オンライン授業あれこれ(その一二)2020-07-11

2020-07-11 當山日出夫(とうやまひでお)

続きである。
やまもも書斎記 2020年7月4日
オンライン授業あれこれ(その一一)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/07/04/9264573

レポートの提出は、電子メールでということにしてある。これは、最初にオンライン授業の方針を決めて学生に連絡した時点(4月16日)では、電子メールしか学生からのレポート提出の手段がなかったからでもある。その後、大学の授業支援のシステムのバージョンアップで、レポートの提出もできるようになった。しかし、一度出した方針を途中で変えるのは、混乱のもとだと思ったので、電子メール提出ということにしている。

ただ、電子メール提出といっても条件がいくつかある。

まず、大学の電子メールシステムから送信すること。自分で契約しているプロバイダのメールや、Gメールなどからのものは、受理しないということしてある。これについては、中にわずかではあるが、守らない学生がいる。こちらのメッセージ、レポート提出についての注意事項を読んでいないのだろうか。そのような提出に対しては、これは受け取ることができない、大学のメールシステムから送信のこと、と返信して、その後、なんとか提出できているようだ。

電子メールのタイトルは、基本のルールを決めておいた。たとえば、「日本語史第二回レポート(学生氏名)」のように書くこと、としておいた。これも、時々守らない学生がいる。こちらが指定したルールに違反していることを指摘して、再提出を求めることにしている。

それから、気になっていることとして、電子メール提出で、添付ファイル(Word文書ファイル)が多いのだが、ただ、文書ファイルを添付しただけで、本文か空のものが目につく。これは、確かに、こちらが指示したことには違反してはいない。しかし、一般的にいって、電子メールでの提出物のマナーには反しているだろう。すくなくとも、自分の名前と学籍番号、それから、課題を添付ファイルで送信する旨、ちょっと書いておくべきことだと思う。

たぶん、これまで(高校まで)、電子メールでのやりとりというものを経験していないのかもしれないのだろう。これは、基本的マナーとして、やはりどこかの時点で身につけておくべきことだろう。

電子メールでのやりとりというのは、たしかに新しいことではあるが、しかし、その背景には、書簡のやりとりなどの歴史的積み重ねがある。そのうえに、ここ二~三十年の間に、できあがってきた、ルールというべきものがないではない。少なくとも、社会の一般常識としてのマナーというのは存在するだろうと思う。

ただ、これも時代とともに変化してきてはいる。私が電子メールを使い始めたころは、自分の好きな時間に読んで、自分の好きな時間に送信(返信)すればよいものであった。が、このごろは、このような感覚が通用しなくなってきてもいるようだ。(返信はすぐにしなければならない、夜中に送信してはいけない、など)。

が、ともあれ、添付ファイルを送るときに、本文に何も書かずに、添付ファイルだけ送信というのは、今後、指導していくことにしたいと思っている。

2020年7月10日記

追記 2020-07-25
この続きは、
やまもも書斎記 2020年7月25日
オンライン授業あこれこ(その一三)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/07/25/9271484

『「勤労青年」の教養文化史』福田良明2020-07-12

2020-07-12 當山日出夫(とうやまひでお)

「勤労青年」の教養文化史

福田良明.『「勤労青年」の教養文化史』(岩波新書).岩波書店.2020
https://www.iwanami.co.jp/book/b505594.html

この本を手にして読んでみようと思ったのは、「教養」ということにある。その歴史的背景に興味があった。今、日本において、特に人文学知は危機的状況にあるといっていいだろう。そのなかでも、近年の話題としては、「古典は本当に必用なのか」をめぐる議論がある。

やまもも書斎記 2019年1月18日
「古典は本当に必要なのか」私見
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/01/18/9026278

この本を読んで思ったことを書いてみるならば、次の二点だろうか。

第一には、教育格差の問題。

現代における教育をめぐる議論で、もっとも重要な課題となっているのは、教育格差である。「生まれ」によって、その後のその人間の教育の機会均等が損なわれているという問題である。ただ、これは、結果の平等ということで、どのような大学に進学することになるのか、どのような職業につくことになるのか、また、端的にいってしまえば、その人生における年収はどの程度なのか……この平等、不平等をめぐる議論である。

