『エール』あれこれ「栄冠は君に輝く」2020-11-01

2020-11-01 當山日出夫(とうやまひでお)

『エール』第20週「栄冠は君に輝く」
https://www.nhk.or.jp/yell/story/week_20.html

前回は、
やまもも書斎記 2020年10月25日
『エール』あれこれ「鐘よ響け」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/10/25/9309376

この週は、「栄冠は君に輝く」であった。

見ていて思ったこととしては、次の二点ぐらいだろうか。

第一に、久志のこと。

戦争中に軍歌を歌っていたということで、自責の念にさいなまれる久志は、すさんだ生活をおくっている。そんな久志を見守っているのは、藤丸だった。また、鉄男も久志のことを思っている。だが、誰よりも、久志のことを思っていたのは、裕一であった。

甲子園で裕一は、久志に語る。久志に軍歌を歌わせることになってしまったのは、自分の責任であると。そして、どん底まで落ちた人間にしか歌えない歌がある。「栄冠は君に輝く」は、久志にこそふさわしい。

ここで描かれていた、裕一と久志の友情が、印象に残るものであった。

第二に、「栄冠は君に輝く」。

この歌は、今でも、高校野球の曲として歌い継がれてきている。多くのひとは、どこかで耳にした経験があるだろう。

この歌の成立をドラマチックに描いた週であったともいえよう。これまでのところ、一つの曲の成立をめぐって、その週のタイトルも、その歌であったというのは、「紺碧の空」とこの「栄冠は君に輝く」であると覚えている。どちらも、今につたわる名曲といってよい。

若人の応援歌である。それは、戦争の時代、暗い時代に生き、どん底までおちてみて、さらに、そこから立ち上がった人間にしか、作れない、歌えない歌でもあったというべきであろうか。あるいは、このような曲を作ったということは、とりもなおさず、裕一が常に人びととともにあった、時代とともに生きてきた音楽家ということにもなるのだろう。

以上の二点が、この週を見て思ったことなどである。

そのほかには、かなり省略された描き方であったが、智彦(音の姉の吟の夫)のラーメン屋も繁盛しているようだ。また、喫茶点も、もとのバンブーにもどって、ここも無事に営業できているらしい。

次週、千鶴子さんの再登場となるようだ。音や華をめぐって、いろいろとあるらしい。楽しみに見ることにしよう。

2020年10月31日記

追記 2020-11-08
この続きは、
やまもも書斎記 2020年11月8日
『エール』あれこれ「「夢のつづきに」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/11/08/9314291

『漂流船』メルヴィル/牧野有通(訳)2020-11-02

2020-11-02 當山日出夫(とうやまひでお)

書記バートルビー

メルヴィル.牧野有通(訳).『書記バートルビー/漂流船』(光文社古典新訳文庫).光文社.2015
https://www.kotensinyaku.jp/books/book215/

『文学こそ最高の教養である』の本。メルヴィルの二作目である。

読み始めて、奇妙な印象を受ける。そして、あるいはひょっとしてという予想が生まれる。(そして、その結果は、その予想のとおりであったのだが。)

アメリカ文学において、黒人、なかんずく、黒人奴隷という存在がどのように文学作品で描かれてきたのかを、考えるときには、おそらくこの作品はかならず参照されることになるにちがいない。まさに黒人奴隷の時代に、このような作品を書いていたメルヴィルとう作家の慧眼は、すばらしいという印象がある。

また、翻訳もいい。えてして、文学に登場する黒人奴隷というと、奇妙な方言のようなことばを使うように訳されることが多い。これは、現代の日本語学の概念としては、一種の役割語ということになる。しかし、この文庫の翻訳では、そのような訳を採用していない。たしかに、身分の上下関係という役割を反映した日本語にはなっている。

これは、この光文社古典新訳文庫の方針らしい。アメリカにおいて、確かに黒人英語というべきことばがあることは確かなのだろうが、それを文学作品の翻訳において、どのような日本語に対応させるべきなのかは、いろいろと考えてみると難しい問題がある。

ともあれ、この『書記バートルビー』『漂流船』の二作は、『白鯨』で持っていたメルヴィルへのイメージを大きく変えるものになっている。

2020年10月31日記

『麒麟がくる』あれこれ「朝倉義景を討て」2020-11-03

2020-11-03 當山日出夫(とうやまひでお)

