『源氏物語』(12)匂兵部卿・紅梅・竹河・橋姫2020-08-03

2020-08-03 當山日出夫(とうやまひでお)

源氏物語(12)

阿部秋生・秋山虔・今井源衛・鈴木日出男(校注・訳).『源氏物語』(12)匂兵部卿・紅梅・竹河・橋姫.1998
https://www.shogakukan.co.jp/books/09362092

続きである。
やまもも書斎記 2020年7月31日
『源氏物語』(11)横笛・鈴虫・夕霧・御法・幻
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/07/31/9273660

第一二冊目である。「匂兵部卿」から「橋姫」までをおさめる。

この冊を読んで思うことを書くならば、次の二点ぐらいだろうか。

第一には、「匂兵部卿」「紅梅」「竹河」。

この三巻については、『源氏物語』の成立論においても、いろいろ問題のある部分であることは承知しているつもりである。その目で読むせいもあるのだろうか、やはり、これらの巻は、それまでの光源氏の物語と、筆致が異なるように感じられてならない。別作者とまで言う気はないが、もし、同じ作者……おそらくは紫式部……であったとしても、これらの部分は、独立して別に書いたとしか思えない。(はっきりいって、ここの部分は、読んでいてつまらないのであるが。)

第二には、「橋姫」。

ここから、いよいよ「宇治十帖」にはいる。確かに、ここにきて、文章が変わってきている。また、登場人物のおもむきもことなる。これまでの『源氏物語』の本編、それも「紫の上」系の物語であれば、そんなに大きくは登場しなかったであろう、弁の君など、それから、宇治とのつかいをする召使いなど……これらの登場人物の描写が、これまでの物語とは異なった雰囲気を作りだしている。

そして、仏教。本編でも、紫の上にせよ、光源氏にせよ、多くの登場人物は出家の願いをもっており、また、現に出家している。仏道へのあこがれといってよいか。

だが、薫の仏教への思いは、ちょっと違っていると感じるところがある。「宇治十帖」になって、この物語は、仏教への思いが異なってきている。このあたり、日本における、いわゆる仏教文学という観点から見るならば、『源氏物語』「宇治十帖」は、かなり異色の作品と言ってよいのではなかろうか。

つづけて「宇治十帖」を読んでいくこととしたい。

2020年6月29日記

追記 2020-08-04
この続きは、
やまもも書斎記 2020年8月4日
『源氏物語』(13)椎本・総角
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/08/04/9275173

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