『戦争と平和』(四)トルストイ/岩波文庫2020-05-15

2020-05-15 當山日出夫(とうやまひでお)

戦争と平和(4)

トルストイ.藤沼貴(訳).『戦争と平和』(四)(岩波文庫).岩波書店.2006
https://www.iwanami.co.jp/book/b248229.html

続きである。
やまもも書斎記 2020年5月14日
『戦争と平和』(三)トルストイ/岩波文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/05/14/9246472

岩波文庫の四冊目には、第三部の一篇と二篇を収めてある。

ここまで読んできて思うことなど書いてみる。

第一には、「歴史」というもの。

私は、西欧の歴史とか、また、歴史哲学という分野についてはうとい。ナポレオンと言われても、とおりいっぺんの知識……高校の世界史の時間にならったような……ぐらいしか持っていない。また、歴史哲学という分野に関心がないわけではないが、今になって、専門書に手を出そうという気にもならないでいる。

ただ、楽しみとして、古典を読んでおきたいと思って読んでいる。以前に『戦争と平和』を読んだときは、新潮文庫版であった。そのときの印象としては、トルストイの歴史観というものが、非常に色濃く出ている作品だと感じたものであった。

今、岩波文庫版でさらに読んでみて、この四冊目になると、そのトルストイの歴史観というものが描かれている。いってみれば、歴史とは個人のちからではどうにもならない、大きな動きである、というようなことを語ろうとしていることは理解できる。歴史の本質が何であるか、それは、おそらくは、トルストイの文学者、いや芸術家というべきか、の洞察力によるものなのであろう。

今から一世紀半ほど前に書かれた小説であり、その描いているロシアとナポレオンとの戦いは、さらにさかのぼって今から二世紀ほど前のことになる。おそらく、近現代の歴史学というものが登場する以前の作品と言っていいのだろう。

だが、読んで、その古さというものを感じない。それは、歴史とともに人間があったことによるのだろう。時代のいかんをとわず、人間は、歴史のなかにある。その歴史のなかにある人間、大きな歴史の流れのなかで翻弄されていく人間の姿というものを、この小説は、大きな流れとして描き出している。

第二に、「国民」というもの。

今から、二世紀ほど前、ナポレオンの時代である。読んで感じるところとしては、現代社会でいう国民の意識がまだ形成されていないということを感じ取る。

いや、ロシアの軍人、兵士たちは、ロシアのために戦っていることは分かるのだが、それが、近代国家としての、つまり、国民国家としての市民の感覚ではない。また、敵対することになる、ナポレオンの軍隊も、各国、各地域からのよせあつめの軍隊である。生粋のフランス軍というものではない。

このあたり、戦争というと、第一次大戦、第二次大戦、というあたりのことを思ってしまう、現代の感覚からすると、今一つ理解の及ばないところがあると感じる。まだ、近代的な国民国家の成立以前の段階における、ロシアとフランスとの戦いと理解しておくべきなのだろう。

登場するのは、主にその当時にあってロシアの貴族階級の人びとである。その貴族にとっての、国家、祖国とは何であったのか、現代の市民社会における国家の観念で読むと、どうにもよくわからないところがあるというのが、率直なところでもある。

以上の二つのことを思って見る。

現代の戦争観、国家観からすると、今一つよくわからないところもあるのだが、それでも、大きな歴史の流れのなか、戦争というもの、そのなかにあって生きていく人間の姿、また、戦闘シーンなどには、引き込まれて読んでしまうところがある。

ところで、『戦争と平和』は、光文社古典新訳文庫版も、刊行中である。第一冊が刊行になって、次の第二冊目も出るようだ。これも買ってある。岩波文庫で読んでおくとして、また、改めて別の訳でも、じっくりと読みかえしてみたいと思っている。

次は、第五冊目である。世の中、どうなるかわからない情勢にあるのだが、逆にこのようなときだからこそ、家にいて、ゆっくりと本を読む時間をすごしたいと思う。

2020年5月9日記

追記 2020-05-18
この続きは、
やまもも書斎記 2020年5月18日
『戦争と平和』(五)トルストイ/岩波文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/05/18/9247947