『ことばの危機』東京大学文学部広報委員会(編)2020-07-18

2020-07-18 當山日出夫(とうやまひでお)

ことばの危機

阿部公彦・沼野充義・納富信留・大西克也・安藤宏 東京大学文学部広報委員会(編).『ことばの危機-大学入試改革・教育改革を問う-』(集英社新書).集英社.2020
https://shinsho.shueisha.co.jp/kikan/1024-b/

東京大学で、昨年(二〇一九)に行われたシンポジウムを書籍化したものである。内容的には、国語教育改革批判の本である。が、そこは、東大でやっただけのことはある。そうそうたるメンバーでなりたっている。

論点として、そうきわだって目新しい論点のあるという本ではないが、しかし、それぞれの専門分野の第一人者の語っていることだけに、その意味では説得力のある本になっている。

詠みながら、付箋をつけた箇所を一箇所だけ引用しておく。

「ルールを切り替えることで全く新しい世界を導き入れるという行為は、人間の知性の根幹をなすものです。自分が慣れ親しんだ文脈でしか生きていない人は、異なる環境に適応することができませんし、異なる環境から来た人にも上手に対応できない。」(p.49)

第一章 「読解力」とな何か――「読めていない」の真相をさぐる 阿部公彦

ここで、やや強引になるかもしれないが、「古典は本当に必用なのか」の議論にひきつけて考えてみる。まさに「古典」で学ぶのは、過去の日本である。その考え方、心情について、触れることになる。それは、現代とは異質なものである。だが、しかし、一方で、現代にも通じる普遍性をももっている、そのようなものが「古典」ということになる。まさに「古典」を学ぶということは、今の自分とは異なる世界との対話であるといっていいだろう。

現代いわれている社会のグローバル化ということがある。このときに、必用になるのは、自分とは異なる価値観、世界観、人生観を持った人びととどのようにつきあっていくかということになる。このときに、多様な価値観に対応できる柔軟な発想がもとめられる。それを涵養するものが、まずは、文学教育であり、「古典」の教育である……このように考えてみるのだが、これは、牽強付会にすぎるだろうか。

数学や自然科学の分野の普遍性も重要だろう。だが、その一方で、文化や芸術といった分野の多様性を帯びながらも、それをつきつめていくところにある普遍性というものへの認識も重要であると、私は思う。

それから、この本で面白かったところを、もう一つ書いておく。

第三章 ことばのあり方 納富信留

ここで、「論理国語」への批判として、次のようなことを言っている……論理学という学問は実利には役にたつものではない……やはり、ここは、ことばと論理ということについて、改めてたちどまって考える必用があると思うのである。

「古典は本当に必用なのか」ということを考えるうえで、読んで損のない本だと思う。

やまもも書斎記 2019年1月18日
「古典は本当に必要なのか」私見
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/01/18/9026278

2020年7月7日記

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