しかし、この本は、この昨今の教育格差の議論からは距離をおいている。この議論のなかで見えなくなってしまいかねない、「教養」への希求に焦点をあてている。

高校進学さえもままならないような時代……戦後のある時代まで……において、なぜ、若者は「教養」を求めたのか。そこには、実利ではない、人間として豊かに生きるための「教養」への熱意があった。それが、近年の教育の現場においては、消滅してしまっているといってよいであろう。

では、なぜ、「教養」への希求がなくなってしまったのか。そこのところの経緯を、この本は追っている。現代の教育格差の議論では見えなくなってしまっている問題点といってよいであろう。

第二には、その「教養」の問題。

進学できなかった「勤労青年」は、「教養」をもとめた。それについては、地方における青年学級であるとか、主に都市部における定時制高校であるとか、『葦』や『人生手帖』という雑誌メディアであるとか……これらについて、実証的に考察してある。さらには、その後のこととして、一般向けの歴史雑誌やNHK大河ドラマにまで、考察がおよんでいる。

結局は、日本社会の高度成長と、進学率の向上によって、「教養主義」というものの没落ということになり、それにともなって、「勤労青年」たちの「教養」への希求も消滅していくことになる。

かつて定時制高校で学んでいた若者たちは、実利……直接すぐに役にたつこと……ではなく、「教養」……人間として豊かになること……を目指していた。このことの指摘は、重要な意味があると思う。

以上の二点が、この本を読んで思ったことなどである。

「古典は本当に必用なのか」という最近の議論について考えてみるならば、まさに、「教養」への希求の消滅ということを時代的背景に考えなければならないということになる。古典不要論はこのようにいう……学校教育の目的は、それを学んだ学生の利益になるものでなければならない、具体的には、年収に反映されなければならないし、公的な学校教育においては、GDPにむすびつくものでなければならない。このような言説に納得するか、あるいは、違和感を覚えるかどうかは別にして、少なくとも、今では、堂々とこのような議論がなされるようになっていることは確かなことである。

教育に実利をもとめる立場については、「教養」というものへのリスペクトの観点が欠けていると思わざるをえない。いや、むしろ、今の時代の風潮として、全体的にそうなってしまっているとすべきかもしれない。

この本は、現代の、そして、これからの「教養」ということを考えるとき、参照されるべき本になっていくだろう。

2020年7月7日記

追記 2021年6月14日
この続きは、
やまもも書斎記 2021年6月14日
『高校に古典は本当に必要なのか』
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/06/14/9387766

『源氏物語』(6)朝顔・少女・玉鬘2020-07-13

2020-07-13 當山日出夫(とうやまひでお)

源氏物語(6)

阿部秋生・秋山虔・今井源衛・鈴木日出男(校注・訳).『源氏物語』(6)朝顔・少女・玉鬘.小学館.1998
https://www.shogakukan.co.jp/books/09362086

続きである。
やまもも書斎記 2020年7月9日
『源氏物語』(5)蓬生・関屋・絵合・松風・薄雲
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/07/09/9266212

第六冊目である。「朝顔」「少女」「玉鬘」をおさめる。

これまで『源氏物語』を読んだ経験では、「朝顔」「少女」のあたりが、どうにも難解という印象があったのだが、今回は、わりとすんなりと読めた。何度か読んでいるので、何が書いてあるのか、だいたいのところが既にあたまにはいっているせいかもしれないが。

この小学館の「古典セレクション」の構成では、この六冊目から、「玉鬘」の物語がはじまる。この構成で読んでみるとであるが、まさに光源氏の六条院が完成して、栄華の絶頂に達しようというときに、ふと話しが変わって、亡き夕顔の遺児である玉鬘の登場ということになる。このあたり物語の作り方は、仮に、三段階成立論にたつにせよ、そうでないにせよ、ある意味で非常にうまいという印象をもつ。

そして、この小学館版の注釈で読んで思うことは、現代の感性で『源氏物語』を読んでいることである。無論、古注や宣長などにも言及してはあるのだが、ところどころに挟み込んである評言を見ると、いかにも現代の文学的感性で読んでいっているという印象をもつ。これは、悪いことではないだろう。古典というものが、常にその時代ごとに新しい感性のもとに、新たな読み方を加えていくものであるとするならば、まさにこれは、現代の『源氏物語』の読み方である。

