトもままならないであろう。そこに、既定の方針どおり時間割に従って時間を拘束することが適切かどうか……まあ、たしかに学生の本分は学業にあるといえばそれまでだが……しかし、現実の学生の生活のことも考えてやる必用があるとも、私は思う。
本来ならば、授業形態の変更に合わせてシラバスも書きかえ、内容も根本的に考える余裕、少なくとも一年ぐらいの余裕があってしかるべきところである。無論、学生はそのための準備(パソコンやインターネットへの接続など)も必要になってくる。だが、そうも言っていられない。走りながら考えるしかない。
幸い、昨年までの授業のプリントの蓄積がある。それに解説の文章を付け加えて説明するということでやってみようと思っている。そして、既存の「学校」というシステムとは何であったか、自分なりに考えることにしてみたい。
2020年5月1日記
追記 2020-05-09
この続きは、
やまもも書斎記 2020年5月9日
オンライン授業あれこれ(その三)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/05/09/9244587
この続きは、
やまもも書斎記 2020年5月9日
オンライン授業あれこれ(その三)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/05/09/9244587
『エール』あれこれ「愛の狂騒曲」 ― 2020-05-03
2020-05-03 當山日出夫(とうやまひでお)
『エール』第5週「愛の狂騒曲」
https://www.nhk.or.jp/yell/story/week_05.html
前回は、
やまもも書斎記 2020年4月26日
『エール』あれこれ「君はるか」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/04/26/9239365
この週で裕一と音は結婚することになる。正式の結婚はまだのようだが、とにかく二人は結婚の意思を固める。
印象に残っているのは、次の二つぐらいだろうか。
第一には、豊橋の家でのできごと。
裕一をおいかけて父(三郎)が豊橋にやってくる。そこで、裕一、音、三郎、光子の四人で繰り広げることになった、ドタバタ劇が面白かった。たしか、この日は登場人物は四人だけだったかと覚えている。
ともあれ、なんだかんだとあって、光子は裕一と音とのことを許す。そして、三郎も認めることになった。このところが、コミカルでありながら、親の情愛、それから、裕一と音の気持ちが表現されていてよかったと思う。
第二には、音楽会のこと。
豊橋で裕一は音楽会をひらくことになる。結局、これは半分詐欺にあったようなものだったが。しかし、その音楽会の舞台で、歌を歌うことになる音を、裕一はよりそいはげましていた。この二人は、ともに人生を歩むパートナーとして、ふさわしいという感じであった。
以上の二つが特に印象に残っているところである。
さらに書いてみるならば、祭りの手筒花火のシーンが迫力があった。また、週の最後、海岸で叫ぶことになる、関内の家族と裕一のシーンががよかった。それから、最後のところで出てきた音楽家、志村けんが印象に残った。志村けんにとっては、このドラマが遺作ということになってしまった。
さて、次週は、裕一を音をめぐっていろいろとありそうである。楽しみに見ることにしよう。
2020年5月2日記
『エール』第5週「愛の狂騒曲」
https://www.nhk.or.jp/yell/story/week_05.html
前回は、
やまもも書斎記 2020年4月26日
『エール』あれこれ「君はるか」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/04/26/9239365
この週で裕一と音は結婚することになる。正式の結婚はまだのようだが、とにかく二人は結婚の意思を固める。
印象に残っているのは、次の二つぐらいだろうか。
第一には、豊橋の家でのできごと。
裕一をおいかけて父(三郎)が豊橋にやってくる。そこで、裕一、音、三郎、光子の四人で繰り広げることになった、ドタバタ劇が面白かった。たしか、この日は登場人物は四人だけだったかと覚えている。
ともあれ、なんだかんだとあって、光子は裕一と音とのことを許す。そして、三郎も認めることになった。このところが、コミカルでありながら、親の情愛、それから、裕一と音の気持ちが表現されていてよかったと思う。
第二には、音楽会のこと。
豊橋で裕一は音楽会をひらくことになる。結局、これは半分詐欺にあったようなものだったが。しかし、その音楽会の舞台で、歌を歌うことになる音を、裕一はよりそいはげましていた。この二人は、ともに人生を歩むパートナーとして、ふさわしいという感じであった。
以上の二つが特に印象に残っているところである。
さらに書いてみるならば、祭りの手筒花火のシーンが迫力があった。また、週の最後、海岸で叫ぶことになる、関内の家族と裕一のシーンががよかった。それから、最後のところで出てきた音楽家、志村けんが印象に残った。志村けんにとっては、このドラマが遺作ということになってしまった。
さて、次週は、裕一を音をめぐっていろいろとありそうである。楽しみに見ることにしよう。
2020年5月2日記
追記 2020-05-10
この続きは、
やまもも書斎記 2020年5月10日
『エール』あれこれ「ふたりの決意」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/05/10/9244938
この続きは、
やまもも書斎記 2020年5月10日
『エール』あれこれ「ふたりの決意」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/05/10/9244938
『源氏物語』岩波文庫(七) ― 2020-05-04
2020-05-04 當山日出夫(とうやまひでお)
柳井滋(他)(校注).『源氏物語(七)』(岩波文庫).岩波書店.2020
https://www.iwanami.co.jp/book/b492570.html
続きである。
やまもも書斎記 2020年4月27日
『源氏物語』岩波文庫(六)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/04/27/9239779
