『渋江抽斎』森鷗外(その二)2020-06-01

2020-06-01 當山日出夫(とうやまひでお)

渋江抽斎

続きである。
やまもも書斎記 『渋江抽斎』森鷗外
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/05/29/9251733

『渋江抽斎』はこれまで何度か読んできている作品である。今回読んで、気付いたことを書いておきたい。それは、時代意識である。

『渋江抽斎』は、大正五年の作品である。その時代において、明治のそのまえ江戸時代の終わりのころが、この作品の主な時代設定である。渋江抽斎は江戸の人である。

一方、鷗外の筆は、渋江抽斎の死でおわっていない。その死後までつづく。渋江抽斎は、安政五年になくなっている。が、その子孫のゆくすえをも、さらに探求することになる。そして、それは、この作品の書かれた同時代にまでおよんでいる。

この間に、明治維新があった。その後、西南戦争もあり、日清戦争もあり、日露戦争もあった。しかし、このような一般的な歴史のできごとは、この作品に登場しない。あたかも江戸の昔から大正にいたるまで、そのまま連続して時代が続いているかのごとくである。

いや、あるいは、この鷗外のような時代感覚の方が正しいのかもしれない。現代の我々は、明治という時代で、歴史を区分しがちである。明治維新の、その前と後で、時代が大きく変わったと思っている。たしかにそのような面もあるにはちがいないが、人びとは、その歴史の激動のなかで日々のいとなみを続けてきたのである。

この作品を読んで感じるのは、歴史の時代の連続性である。大正の時代になってから江戸のことを書いている。しかし、そこにあるのは、作者(鷗外)が、渋江抽斎に対していだいている、同時代人としての感覚である。ここを読みとらなければ、この作品を読んだことにはならないと言っていいかもしれない。

歴史とは何か……たしかに様々な議論のあることではある。そのなかにあって、『渋江抽斎』のような時代感覚もまた一つの歴史感覚であることは、重要なことかもしれない。

2020年5月31日記