『麒麟がくる』第三十回「朝倉義景を討て」
https://www.nhk.or.jp/kirin/story/30.html

前回は、
やまもも書斎記 2020年10月27日
『麒麟がくる』あれこれ「摂津晴門の計略」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/10/27/9310089

信長はいよいよ「天下」をめざして行動するようになる。

この回を見ていて思ったこととしては、次の二点ぐらいだろうか。

第一には、正親町天皇。

近年の大河ドラマで、天皇が登場してきていたというと、『八重の桜』で孝明天皇が登場していたのを思い出す。戦国時代ドラマではどうだろうか。あまり天皇が登場してきていないように覚えている。

そのなかにあって、正親町天皇の登場は異色であるといっていいかもしれない。しかも、貫禄と気品のある天皇の姿であった。ただ、歴史上の正親町天皇という存在がどのような天皇であったか、その詳しいことはあいにくと知らない。戦国末期、「天下」をめぐって大名たちが覇権をあらそう時代にあって、「天皇」という存在をまもりぬくことになった。

あるいは、このドラマにおいては、正親町天皇こそが最大の策士であるのかもしれない。

これは、日本の歴史において、天皇とは何か、幕府、将軍とは何か、という問いかけにも通じることなのであろうが、ここのところを、脚本はたくみに描いていると感じる。

第二には、駒と東庵。

とも架空の人物である。どうやら、その当時の身分秩序を超越したところで生きているようである。駒は将軍と仲良しであるし、東庵は天皇と碁を打ったりしている。この架空の登場人物については、いろいろ評価の分かれるとこかと思う。

駒と将軍のことは、無くてもいいようにも思える。が、二人の仲を描くことによって、将軍義昭がどのような人物であったか、鮮明になっていることも確かかもしれない。

また、天皇と東庵の関係もおもしろい。身分秩序の混乱期ではあったろうが、そこにおいて、天皇と昵懇に話せる人物として登場してきている。あるいは、この東庵という人物を設定することによって、天皇を描くことができたと見るべきかもしれない。

以上の二点が、この回を見て思ったことなどである。

帰蝶が、久々の登場であった。信長の妻として堂々として、また品があったように感じる。これから、信長の生き方にどのようにかかわってくることになるのであろうか。

それにしても、朝廷も、幕府も、その枢要の人物は、いかにも頼りなく、あるいは、権謀術数にたけているともいえる。このような京の都にあって、これから光秀は、どのように生きていくことになるのであろうか。また、信長の朝倉との戦は、どうなるのか。(歴史の結果は分かってはいるのだが)ここは、ドラマとして、どのように描くことになるのか、楽しみに見ることにしよう。

2020年11月2日記

追記 2020-11-10
この続きは、
やまもも書斎記 2020年11月10日
『麒麟がくる』あれこれ「逃げよ信長」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/11/10/9315019

ムラサキシキブ2020-11-04

2020-11-04 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日は花の写真の日。今日は花ではなくムラサキシキブの実である。

前回は、
やまもも書斎記 2020年10月28日
マンリョウ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/10/28/9310403

我が家から、少し歩いたところにある。六月ごろに薄紫の小さい花を咲かせる。それが、秋になると、紫色の実になる。

ムラサキシキブの写真というと、もっとたくさんの実がなった写真が多い。しかし、私が目にしているものは、そんなに多くの実がならない。おそらく鳥が食べてしまうのだろうと思う。赤い実がなるガマズミやカナメモチの実も、すぐに鳥が食べてしまうようだ。

散歩道にある。今年はいろいろあって、あまり散歩に出ることもなかったが、秋になって涼しくなってきてから、カメラと三脚を持って出かけることのできるときは、出るようにしている。

ムラサキシキブ

ムラサキシキブ

ムラサキシキブ

ムラサキシキブ

ムラサキシキブ

Nikon D500
TAMRON SP 90mm F/2.8 Di MACRO 1:1 VC USD

2020年11月3日記

追記 2020-11-11
この続きは、
やまもも書斎記 2020年11月11日
コナラ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/11/11/9315341