岩波文庫で七冊目である。「匂兵部卿」から「総角」までをおさめる。つまり、いわゆる匂宮三帖と、宇治十帖のはじまりである。この前の巻までで、紫の上は死に、そして、光源氏の死も暗示されて、新しい段階に物語ははいることになる。
読んで思ったことを書けば、次の二点ぐらいである。
第一に、匂宮三帖「匂兵部卿」「紅梅」「竹河」の巻については、はっきりいって読んで面白くない。古来から、これらの巻については、その成立をめぐっていろんな論がある。私としては、別作者とは思わないが、しかし、「御法」「幻」の巻までを書いてきた作者が、同じ筆致で書いたとも思えない。
ここは、続く宇治十帖との関連で考えるならば、作者……おそらくは紫式部……が、宇治十帖を構想するにあたって、光源氏の死とその後のことで、強引に物語を終わらせてしまった、と解しておきたい。でなければ、いかに光源氏の死を描かないとしても、その余韻とでもいうべきものが、あまりにも乏しいと感じられる。作者は、はやく、続く宇治十帖を書きたかったのであろう。そのために、光源氏の死を暗示し、そして、その他の登場人物のその後のことを描いて、とりあえず終了した形をとってみたのではないだろうか。
第二に、宇治十帖にはいって、これは心理小説だなと感じるところがある。これは、あまりに近代的な読み方かもしれない。
しかし、「古典」というものが、常に新しい読み方で享受されるものであることを考えてみるならば、これを近代的な心理小説として読んで悪いこともないだろう。無論、その一方で、この作品が成立した当時において、どのように読まれたものであったかという、日本文学としての研究の立場もある。が、ここは、私にとってはもう余生の読書である。『源氏物語』で論文を書こうとは思っていない。楽しみのために読んでいる。この意味では、今日的な読み方をしても、それは許されるものだと思う。
とにかく、読んでいって、作中の人物……薫、匂宮、大君、中君……これらの登場人物の心理の内側にはいりこんで、ああでもない、こうでもないと、いったりきたりしながら、あれこれと、思い続け、会話が続いていく。あるいは、この岩波文庫の注が、そのようなものとして、『源氏物語』を読んでいるとも解される。
以上の二点が、岩波文庫で、既刊の七冊を読んで思うことである。さて、この続きはどうしようか。岩波文庫では、まだ、この七冊目までしか刊行になっていない。岩波の新日本古典文学大系で読んでもいいようなものかもしれないが、どうも、この本が好きになれないでいる。(あまりに忠実に、底本の大島本に従っていることもあって、ちょっと読みづらいと感じるところがある。)
ここは割り切って、小学館の本で読んでみようかと思う。これも、はっきりいってあまり好きな本ではない。現代語訳がついていて、そこを読まなければならないようになっているのが、煩わしくもある。だが、現代では、小学館の新編全集版が、最も標準的な『源氏物語』のテクストであることは確かである。国立国語研究所のコーパスも、これを使っている。この意味では、このテクストでも読んでおきたいと思う。
どうせならということで、最初の「桐壺」からもう一度読んでおこうかと思う。『源氏物語』は、何度読んでもいい作品である。
2020年2月15日記
https://www.iwanami.co.jp/book/b492570.html
続きである。
やまもも書斎記 2020年4月27日
『源氏物語』岩波文庫(六)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/04/27/9239779
岩波文庫で七冊目である。「匂兵部卿」から「総角」までをおさめる。つまり、いわゆる匂宮三帖と、宇治十帖のはじまりである。この前の巻までで、紫の上は死に、そして、光源氏の死も暗示されて、新しい段階に物語ははいることになる。
読んで思ったことを書けば、次の二点ぐらいである。
第一に、匂宮三帖「匂兵部卿」「紅梅」「竹河」の巻については、はっきりいって読んで面白くない。古来から、これらの巻については、その成立をめぐっていろんな論がある。私としては、別作者とは思わないが、しかし、「御法」「幻」の巻までを書いてきた作者が、同じ筆致で書いたとも思えない。
ここは、続く宇治十帖との関連で考えるならば、作者……おそらくは紫式部……が、宇治十帖を構想するにあたって、光源氏の死とその後のことで、強引に物語を終わらせてしまった、と解しておきたい。でなければ、いかに光源氏の死を描かないとしても、その余韻とでもいうべきものが、あまりにも乏しいと感じられる。作者は、はやく、続く宇治十帖を書きたかったのであろう。そのために、光源氏の死を暗示し、そして、その他の登場人物のその後のことを描いて、とりあえず終了した形をとってみたのではないだろうか。
第二に、宇治十帖にはいって、これは心理小説だなと感じるところがある。これは、あまりに近代的な読み方かもしれない。
しかし、「古典」というものが、常に新しい読み方で享受されるものであることを考えてみるならば、これを近代的な心理小説として読んで悪いこともないだろう。無論、その一方で、この作品が成立した当時において、どのように読まれたものであったかという、日本文学としての研究の立場もある。が、ここは、私にとってはもう余生の読書である。『源氏物語』で論文を書こうとは思っていない。楽しみのために読んでいる。この意味では、今日的な読み方をしても、それは許されるものだと思う。
とにかく、読んでいって、作中の人物……薫、匂宮、大君、中君……これらの登場人物の心理の内側にはいりこんで、ああでもない、こうでもないと、いったりきたりしながら、あれこれと、思い続け、会話が続いていく。あるいは、この岩波文庫の注が、そのようなものとして、『源氏物語』を読んでいるとも解される。
以上の二点が、岩波文庫で、既刊の七冊を読んで思うことである。さて、この続きはどうしようか。岩波文庫では、まだ、この七冊目までしか刊行になっていない。岩波の新日本古典文学大系で読んでもいいようなものかもしれないが、どうも、この本が好きになれないでいる。(あまりに忠実に、底本の大島本に従っていることもあって、ちょっと読みづらいと感じるところがある。)
ここは割り切って、小学館の本で読んでみようかと思う。これも、はっきりいってあまり好きな本ではない。現代語訳がついていて、そこを読まなければならないようになっているのが、煩わしくもある。だが、現代では、小学館の新編全集版が、最も標準的な『源氏物語』のテクストであることは確かである。国立国語研究所のコーパスも、これを使っている。この意味では、このテクストでも読んでおきたいと思う。
