『失われた「文学」を求めて』仲俣暁生2020-10-16

2020-10-16 當山日出夫(とうやまひでお)

失われた「文学」を求めて

仲俣暁生.『失われた「文学」を求めて-文芸時評編-』.つかだま書房.2020
https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784908624100

二〇一六年から二〇二〇に書けて書かれた、文芸時評を編集したものである。とりあげてある本は、およそ五〇冊ぐらいになる。買って一読して思ったことなど書いてみる。主に二点ある。

第一には、文芸時評、書評として、非常に面白い。

とりあげられた本のなかには、読んだことのある本もあり、あるいは、読もうと思って買ったまま積んである本もあり、また、名前は知っているが買ってはいなかった本もある。無論、中には、この本を読んで初めて名前を知った作品、作家もいる。

この意味では、非常に意欲的に書かれた本である。そして、その主張するところ……現代の日本文学の停滞をなんとかしたい、という気持ちが伝わってくる。たしかに、著者の言うとおり、今の日本の文学は停滞しているといっていいのだろう。もっと時代に対して、アクチュアルに反応するところがあってよい。時代ときりむすぶところがあってこそ、文学にその時代の生きた血がかようというべきなのだろう。

第二は、その一方で、この本には欠落している視点、芸術ということ。

私は、文学とは芸術であると思っている。無論、そこに思想や哲学を盛り込むこともできる。時代への批判的視点で書くこともできる。

だが、何よりも、文学は芸術であり、美なのである。このように考える視点もあってよい。そして、芸術であるからこそ、かつて藤原定家が源平の争乱の時代に書き残したこと、「紅旗征戎非吾事」という視点が確立しうる。そして、このような立場は、決して政治に背を向けることとは限らない。逆に、きわめて政治的な立場の表明ともなり得る。

例えば、近代では、永井荷風の生き方など、考えてみてもよいかもしれない。

この本を読んで、私がややものたらなく感じがところとしては、非政治的であるが故に内包する政治性というものに、視野がおよぶことがあまりないと感じることである。

いや、そのように屈折した政治性をふくめて、現代の日本の文学は衰退していることなのかもしれない。芸術であることを放棄してしまった文学に、どのような意味であれ、政治のことばはむなしいだけである。

以上の二点が、私がこの本を読んで思ったことなどである。

読んで見て、積んである本を取り出してよんでおきたいものがいくつかあった。また、『平家物語』の現代語訳は、これは読んでみようかと思った。私は、日本の古典は、現代の校注本……岩波の古典大系とか、新潮の古典集成とか……で読む。あるいは、場合によっては、オリジナルの写本、版本でも読める。が、これはこれとして、意欲的な現代語訳として、『平家物語』については、読んで見ようかと思う。

2020年10月15日記