「玉鬘」の巻になってであるが、特に長谷寺での右近とのめぐりあいの場面など、読んでみて、やはりあきらかに、それまでの巻とは筆致が異なってきていることを感じる。それまでの巻から連続して書いたにせよ、三段階成立論によるによせ、ともかく、「玉鬘」の長谷寺観音霊験譚のあたりの文章の書き方は、それまでの巻、特に「少女」の巻の、微に入り細をうがっての心理描写というべきものから、文章の雰囲気が変わってきている。

ここからしばらく玉鬘の物語がつづくことになる。続けて読むことにしよう。

2020年6月21日記

追記 2020-07-17
この続きは、
やまもも書斎記 2020年7月17日
『源氏物語』(7)初音・胡蝶・蛍・常夏・篝火・野分
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/07/17/9268903

『秀吉』あれこれ2020-07-14

2020-07-14 當山日出夫(とうやまひでお)

麒麟はまだこない。この週は過去の大河ドラマから。『秀吉』であった。

私は、この放送のことは覚えている。部分的には見ているように記憶しているのだが、全部をとおしてそんなにきちんと見ていたということではない。秀吉のつかっていた「心配御無用」は見た記憶がある。

『麒麟がくる』との関係でいえば、気になるのは次の二点だろうか。

第一には、ライバルとしての光秀と秀吉。

『麒麟がくる』の方でも秀吉は登場している。が、まだ表だってドラマの中心に出てきているということはない。今後、ドラマが再開して、さて、光秀と秀吉の関係をどのように描くことになるのだろうか。

第二には、光秀の人物造形。

光秀はいろんな描き方ができると思う。単なる謀反人として描くこともできれば、理想を追い求めた戦国武将のひとつの姿として描くこともできる。『秀吉』では、光秀にはそれなりの理想の国のあり方があったように描かれていた。では、『麒麟がくる』の光秀は、どうであろうか。まだ、信長と面識を得た程度のところで、ストップしている。これから、足利将軍家が出てきて、それから、信長の家臣団の一員としての働きになるのであろう。

ここで思い描く理想の国の姿……それを象徴するのが「麒麟」ということになるのだろうが……において、信長、秀吉、その他の戦国武将とどのような、関係をみせることになるのか。

以上の二点が、これから再開するであろう『麒麟がくる』との関係で、思ったことなどである。

ところで、『秀吉』では、光秀の母は殺されるのだが、『麒麟がくる』ではどうなるのか。このあたりの脚本の作り方も、気になるところである。

それにしても、COVID-19は、依然として収まる気配がない。無事に収録が再開できればいいのだが、予断を許さない状況といえるかもしれない。しばらく気長に、放送の再開を待つことにしようと思う。

2020年7月13日記

ニシキギの花2020-07-15

2020-07-15 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日なので花の写真。今日はニシキギの花である。

前回は、
やまもも書斎記 2020年7月8日
公孫樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/07/08/9265885

秋になると、赤い実をつける。図鑑などによると、葉も赤く紅葉するらしいのだが、我が家の木は、葉が赤くなることはない。しかし、小さい赤い実をいくつかつける。

そのニシキギに花が咲く。ちょうど、五月の連休のころになる。そう思って気をつけて、観察していた。今年もなんとか、ニシキギの花の咲くのを写真に撮ることができた。

つかっているレンズは、このところ、タムロンの180ミリが多くなっている。この花を写すのにも使ってみた。この花は小さい。ねらった花を画面に収めるのに、一苦労することもあった。

この木、秋になって赤い実をつけるころにまた写してみたいと思っている。

ニシキギ

ニシキギ

ニシキギ

ニシキギ

ニシキギ

ニシキギ

Nikon D500
TAMRON SP AF 180mm F/3.5 Di MACRO 1:1

2020年7月14日記

追記 2020-07-22
この続きは、
やまもも書斎記 2020年7月22日
藤の花
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/07/22/9270531

『エール』あれこれ「いばらの道」(再放送)2020-07-16

2020-07-16 當山日出夫(とうやまひでお)

前回の週の放送については、
やまもも書斎記 2020年7月10日
『エール』あれこれ「運命のかぐや姫」(再放送)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/07/10/9266503

本放送のときのことは、
やまもも書斎記 2020年4月19日
『エール』あれこれ「いばらの道」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/04/19/9236927