どうせならということで、最初の「桐壺」からもう一度読んでおこうかと思う。『源氏物語』は、何度読んでもいい作品である。
2020年2月15日記
『麒麟がくる』あれこれ「大きな国」 ― 2020-05-05
2020-05-05 當山日出夫(とうやまひでお)
『麒麟がくる』第十六回「大きな国」
https://www.nhk.or.jp/kirin/story/16.html
前回は、
やまもも書斎記 2020年4月28日
『麒麟がくる』あれこれ「道三、わが父に非ず」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/04/28/9240154
このまま新型コロナウイルスによる休業がつづけば、このドラマも、遠くないうちに休止ということになっているそうである。どうなるかわからないが、いたしかたのないことかと思う。
ともあれ、この回を見て思ったことは次の二点。
第一に、光秀の行動原理はいったい何であろうかということ。
光秀は、高政に領地を代えることを伝えられる。明智の土地を離れることになる。ここにおいて、光秀は今一つ釈然としないようだ。
明智の地に対するパトリオティズム(愛郷心)といっていいだろうか。このドラマの始まりのときは、のどかな田園風景からスタートしていたのを思い出す。明智の地は、光秀にとって故郷なのである。その地を、領主の命令であるからといって、そう簡単に出て行けるものではないようだ。
しかし、明智の地についてのパトリオティズムが、光秀の行動原理になっているかというとそうでもないように思える。一方で、道三に対する忠誠心とでもいうべきものがある。あるいは、美濃の国を思う気持ちと言ってもいいかもしれない。それが、光秀を尾張の帰蝶のもとに行かせることにもなっている。
そして、おそらくこのドラマが展開していく次のステップとしては、信長を中心として、「天下」を視野にいれた、家臣団の一員としてどう行動するか、ということになるのだろうと思う。
第二、その「天下」である。
このドラマでは、まだ「天下」ということばは出てきていない。だが、道三には、「天下」ということが意識されていたようである。それを、「大きな国」と言っていた。
これから、信長や秀吉といった戦国武将たちは、「天下」を目指すことになるはずである。ただ、美濃の国や、尾張の国の、安寧秩序だけを考えていればよいという段階から、「天下」を視野にいれるまで、どのような紆余曲折の心理を描くことになるのか。
尾張や美濃といった地域についてのリージョナリズム(地域主義)から、「天下」への流れを、このドラマはどう描くことになるのか、興味のあるところである。(だが、たぶんその前に放送の休止ということになってしまいかねないが。)
それにしても、道三はかっこよかった。一国をおさめる戦国大名、かくあるべしという姿だったかと思う。ただ、歴史の結果を知っている現代の目から見るならば、道三は、やや早く生まれすぎたということになるのかもしれない。結局、道三は、「天下」をねらう位置につくことはできずに終わることになる。
以上の二点が、この回を見て思ったことなどである。
さらに書いてみるならば、やはり帰蝶のことがある。戦国乱世の時代にあって、信長の妻として、したたかに生きているようである。あるいは、このドラマの今後の展開のキーとなる人物なのであろか。
また、ちょっとだけ出てきていたが、伊呂波太夫もただものではない。ひょっとすると、光秀のこれからの人生の歩みに深くかかわることになるのかもしれない。
次回、長良川の戦いになるようだ。楽しみに見ることにしよう。
2020年5月4日記
『麒麟がくる』第十六回「大きな国」
https://www.nhk.or.jp/kirin/story/16.html
前回は、
やまもも書斎記 2020年4月28日
『麒麟がくる』あれこれ「道三、わが父に非ず」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/04/28/9240154
このまま新型コロナウイルスによる休業がつづけば、このドラマも、遠くないうちに休止ということになっているそうである。どうなるかわからないが、いたしかたのないことかと思う。
ともあれ、この回を見て思ったことは次の二点。
第一に、光秀の行動原理はいったい何であろうかということ。
光秀は、高政に領地を代えることを伝えられる。明智の土地を離れることになる。ここにおいて、光秀は今一つ釈然としないようだ。
明智の地に対するパトリオティズム(愛郷心)といっていいだろうか。このドラマの始まりのときは、のどかな田園風景からスタートしていたのを思い出す。明智の地は、光秀にとって故郷なのである。その地を、領主の命令であるからといって、そう簡単に出て行けるものではないようだ。
しかし、明智の地についてのパトリオティズムが、光秀の行動原理になっているかというとそうでもないように思える。一方で、道三に対する忠誠心とでもいうべきものがある。あるいは、美濃の国を思う気持ちと言ってもいいかもしれない。それが、光秀を尾張の帰蝶のもとに行かせることにもなっている。
そして、おそらくこのドラマが展開していく次のステップとしては、信長を中心として、「天下」を視野にいれた、家臣団の一員としてどう行動するか、ということになるのだろうと思う。
第二、その「天下」である。
このドラマでは、まだ「天下」ということばは出てきていない。だが、道三には、「天下」ということが意識されていたようである。それを、「大きな国」と言っていた。
これから、信長や秀吉といった戦国武将たちは、「天下」を目指すことになるはずである。ただ、美濃の国や、尾張の国の、安寧秩序だけを考えていればよいという段階から、「天下」を視野にいれるまで、どのような紆余曲折の心理を描くことになるのか。
尾張や美濃といった地域についてのリージョナリズム(地域主義)から、「天下」への流れを、このドラマはどう描くことになるのか、興味のあるところである。(だが、たぶんその前に放送の休止ということになってしまいかねないが。)
それにしても、道三はかっこよかった。一国をおさめる戦国大名、かくあるべしという姿だったかと思う。ただ、歴史の結果を知っている現代の目から見るならば、道三は、やや早く生まれすぎたということになるのかもしれない。結局、道三は、「天下」をねらう位置につくことはできずに終わることになる。
