『源氏物語』(6)朝顔・少女・玉鬘2020-07-13

2020-07-13 當山日出夫(とうやまひでお)

源氏物語(6)

阿部秋生・秋山虔・今井源衛・鈴木日出男(校注・訳).『源氏物語』(6)朝顔・少女・玉鬘.小学館.1998
https://www.shogakukan.co.jp/books/09362086

続きである。
やまもも書斎記 2020年7月9日
『源氏物語』(5)蓬生・関屋・絵合・松風・薄雲
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/07/09/9266212

第六冊目である。「朝顔」「少女」「玉鬘」をおさめる。

これまで『源氏物語』を読んだ経験では、「朝顔」「少女」のあたりが、どうにも難解という印象があったのだが、今回は、わりとすんなりと読めた。何度か読んでいるので、何が書いてあるのか、だいたいのところが既にあたまにはいっているせいかもしれないが。

この小学館の「古典セレクション」の構成では、この六冊目から、「玉鬘」の物語がはじまる。この構成で読んでみるとであるが、まさに光源氏の六条院が完成して、栄華の絶頂に達しようというときに、ふと話しが変わって、亡き夕顔の遺児である玉鬘の登場ということになる。このあたり物語の作り方は、仮に、三段階成立論にたつにせよ、そうでないにせよ、ある意味で非常にうまいという印象をもつ。

そして、この小学館版の注釈で読んで思うことは、現代の感性で『源氏物語』を読んでいることである。無論、古注や宣長などにも言及してはあるのだが、ところどころに挟み込んである評言を見ると、いかにも現代の文学的感性で読んでいっているという印象をもつ。これは、悪いことではないだろう。古典というものが、常にその時代ごとに新しい感性のもとに、新たな読み方を加えていくものであるとするならば、まさにこれは、現代の『源氏物語』の読み方である。

「玉鬘」の巻になってであるが、特に長谷寺での右近とのめぐりあいの場面など、読んでみて、やはりあきらかに、それまでの巻とは筆致が異なってきていることを感じる。それまでの巻から連続して書いたにせよ、三段階成立論によるによせ、ともかく、「玉鬘」の長谷寺観音霊験譚のあたりの文章の書き方は、それまでの巻、特に「少女」の巻の、微に入り細をうがっての心理描写というべきものから、文章の雰囲気が変わってきている。

ここからしばらく玉鬘の物語がつづくことになる。続けて読むことにしよう。

2020年6月21日記

追記 2020-07-17
この続きは、
やまもも書斎記 2020年7月17日
『源氏物語』(7)初音・胡蝶・蛍・常夏・篝火・野分
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/07/17/9268903

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