『失われた時を求めて』(3)第二篇「花咲く少女たちのかげにⅠ」プルースト/高遠弘美訳2020-08-29

2020-08-29 當山日出夫(とうやまひでお)

失われた時を求めて(3)

プルースト.高遠弘美(訳).『失われた時を求めて』第二篇「花咲く少女たちのかげにⅠ」(光文社古典新訳文庫).光文社.2013
https://www.kotensinyaku.jp/books/book165/

続きである。
やまもも書斎記 
『失われた時を求めて』(2)第一篇「スワン家のほうへⅡ」プルースト/高遠弘美訳
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/08/21/9280633

光文社古典新訳文庫版で三冊目である。

収録してあるのは、第二篇「花咲く少女たちのかげに」の「第一部 スワン夫人のまわりで」である。

高遠弘美訳で読んでいるのだが、相反する二つの気持ちがある。

第一には、この作品を読むと、ふとその作品世界の中にはいりこんでしまう、これこそ文学を読む時間の芳醇さといっていいだろう、そんなゆったりとした時間の流れを感じる。

第二には、そうはいっても、今一つ、その小説の世界のなかにはいっていけない、ある種のもどかしさのようなものも感じる。

二つの思いが交錯しながら読んだ。

これは、一九世紀末のパリの、社交界……というよりも、高級娼婦(ココット)であり、サロンの世界に、なじみがないせいだろう。これがどういうものなのか、はっきりしないもどかしさのようなものを感じてしまうことになる。

それから、この小説は、一九世紀リアリズムの小説ではなく、そこから一歩進んだところで書かれている。主人公「私」の意識を見ている、メタレベルの「作者」の視点がある。このあたりのところが、この作品の魅力の本質でもあるし、同時に、とりつきにくさでもある。

このようなことは、訳者も思っているのだろう。この三冊目の読書ガイドは、ほとんど、高級娼婦(ココット)とサロンの説明についやしてある。

まあ、別にこのあたりのことは、分からなくてもいいことなのかもしれないとは思う。今の日本で、平安の昔の『源氏物語』を読むとしても、その宮廷の様子など、解説されても、はっきりいってあまりよくわからないというのが、本当のとこでもある。しかし、読んでいくと、文学としての芸術の普遍性を感じる。『失われた時を求めて』も、そのように読めればいいのかもしれない。この本の読書に求めるべきは、芸術としての普遍性である。

それは、まさに、意識についての意識のながれを延々と書き綴っていくなかに、その叙述の時間のなかにしか存在しないある種の文学的感銘としかいいようがない。

続けて四冊目を読むことにしたい。

2020年7月26日記

追記 2020-09-05
この続きは、
やまもも書斎記 2020年9月5日
『失われた時を求めて』(4)第二篇「花咲く少女たちのかげにⅡ」プルースト/高遠弘美訳
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/09/05/9292290

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