以上の二点が、この回を見て思ったことなどである。
さらに書いてみるならば、やはり帰蝶のことがある。戦国乱世の時代にあって、信長の妻として、したたかに生きているようである。あるいは、このドラマの今後の展開のキーとなる人物なのであろか。
また、ちょっとだけ出てきていたが、伊呂波太夫もただものではない。ひょっとすると、光秀のこれからの人生の歩みに深くかかわることになるのかもしれない。
次回、長良川の戦いになるようだ。楽しみに見ることにしよう。
2020年5月4日記
追記 2020-05-12
この続きは、
やまもも書斎記 2020年5月12日
『麒麟がくる』あれこれ「長良川の対決」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/05/12/9245737
この続きは、
やまもも書斎記 2020年5月12日
『麒麟がくる』あれこれ「長良川の対決」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/05/12/9245737
カリン ― 2020-05-06
2020-05-06 當山日出夫(とうやまひでお)
水曜日は花の写真の日。今日はカリンである。
前回は、
やまもも書斎記 2020年4月29日
木蓮
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/04/29/9240532
学生のころ、しばらく板橋に住んでいたことがある。大学のある三田からだと、都営地下鉄の三田線で一本である。途中に神保町の駅もある。
三田線は、巣鴨で山手線と乗り換えることになる。巣鴨の駅ではよく乗り降りしたものである。そのころはそんなに有名ではなかったと思うが、とげぬき地蔵の商店街にも何度か足をはこんだことがある。
そこで、カリンの実を売っているのを目にしたのを記憶している。今では、どうなっているだろうか。が、そのころは、特に気にすることもなく、カリンの実を店で売っているのを見ていた。その後、何かのおり、東京で売られているカリンの実のかなりの部分が、巣鴨で売られているというようなことを書いた記事を、新聞か雑誌かで目にしたことがある。そういえば、普通のスーパーなどでは、カリンの実を目にすることはあまりなかったように思う。(これも、今ではどうなっているか知らないのだが。)
ともあれ、カリン、その実というのは、学生のころ、目にして記憶に残っている。そのカリンの木が我が家にもある。実のなるときは、気をつけているようにしている。
今日、掲載しておくのは、そのカリンの花である。先月のうちに写しておいたものである。
日本国語大辞典(ジャパンナレッジ)を見る。
バラ科の落葉高木。中国原産で、日本へは古くから渡来し、庭園などに栽植される。
とあり、さらに説明がある。用例は、古いもので、俳諧・増山の井(1663)からある。近世になってから、この語が見えるようだ。
『言海』にもある。
くゎりん 名 〔木理、花櫚(クワリン)ニ似タレバ轉呼ス〕 喬木ノ名、高サ一二丈、幹ノ皮、一二寸毎ニ、鱗ノ如ク落チテ、痕(アト)美シ、葉ハ林檎ニ似テ長大ニシテ、細カキ刻ミアリ、質堅ク、互生ス、春ノ末、五瓣ノ淡紅花ヲ開ク、實ハ、秋、熟ス、まくはうりニ似テ小ク、末、廣ク、香氣多シ、蜜ニ漬ケテ菓トス、木理、密ニ、淡紅色ニシテ、花櫚(クワリン)ニ似タレドモ、質、ヤハラカニシテ、磨ギテ光無シ。 榠樝
水曜日は花の写真の日。今日はカリンである。
前回は、
やまもも書斎記 2020年4月29日
木蓮
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/04/29/9240532
学生のころ、しばらく板橋に住んでいたことがある。大学のある三田からだと、都営地下鉄の三田線で一本である。途中に神保町の駅もある。
三田線は、巣鴨で山手線と乗り換えることになる。巣鴨の駅ではよく乗り降りしたものである。そのころはそんなに有名ではなかったと思うが、とげぬき地蔵の商店街にも何度か足をはこんだことがある。
そこで、カリンの実を売っているのを目にしたのを記憶している。今では、どうなっているだろうか。が、そのころは、特に気にすることもなく、カリンの実を店で売っているのを見ていた。その後、何かのおり、東京で売られているカリンの実のかなりの部分が、巣鴨で売られているというようなことを書いた記事を、新聞か雑誌かで目にしたことがある。そういえば、普通のスーパーなどでは、カリンの実を目にすることはあまりなかったように思う。(これも、今ではどうなっているか知らないのだが。)
ともあれ、カリン、その実というのは、学生のころ、目にして記憶に残っている。そのカリンの木が我が家にもある。実のなるときは、気をつけているようにしている。
今日、掲載しておくのは、そのカリンの花である。先月のうちに写しておいたものである。
日本国語大辞典(ジャパンナレッジ)を見る。
バラ科の落葉高木。中国原産で、日本へは古くから渡来し、庭園などに栽植される。
とあり、さらに説明がある。用例は、古いもので、俳諧・増山の井(1663)からある。近世になってから、この語が見えるようだ。
『言海』にもある。
くゎりん 名 〔木理、花櫚(クワリン)ニ似タレバ轉呼ス〕 喬木ノ名、高サ一二丈、幹ノ皮、一二寸毎ニ、鱗ノ如ク落チテ、痕(アト)美シ、葉ハ林檎ニ似テ長大ニシテ、細カキ刻ミアリ、質堅ク、互生ス、春ノ末、五瓣ノ淡紅花ヲ開ク、實ハ、秋、熟ス、まくはうりニ似テ小ク、末、廣ク、香氣多シ、蜜ニ漬ケテ菓トス、木理、密ニ、淡紅色ニシテ、花櫚(クワリン)ニ似タレドモ、質、ヤハラカニシテ、磨ギテ光無シ。 榠樝
Nikon D500
TAMRON SP AF 180mm F/3.5 Di MACRO 1:1
2020年5月5日記
『雁』森鷗外 ― 2020-05-07
2020-05-07 當山日出夫(とうやまひでお)
森鷗外.『雁』(新潮文庫).新潮社.1948(2008.改版)
https://www.shinchosha.co.jp/book/102001/
続きである。
やまもも書斎記 2020年5月1日
『阿部一族・舞姫』森鷗外
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/05/01/9241393