本放送のときに書いたことを読みなおしてみると、この週では、実にいろいろとあった。ハーモニカ倶楽部のこと、作曲のこと、養子のこと、銀行のこと、それから、志津とのこと。

この週の放送をみたところで、思うのは、やはり、最後の志津の「ば~か」である。裕一は、女性にもてるのか、あるいは、実はあんまり興味がないのか……どうも、今一つわからない。そういえば、次週で、音との出会いがあることになるのだが、この二人が恋におちる経緯が、なんとなくそうなってしまった、という感じだったのを覚えている。

それにしても、あの銀行は大丈夫なのだろうか。このドラマはあまり時代的背景、世相というものを描かない方針のようだが、昭和初期の不況のころのはずである。銀行も苦しかったのだろうと思うが、そのあたりはいったいどうなのだろうか。

また、この週の放送で出てきていた養子の件、これからの展開の伏線にもなっている。裕一が最終的に音楽の道に志すことになるのは、音との出会いがあってからのことになるのだが、それまでの裕一は、「家」のために養子として銀行で働いている。

そう思ってみると、このドラマは、「家」の物語という側面もあると感じるところがある。呉服屋の古山の「家」、川俣のおじさんの「家」……このような「家」の束縛から自由になって、音楽活動に専念できるようになるのは、音と一緒になって、東京で、新しい「家」、いや、この場合には、「家」というよりも「家族」「家庭」と言った方がいいかもしれない……それを、選ぶことによってということになる。

このドラマは、「家」から「家族」への物語であると見ることができるかもしれない。

次から、第四週の放送になるはずである。音との出会いを、もう一度見ることにしよう。

2020年7月15日記

追記 2020-07-23
この続きは、
やまもも書斎記 2020年7月23日
『エール』あれこれ「君はるか」(再放送)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/07/23/9270850

『源氏物語』(7)初音・胡蝶・蛍・常夏・篝火・野分2020-07-17

2020-07-17 當山日出夫(とうやまひでお)

源氏物語(7)

阿部秋生・秋山虔・今井源衛・鈴木日出男(校注・訳).『源氏物語』(7)初音・胡蝶・蛍・常夏・篝火・野分.小学館.1998
https://www.shogakukan.co.jp/books/09362087

続きである。
やまもも書斎記 2020年7月13日
『源氏物語』(6)朝顔・少女・玉鬘
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/07/13/9267588

第七冊目である。「初音」から「野分」までをおさめる。

この小学館の古典セレクションの『源氏物語』、今では、全巻が新本でそろわないようだ。これは、古本である。どこかで教科書としてつかったものらしく、ところどころに書き込みがあった。その書き込みを見ると、どうもあまり古典に知識のない学生とおぼしい。

ともあれ、軽く作ってあるので、古典セレクション版で読んでいくことにする。

おさめてあるのは、玉鬘系統の巻である。印象に残るのは、玉鬘の妖艶さであろうか。亡き夕顔の遺児である玉鬘を、光源氏はひきとることになる。その玉鬘に、光源氏はひかれていく。そのあたりの描写が、実になまめかしい。

かつて、若いときに亡き夕顔と関係があり、そして、その遺児である玉鬘とのっぴきならない関係になろうとしている。そのギリギリのところで踏みとどまっているのだが、ここは、玉鬘との関係があったとしても、おかしくない展開である。

やはり、これは、紫の上の物語とは別に、玉鬘の物語を構想して書いたものなのであろう。

それから、印象に残るのは、「野分」の巻で、夕霧が紫の上の姿をかいまみるシーン。女性の美しさを描写するのに、正面からその姿を描くのではなく、かいまみという状況設定によって、その姿を見ることになる、これは、『源氏物語』の常道だろうと思うが、その中にあって、「野分」の紫の上は、実に美しい。

玉鬘系統の話しが後になって書かれたとしても、その作業は、集中的に、あるいは、紫の上の物語を書くのと連続して行われたものなのであろう。紫の上の美しさという点においては、共通するものがあると強く感じる。

2020年6月21日記

追記 2020-07-19
この続きは、
やまもも書斎記 2020年7月19日
『源氏物語』(8)行幸・藤袴・真木柱・梅枝・藤裏葉
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/07/19/9269555

