『源氏物語』(10)若菜 下・柏木2020-07-26

2020-07-26 當山日出夫(とうやまひでお)

源氏物語(10)

阿部秋生・秋山虔・今井源衛・鈴木日出男(校注・訳).『源氏物語』(10)若菜 下・柏木.1998
https://www.shogakukan.co.jp/books/09362090

続きである。
やまもも書斎記 2020年7月21日
『源氏物語』(9)若菜 上
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/07/21/9270198

第一〇冊目である。「若菜」の下と「柏木」をおさめる。

「若菜」の巻は、『源氏物語』でも最も中核的な存在である。それまでの、紫の上、明石の君などの物語、さらには、玉鬘の物語も、この「若菜」のなかにながれこんでいる。そして、この「若菜」で生まれることになるのが、後の薫である。「宇治十帖」において、中心的な役割をはたす。

いやそんなことよりも、「若菜」(上・下)を読んで感じるのは、近代的な小説の面白さである。これは、おそらく『源氏物語』の国文学での研究からすれば、脇道にそれる読み方になるのかもしれないが、しかし、近現代の目で読んで十分に鑑賞にたえるだけの作品である。特に、登場人物の心理描写がすぐれている。このような心理描写が、今から一〇〇〇年以上も前に、平安の時代に書かれていたことは、ある意味でおどろきである。

だが、ここで確認しておくべきことは、「文学」は、芸術として文学的感銘をあたえてくれる普遍性をもつ。そこには、ある場合には、社会通念からすれば背徳的な要素もある。しかし、「文学」は道徳の教科書ではない。これは、今日における一般的な文学作品への理解といっていいだろう。

おそらく、『源氏物語』が、現代のように自由に「文学」として読めるようになったのは、以外と新しいことであるというべきだろうか。せいぜいさかのぼって、本居宣長以降のことになるとはいえるだろう。そして、姦淫の書とでもいうべき価値判断から自由になったのは、つい最近のことであるかもしれない。

それから、文字という観点から見て興味深いのは、女三の宮にあてた柏木の手紙。それを光源氏に見つけられて、ことが露見するのだが、そのシーンで、光源氏は、手紙の筆跡を見て男の手であろうと判断している。仮名の消息であるはずだが、女性の筆跡と、男性の筆跡は、やはり異なるものであったことがわかる。この意味では、「女手」という言い方は、仮名においても、より女性的な書きぶりの仮名であっとすべきだろうか。

続けて「宇治十帖」まで読み切ってしまおうと思う。

2020年6月28日記

追記 2020-07-31
この続きは、
やまもも書斎記 2020年7月31日
『源氏物語』(11)横笛・鈴虫・夕霧・御法・幻
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/07/31/9273660

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