この作品も、若いときに確か読んだという記憶がある。だが、もうかなり昔のことになるので、忘れてしまっている。何十年ぶりになるだろうか、読みかえしてみての感想であるが、はっきりいって、この作品は今一つよくわからない。
いったい、この小説における「僕」は何者なのだろう。この小説は、「僕」の語りからスタートする。そう思ってよんでいくと、岡田が出てきて、また、お玉が登場する。お玉のことを語っているあたりは、まったく第三人称描写といってよい。ひとしきり、お玉の身の上のことで話しが進んでいって、最後には、また、「僕」と岡田のことで終わる。どうもよくわからない、というのが正直なところである。
それから、これは、日本語学、国語学の視点から気になったことだが、お玉の使っていることばの位相、あるいは、役割語としてのはたらきが、これも今一つはっきりしない。たぶん、この小説が書かれた当時の日本語にあっては、お玉のつかっていることばは、ある位相に属していたものとして読まれたであろうことは確かだろうが、それがよく理解できない。
これは、例えば、夏目漱石の作品に出てくる女性が、女学生ことば、てよだわことばを使っているのに比べてみると、違いが目立つ。
さらに思うこととしては、この小説が書かれたのは明治四四年である。が、小説の時代設定は、明治一三年になっている。一時代前の、いやもっと前になるだろう、日清、日露の戦争の前、そのさらに前の時代、西南戦争が終わったあたりの時代である。この時代のこととして、この小説が語られる意味は何なんだろう。
などと、いろいろと思ってはみるのだが、しかし、読み終えた後には、文学的な余韻が残る。こういうのを文学というのだろうとは感じるところがある。この作品は、さらに改めて読みなおしてみたいと思うところがある。
2020年4月27日記
https://www.shinchosha.co.jp/book/102001/
続きである。
やまもも書斎記 2020年5月1日
『阿部一族・舞姫』森鷗外
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/05/01/9241393
この作品も、若いときに確か読んだという記憶がある。だが、もうかなり昔のことになるので、忘れてしまっている。何十年ぶりになるだろうか、読みかえしてみての感想であるが、はっきりいって、この作品は今一つよくわからない。
いったい、この小説における「僕」は何者なのだろう。この小説は、「僕」の語りからスタートする。そう思ってよんでいくと、岡田が出てきて、また、お玉が登場する。お玉のことを語っているあたりは、まったく第三人称描写といってよい。ひとしきり、お玉の身の上のことで話しが進んでいって、最後には、また、「僕」と岡田のことで終わる。どうもよくわからない、というのが正直なところである。
それから、これは、日本語学、国語学の視点から気になったことだが、お玉の使っていることばの位相、あるいは、役割語としてのはたらきが、これも今一つはっきりしない。たぶん、この小説が書かれた当時の日本語にあっては、お玉のつかっていることばは、ある位相に属していたものとして読まれたであろうことは確かだろうが、それがよく理解できない。
これは、例えば、夏目漱石の作品に出てくる女性が、女学生ことば、てよだわことばを使っているのに比べてみると、違いが目立つ。
さらに思うこととしては、この小説が書かれたのは明治四四年である。が、小説の時代設定は、明治一三年になっている。一時代前の、いやもっと前になるだろう、日清、日露の戦争の前、そのさらに前の時代、西南戦争が終わったあたりの時代である。この時代のこととして、この小説が語られる意味は何なんだろう。
などと、いろいろと思ってはみるのだが、しかし、読み終えた後には、文学的な余韻が残る。こういうのを文学というのだろうとは感じるところがある。この作品は、さらに改めて読みなおしてみたいと思うところがある。
2020年4月27日記
『暴虎の牙』柚月祐子 ― 2020-05-08
2020-05-08 當山日出夫(とうやまひでお)
柚月祐子.『暴虎の牙』.角川書店.2020
https://www.kadokawa.co.jp/product/321908000081/
シリーズの三冊目ということなので買って読んでみた。
やまもも書斎記 2017年1月20日
『孤狼の血』柚月裕子
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/01/20/8327720
やまもも書斎記 2018年6月16日
『凶犬の眼』柚月裕子
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/06/16/8895258
読んで思ったことを書けば……最初の『孤狼の血』が一番いい。これは警察小説の傑作であると思う。次が、続編の『凶犬の眼』になる。そして、この『暴虎の牙』である。はっきりいって、読んであまり面白いとは思わなかった。
この本が出たのが、今年の3月27日である(奥付)。出てすぐに買ったのを覚えている。途中まで読んで、ちょっと中断していた。世の中があまり落ち着かない状況であり、新学期からの学校の授業がどうなるかわかないということもあって、あまりゆっくりと本を読むという気になれなかった。すこしおいておいて、とぎれとぎれに読んだということもあるのかもしれない。結局、読み終わったのは、五月になってからということになった。
それでも、なんとか読み切ることができたのは、この小説がもともと新聞連載であるということもあってのことかとも思う。途中で時間をおいて、とぎれとぎれに読んでも、話しの筋を追っていけるように書いてある。といって、この小説は、波瀾万丈のストーリーで読ませる小説でもないし、また、じっくりとした描写の深さを読みこんでいくというタイプの作品でもない。
前の二作、『孤狼の血』『凶犬の眼』を読んでいるということを前提に書けば、大上(ガミさん)と日岡の二人の警察官の物語であり、広島を舞台にした、暴力団小説と言っていいだろう。
それにしても、暴力団の話しを書くのに、なぜ広島を舞台にしているのだろうか。広島方言で語られる台詞は、確かに、暴力団小説にふさわしいとも感じる。また、あるいは、広島という地方都市の規模が、ちょうど小説の舞台設定としては都合がいいということもあるのかもしれない。
小説のなかには、かなり残酷な暴力シーンも出てはくるのだが、その叙述はあっさりとしている。これは、作者が、女性ということがあってのことかもしれないと感じる。そんなにくどい描写ではない。