『ことばの危機』東京大学文学部広報委員会(編)2020-07-18

2020-07-18 當山日出夫(とうやまひでお)

ことばの危機

阿部公彦・沼野充義・納富信留・大西克也・安藤宏 東京大学文学部広報委員会(編).『ことばの危機-大学入試改革・教育改革を問う-』(集英社新書).集英社.2020
https://shinsho.shueisha.co.jp/kikan/1024-b/

東京大学で、昨年(二〇一九)に行われたシンポジウムを書籍化したものである。内容的には、国語教育改革批判の本である。が、そこは、東大でやっただけのことはある。そうそうたるメンバーでなりたっている。

論点として、そうきわだって目新しい論点のあるという本ではないが、しかし、それぞれの専門分野の第一人者の語っていることだけに、その意味では説得力のある本になっている。

詠みながら、付箋をつけた箇所を一箇所だけ引用しておく。

「ルールを切り替えることで全く新しい世界を導き入れるという行為は、人間の知性の根幹をなすものです。自分が慣れ親しんだ文脈でしか生きていない人は、異なる環境に適応することができませんし、異なる環境から来た人にも上手に対応できない。」(p.49)

第一章 「読解力」とな何か――「読めていない」の真相をさぐる 阿部公彦

ここで、やや強引になるかもしれないが、「古典は本当に必用なのか」の議論にひきつけて考えてみる。まさに「古典」で学ぶのは、過去の日本である。その考え方、心情について、触れることになる。それは、現代とは異質なものである。だが、しかし、一方で、現代にも通じる普遍性をももっている、そのようなものが「古典」ということになる。まさに「古典」を学ぶということは、今の自分とは異なる世界との対話であるといっていいだろう。

現代いわれている社会のグローバル化ということがある。このときに、必用になるのは、自分とは異なる価値観、世界観、人生観を持った人びととどのようにつきあっていくかということになる。このときに、多様な価値観に対応できる柔軟な発想がもとめられる。それを涵養するものが、まずは、文学教育であり、「古典」の教育である……このように考えてみるのだが、これは、牽強付会にすぎるだろうか。

数学や自然科学の分野の普遍性も重要だろう。だが、その一方で、文化や芸術といった分野の多様性を帯びながらも、それをつきつめていくところにある普遍性というものへの認識も重要であると、私は思う。

それから、この本で面白かったところを、もう一つ書いておく。

第三章 ことばのあり方 納富信留

ここで、「論理国語」への批判として、次のようなことを言っている……論理学という学問は実利には役にたつものではない……やはり、ここは、ことばと論理ということについて、改めてたちどまって考える必用があると思うのである。

「古典は本当に必用なのか」ということを考えるうえで、読んで損のない本だと思う。

やまもも書斎記 2019年1月18日
「古典は本当に必要なのか」私見
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/01/18/9026278

2020年7月7日記

『源氏物語』(8)行幸・藤袴・真木柱・梅枝・藤裏葉2020-07-19

2020-07-19 當山日出夫(とうやまひでお)

源氏物語(8)

阿部秋生・秋山虔・今井源衛・鈴木日出男(校注・訳).『源氏物語』(8)行幸・藤袴・真木柱・梅枝・藤裏葉.小学館.1998
https://www.shogakukan.co.jp/books/09362088

続きである。
やまもも書斎記 2020年7月17日
『源氏物語』(7)初音・胡蝶・蛍・常夏・篝火・野分
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/07/17/9268903

第八冊目である。「行幸」から「藤裏葉」までをおさめる。

読んで思うことはいろいろあるが、二点ほど書いてみる。

第一に、「玉鬘」の話しが終わることになる。髭黒の大将と一緒になって、玉鬘は光源氏のもとを去ってしまう。(この後、「若菜」の巻にも玉鬘は登場することにはなる。)以前にこのあたりのことを読んだときには、髭黒の大将の北の方の行為……もののけにとりつかれて、夫に香炉の灰をあびせかける……の説話的な面白さに気がむいていた。今回、読んでみて、その面白さはもちろんあるのだが、それにいたるまでの様々な登場人物……光源氏は無論のこと、玉鬘、夕霧、雲井雁、頭中将、などなど……のおりなす心理のドラマを、見てとることができるかと感じて読んだ。まさにこのあたりは、近代のリアリズム小説の描き出す心理ドラマに、十分に通じるものがあると思う。