ともあれ、このシリーズの三冊目として、特に、大上の生活のことを書いた作品として、前作からつづけて読んでくると、興味のひかれるところがある。また、日岡の、駐在所勤務のその後の警察官としての仕事も描かれることになっている。
この作品は、単独で読むよりも、『孤狼の血』『凶犬の眼』を読んだうえで読むのが、より楽しめると感じるところがある。
2020年5月7日記
https://www.kadokawa.co.jp/product/321908000081/
シリーズの三冊目ということなので買って読んでみた。
やまもも書斎記 2017年1月20日
『孤狼の血』柚月裕子
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/01/20/8327720
やまもも書斎記 2018年6月16日
『凶犬の眼』柚月裕子
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2018/06/16/8895258
読んで思ったことを書けば……最初の『孤狼の血』が一番いい。これは警察小説の傑作であると思う。次が、続編の『凶犬の眼』になる。そして、この『暴虎の牙』である。はっきりいって、読んであまり面白いとは思わなかった。
この本が出たのが、今年の3月27日である(奥付)。出てすぐに買ったのを覚えている。途中まで読んで、ちょっと中断していた。世の中があまり落ち着かない状況であり、新学期からの学校の授業がどうなるかわかないということもあって、あまりゆっくりと本を読むという気になれなかった。すこしおいておいて、とぎれとぎれに読んだということもあるのかもしれない。結局、読み終わったのは、五月になってからということになった。
それでも、なんとか読み切ることができたのは、この小説がもともと新聞連載であるということもあってのことかとも思う。途中で時間をおいて、とぎれとぎれに読んでも、話しの筋を追っていけるように書いてある。といって、この小説は、波瀾万丈のストーリーで読ませる小説でもないし、また、じっくりとした描写の深さを読みこんでいくというタイプの作品でもない。
前の二作、『孤狼の血』『凶犬の眼』を読んでいるということを前提に書けば、大上(ガミさん)と日岡の二人の警察官の物語であり、広島を舞台にした、暴力団小説と言っていいだろう。
それにしても、暴力団の話しを書くのに、なぜ広島を舞台にしているのだろうか。広島方言で語られる台詞は、確かに、暴力団小説にふさわしいとも感じる。また、あるいは、広島という地方都市の規模が、ちょうど小説の舞台設定としては都合がいいということもあるのかもしれない。
小説のなかには、かなり残酷な暴力シーンも出てはくるのだが、その叙述はあっさりとしている。これは、作者が、女性ということがあってのことかもしれないと感じる。そんなにくどい描写ではない。
ともあれ、このシリーズの三冊目として、特に、大上の生活のことを書いた作品として、前作からつづけて読んでくると、興味のひかれるところがある。また、日岡の、駐在所勤務のその後の警察官としての仕事も描かれることになっている。
この作品は、単独で読むよりも、『孤狼の血』『凶犬の眼』を読んだうえで読むのが、より楽しめると感じるところがある。
2020年5月7日記
オンライン授業あれこれ(その三) ― 2020-05-09
2020-05-09 當山日出夫(とうやまひでお)
続きである。
やまもも書斎記 2020年5月2日
オンライン授業あれこれ(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/05/02/9241775
いろいろと見ていると、世の中のかなりの大学でオンライン授業という方向に動いている。そして、また、同時に、その課題なども見えてきたというところだろうか。
私の場合、四月から五月にかけて、普通の授業はできないだろう、オンラインでやるしかないという判断になったとき、考えてみて、結局、リアルタイムでのライブ配信(ZOOMやYouTubeなど)は、使わないということにした。文書(教材プリント)の配布と、レポートという方針でのぞむことにした。このあたりのことを書いてみたい。
オンライン授業ということでまず思い浮かんだのは、学生のコンピュータリテラシのことである。昨年のことになるが、新学期の最初に次のようなことを聞いてみた……レポートを縦書きの文書で書けますか、書式設定としては、10.5ポイントの明朝体をつかって、40字40行の設定、これができますか……その結果としては、大部分の学生が、できないというものであった。それでも、前期の終わりのレポートの提出のときには、提出した学生はワープロで書いてきた。しかし、見ると、書式の設定ができていないものも、いくつか目についた。
自分の家、部屋に、自分用のパソコンがあって、固定光回線などでインターネットにつながっている、プリンタも持っている、このような学生が、どれほどいるだろうかと思う。これは、大学によっても違いがあるにちがいない。そうは思ってみるのだが、現実の問題として、私が教えている学生について考えてみるならば、学生のコンピュータやインターネット接続の環境は、かなり貧弱なものであるといっていいだろう。
ここ数年、出席は、スマホで取ることになっている。その時間の決まった数字を示して、それを入力する。が、これも、スマホを持っていないという学生が中にはいる。(出席は、参考までに確認するので、成績には関係ないとしてある。)
自分の部屋にインターネットにつながったパソコンが無い、また、スマホしかもっていない、あるいは、スマホも持っていない、このような学生の存在を無視することはできない。
このような状況をふまえるならば、リアルタイムのライブ配信は、無理があるとすべきだろうと考えた。
以前に書いたことをくりかえし書いてみるならば……より多くの学生が、より公平に、より無理なく、より継続的に……そして、それを担当する教員の側でも同じように、継続可能な方式は何であるか……このことを考えてみた。
さらに書くならば、「より多くの学生」が、ということは考慮してみるが、「すべての学生」がということは考えていない。すべての学生ということを考えるならば、根本的に、大学入学前からの準備として、パソコンとインターネット接続の準備ということを、説明しておかなければならない。大学生になれば、パソコンとインターネット接続ぐらいは当たり前と思っているような大学もあるだろうが、私の教えているところでは、どうもこれは無理があると判断せざるをえない。