第二に、「梅枝」「藤裏葉」の巻になって、明石の姫君が入内する。このあたりが、光源氏の人生の絶頂と言っていいことになるのだろう。身分は、准太上天皇にまで上りつめる。だが、これと同時に、光源氏は、この世をはかないものに感じるようにもなっていく。

以上の二点が、今回、小学館版で『源氏物語』を読んできて思うことなどである。

『源氏物語』の成立論について、思うことが無いではない。読んだ印象としては、やはり「玉鬘」の話しは、後から書き足して挿入されたとおぼしい。だが、それは、「紫」系の物語を執筆するのと、時をおかずして、集中的になされたものであろう。

次は、いよいよ「若菜」(上・下)になる。『源氏物語』で最も中核的な部分である。続けて読むことにしよう。

2020年6月25日記

追記 2020-07-21
この続きは、
やまもも書斎記 2020年7月21日
『源氏物語』(9)若菜 上
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/07/21/9270198

『文学こそ最高の教養である』光文社新書2020-07-20

2020-07-20 當山日出夫(とうやまひでお)

文学こそ最高の教養である

駒井稔.「光文社古典新訳文庫」編集部 (編著).『文学こそ最高の教養である』(光文社新書).光文社.2020
https://www.kobunsha.com/shelf/book/isbn/9784334044824

これは紀伊國屋で行われてきたイベントを書籍化したものである。光文社古典新訳文庫について、ある本をえらび、その翻訳者と、光文社の古典新訳文庫の編集長(駒井稔)が対談したものである。

全部で一四の章からなり、「フランス文学の扉」「ドイツ文学の扉」「英米文学の扉」「ロシア文学の扉」「日本文学・アフリカ文学・ギリシア哲学の扉」にわかれている。そのうち、最初のフランス文学のについてのところは、次のごとくである。

プレヴォ『マノン・レスコー』
ロブ=グリエ『消しゴム』
フローベール『三つの物語』
プルースト『失われた時を求めて』

そして、各章(対談)のあとには、「さらにお勧めの4冊」としてブックガイドが載っている。

この本は、面白くてほぼ一気に読んでしまった。おそらく、現代において、文学、なかんずく、古典文学について、その面白さを語った本としては、群をぬいているいっていいかもしれない。古典を読む意味、文学を味わう楽しさ、また、それを翻訳することの難しさなど、さまざまな観点から、実に興味深い。

光文社古典新訳文庫から一つの本を取り上げて論じるというのが基本のスタイルではあるが、そこは自由に、作家論になったり、文学史の話しになったり、翻訳論のことになったりと、多彩な内容となっている。文学や古典に対するどのような興味から読んでも、あるいは、その作品、作家を読んだことがあって、またなくても、十分に楽しめる内容となっている。

それから、各章末の「さらにお勧めの4冊」もよくできていると思う。ここは、特に、光文社古典新訳文庫に限定せずに、他の出版社のものであっても、あるいは、すでに古書でしか手にはいらない本であっても、関連する本が紹介してある。これが実によくできていると感じる。

また、やはり、「古典を読む意味」とか「文学と何か」とか、さらには、「古典は本当に必用なのか」の議論に興味があって読むと、なるほどとなっとくするところがある。まさに、この本のタイトルがしめしているように、「文学」を「教養」として考える視点があってよい。

それは、異なる時代、異なる地域や国の人びとが何を考え、何を思って生きてきたのか、そして、今に通じる文学としての普遍性に思いをはせることになる。文学を読むということは、その背景にある多様性と、普遍性について考えることにつながる。文学の普遍性、それは人間とは何か、ということにつきるのかもしれない。

なお、この本はほとんどいっきに読んだのだが、最後に書いてあることばが印象的である。文学は芸術であると駒井稔は記している。今、文学は、エンターテイメントか、あるいは、思想か、という雰囲気で語られることが多い。だが、文学の本質は、芸術なのである。そのことを再確認させてくれる意味でも、この本はよくできていると思うのである。

2020年7月19日記

追記 2020-09-25
『マノン・レスコー』については、
やまもも書斎記 2020年9月25日
『マノン・レスコー』プレヴォ/野崎歓(訳)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/09/25/9298998