もし、自分のパソコンが家にないとしても、大学のPC教室のものが利用できるなら、それでなんとかなるだろう。
それから、ライブ配信ということについては、私は、この方式はとらないことにした。
大学での教育ということについては、場の共有ということが重要であることは理解しているつもりである。ある決められた時間に、ある決められた場所(教室)で、授業に参加する、この行為自体に意味があることになる。
これはこれで十分にわかっているつもりではいる。しかし、同時に、このような既定の学校というシステムについてこれない学生もまた少なからずいることも確かなことである。この意味では、オンデマンド方式で、自分の好きな時間に、アクセスして教材を読むことができる、という方式の方が、ふさわしいといえるかもしれない。
オンライン授業になって、時間と場所の制約から解放されるということを、ここでは、むしろ前向きにとらえてみたかった。
たまたま、教えている科目は、日本語史ということで、文字とか表記それに文章のことなどを考えることにしている。この場合、じっくりと文章を読んで理解する、そして、自分でも文章を書ける、ということが重要になってくる。この観点から、音声配信はせずに、教材プリントの配布ということにした。
これは、音声配信……音声データつきのPowerPointスライド……ということも考えてみたが、学生のコンピュータ環境を考えると、これもちょっと無理があると判断した。スマホしか持っていない学生には、ハードルが高いかと思ったのである。
ただ、これも科目によることだとも思う。日本語学でも、音声、音韻、アクセント、というようなことを教えるには、音声データの送信ということが必須になってくるにちがいない。また、語学などは、どうしても、音声データは必用だろう。
たぶん、科目によっていろんな方針があっていいのだろうと思う。リアルタイムでのライブ配信もあれば、オンデマンドの教材送信もあってよい。結局、総合的に、いろんな方式のオンライン授業があるなかで、学生は学んでいけばいいのだと思う。この意味では、画一的に、同じキャンパスの教室に学生を集めて授業するという従来の考え方を、考え直す機会になるのかとも思う。
画一性から多様性へ、この流れがオンライン授業によって現実のものとなってきていると思うのである。
2020年5月8日記
続きである。
やまもも書斎記 2020年5月2日
オンライン授業あれこれ(その二)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/05/02/9241775
いろいろと見ていると、世の中のかなりの大学でオンライン授業という方向に動いている。そして、また、同時に、その課題なども見えてきたというところだろうか。
私の場合、四月から五月にかけて、普通の授業はできないだろう、オンラインでやるしかないという判断になったとき、考えてみて、結局、リアルタイムでのライブ配信(ZOOMやYouTubeなど)は、使わないということにした。文書(教材プリント)の配布と、レポートという方針でのぞむことにした。このあたりのことを書いてみたい。
オンライン授業ということでまず思い浮かんだのは、学生のコンピュータリテラシのことである。昨年のことになるが、新学期の最初に次のようなことを聞いてみた……レポートを縦書きの文書で書けますか、書式設定としては、10.5ポイントの明朝体をつかって、40字40行の設定、これができますか……その結果としては、大部分の学生が、できないというものであった。それでも、前期の終わりのレポートの提出のときには、提出した学生はワープロで書いてきた。しかし、見ると、書式の設定ができていないものも、いくつか目についた。
自分の家、部屋に、自分用のパソコンがあって、固定光回線などでインターネットにつながっている、プリンタも持っている、このような学生が、どれほどいるだろうかと思う。これは、大学によっても違いがあるにちがいない。そうは思ってみるのだが、現実の問題として、私が教えている学生について考えてみるならば、学生のコンピュータやインターネット接続の環境は、かなり貧弱なものであるといっていいだろう。
ここ数年、出席は、スマホで取ることになっている。その時間の決まった数字を示して、それを入力する。が、これも、スマホを持っていないという学生が中にはいる。(出席は、参考までに確認するので、成績には関係ないとしてある。)
自分の部屋にインターネットにつながったパソコンが無い、また、スマホしかもっていない、あるいは、スマホも持っていない、このような学生の存在を無視することはできない。
このような状況をふまえるならば、リアルタイムのライブ配信は、無理があるとすべきだろうと考えた。
以前に書いたことをくりかえし書いてみるならば……より多くの学生が、より公平に、より無理なく、より継続的に……そして、それを担当する教員の側でも同じように、継続可能な方式は何であるか……このことを考えてみた。
さらに書くならば、「より多くの学生」が、ということは考慮してみるが、「すべての学生」がということは考えていない。すべての学生ということを考えるならば、根本的に、大学入学前からの準備として、パソコンとインターネット接続の準備ということを、説明しておかなければならない。大学生になれば、パソコンとインターネット接続ぐらいは当たり前と思っているような大学もあるだろうが、私の教えているところでは、どうもこれは無理があると判断せざるをえない。
もし、自分のパソコンが家にないとしても、大学のPC教室のものが利用できるなら、それでなんとかなるだろう。
それから、ライブ配信ということについては、私は、この方式はとらないことにした。
大学での教育ということについては、場の共有ということが重要であることは理解しているつもりである。ある決められた時間に、ある決められた場所(教室)で、授業に参加する、この行為自体に意味があることになる。
これはこれで十分にわかっているつもりではいる。しかし、同時に、このような既定の学校というシステムについてこれない学生もまた少なからずいることも確かなことである。この意味では、オンデマンド方式で、自分の好きな時間に、アクセスして教材を読むことができる、という方式の方が、ふさわしいといえるかもしれない。
オンライン授業になって、時間と場所の制約から解放されるということを、ここでは、むしろ前向きにとらえてみたかった。
たまたま、教えている科目は、日本語史ということで、文字とか表記それに文章のことなどを考えることにしている。この場合、じっくりと文章を読んで理解する、そして、自分でも文章を書ける、ということが重要になってくる。この観点から、音声配信はせずに、教材プリントの配布ということにした。
これは、音声配信……音声データつきのPowerPointスライド……ということも考えてみたが、学生のコンピュータ環境を考えると、これもちょっと無理があると判断した。スマホしか持っていない学生には、ハードルが高いかと思ったのである。
ただ、これも科目によることだとも思う。日本語学でも、音声、音韻、アクセント、というようなことを教えるには、音声データの送信ということが必須になってくるにちがいない。また、語学などは、どうしても、音声データは必用だろう。
たぶん、科目によっていろんな方針があっていいのだろうと思う。リアルタイムでのライブ配信もあれば、オンデマンドの教材送信もあってよい。結局、総合的に、いろんな方式のオンライン授業があるなかで、学生は学んでいけばいいのだと思う。この意味では、画一的に、同じキャンパスの教室に学生を集めて授業するという従来の考え方を、考え直す機会になるのかとも思う。
画一性から多様性へ、この流れがオンライン授業によって現実のものとなってきていると思うのである。
2020年5月8日記
追記 2020-05-16
この続きは、
やまもも書斎記 2020年5月16日
オンライン授業あれこれ(その四)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/05/16/9247182
この続きは、
やまもも書斎記 2020年5月16日
オンライン授業あれこれ(その四)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/05/16/9247182
『エール』あれこれ「ふたりの決意」 ― 2020-05-10
2020-05-10 當山日出夫(とうやまひでお)
『エール』第5週「ふたりの決意」
https://www.nhk.or.jp/yell/story/week_06.html
前回は、
やまもも書斎記 2020年5月3日
『エール』あれこれ「愛の狂騒曲」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/05/03/9242126
この週で裕一と音のふたり一緒になる。ここまで見てきて思うこととしては、このドラマは、家族の物語なのであるということである。
第一には、裕一の家族。
結局、裕一は、福島を去って東京に行くことになる。そのときに交錯するのが、家族との思いである。音楽の道をえらんで東京に行くことになる裕一を、家族はかならずしも温かく見送るということではない。反対もする、いさめもする。また、これまでどんなに裕一がめぐまれて生活してきたかを語りかけることにもなる。
一方、権藤の家の養子の件も、結局は自分は跡取りために必用とされたにすぎないことを知る。
そのような裕一にとって、残された道は、東京に出て音と一緒に暮らし、音楽の仕事をすることである。幸い、その仕事先もなんとかなり、一緒に住む家もみつかった。
第二は、音の家族。
幼い日に父を亡くしている。だが、母親の光子、それから、音の姉(吟)と妹(梅)の三姉妹。この家族の物語も、ドラマの重要な要素になっている。そして、裕一のことを慕う音のことを、その家族全員で応援している。
以上、裕一の家族の物語、音の家族の物語が、これまで進行してきた。そして、裕一と音が一緒になることで、今度は新しく東京での、このふたりの家族の物語がスタートすることになる。
次週以降、東京で新しく音楽家としての生活をはじめるふたりはどうなるのであろうか。楽しみに見ることにしよう。
2020年5月9日記
『エール』第5週「ふたりの決意」
https://www.nhk.or.jp/yell/story/week_06.html
前回は、
やまもも書斎記 2020年5月3日
『エール』あれこれ「愛の狂騒曲」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/05/03/9242126
この週で裕一と音のふたり一緒になる。ここまで見てきて思うこととしては、このドラマは、家族の物語なのであるということである。
第一には、裕一の家族。
結局、裕一は、福島を去って東京に行くことになる。そのときに交錯するのが、家族との思いである。音楽の道をえらんで東京に行くことになる裕一を、家族はかならずしも温かく見送るということではない。反対もする、いさめもする。また、これまでどんなに裕一がめぐまれて生活してきたかを語りかけることにもなる。
一方、権藤の家の養子の件も、結局は自分は跡取りために必用とされたにすぎないことを知る。
そのような裕一にとって、残された道は、東京に出て音と一緒に暮らし、音楽の仕事をすることである。幸い、その仕事先もなんとかなり、一緒に住む家もみつかった。
第二は、音の家族。
幼い日に父を亡くしている。だが、母親の光子、それから、音の姉(吟)と妹(梅)の三姉妹。この家族の物語も、ドラマの重要な要素になっている。そして、裕一のことを慕う音のことを、その家族全員で応援している。
以上、裕一の家族の物語、音の家族の物語が、これまで進行してきた。そして、裕一と音が一緒になることで、今度は新しく東京での、このふたりの家族の物語がスタートすることになる。
次週以降、東京で新しく音楽家としての生活をはじめるふたりはどうなるのであろうか。楽しみに見ることにしよう。
2020年5月9日記
追記 2020-05-17
この続きは、
やまもも書斎記 2020年5月17日
『エール』あれこれ「夢の新婚生活」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/05/17/9247572
この続きは、
やまもも書斎記 2020年5月17日
『エール』あれこれ「夢の新婚生活」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/05/17/9247572
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