『晩年』太宰治/新潮文庫2020-11-05

2020-11-05 當山日出夫(とうやまひでお)

晩年

太宰治.『晩年』(新潮文庫).新潮社.1947(2005.改版)
https://www.shinchosha.co.jp/book/100601/

ここしばらくは、秋になるとまとまった本を読む。一昨年は、『失われた時を求めて』を、岩波文庫と集英社文庫で、一四冊読んだ。昨年は、夏目漱石の新潮文庫で出ている本を全部読んだ。さて、今年はどうしようかと思って、太宰治を読むことにした。

太宰治は、これまで折りにふれていくつかの作品を読んだことはある。たしか、その作品のいくつかは、学校の教科書にも載っていたように覚えている。中学、高校生のころから、読んできているといってよいだろう。しかし、まとまって、集中的に読んでみるということはこれまでしてきていない。(このような作家としては、三島由紀夫とか、川端康成とか、谷崎潤一郎とかがある。)

本は買って積んであった。今年の春頃、COVID-19の影響で、外出することがなくなってしまったので、家で読もうと思ってまとめて買った。が、なんとなく読みそびれて積んだままになってしまっていた。

積んであった本のなかから適当に一冊を手にしてみた。『晩年』である。これは、たまたまのことになるが、この作品が、太宰治の最初の小説集ということになる。

読んで見て思うことは……これは、解説などでも触れられていることだが……その後の太宰治の文学のすべてが凝縮されてある、という印象をもつ。そのうち二点ばかり書いてみる。

第一には、「思い出」。

幼少期のことをつづった作品である。『晩年』のなかでも、ひときわ印象が深い。

日本の近代文学の作品のなかには、その作家の幼少期のことを回想して書いたという体裁の作品がいくつかある。これも、それらのうちの一つということになるのだろう。そして、傑作といっていいだろう。あわい叙情性と、それを語る穏やかな文体がいい。

第二には、「葉」。

最初に収録されている、いくつかの文章の断片をまとめたものであるが、そのなかに、女性の立場で語った文章がある。これがいい。太宰は会話文体、特に女性の語りがたくみである。その後の太宰の作家としての仕事を予見させるものである。

以上の二点ほどが、特に印象に残ることなどである。

多様な作品が収録されているが、どれを読んでも、後の太宰の文学へと発展していく何かを感じさせるものが多い。

太宰治の作品の主なものは、現在、新潮文庫でほぼ読めるようだ。今年の秋は、太宰治をまとめて読んでみることにしようかと思う。なかには、以前に読んで再読になる作品もある。「全集」を見るのもいいかと思うが、もう楽しみの読書である。新潮文庫で今でも売っている本に限定して読んでみるということにしたいと思う。

2020年10月30日記

追記 2020-11-07
この続きは、
やまもも書斎記 2020年11月7日
『二十世紀旗手』太宰治/新潮文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/11/07/9313948

『崩れゆく絆』アチェベ/粟飯原文子(訳)2020-11-06

2020-11-06 當山日出夫(とうやまひでお)

崩れゆく絆

アチェベ.粟飯原文子(訳).『崩れゆく絆』(光文社古典新訳文庫).光文社.2013
https://www.kotensinyaku.jp/books/book180/

『文学こそ最高の教養である』の本を読んでいる。アフリカ文学ではこの作品がとりあげられている。

読んで思うことは、次の二点。

第一には、アフリカにとって、「小説」というのは、西欧の近代とイコールなのだろう、という思いである。あるいは、「小説」という文学の形式、様式こそ、まさに、西欧的な何かでしかないとでもいえようか。

言い換えるならば、アフリカにもともとからあった、(良くは知らないが)古くから伝わる口承伝承のような文芸とは、明らかに異質である。アフリカにおける「小説」とは、植民地化され、そこから、さらに独立国となっていく過程において、「近代」の社会を生きるようになってから、形成されてきたものなのだろう。

第二には、その意味において、この本を読んで感じるのは、むしろ、日本の明治文学である。明治維新を経て、「近代」の日本になっていくプロセスにおいて、「文学」もまた「近代」であることを要求されることになる。(このあたりの事情は、日本文学史の概略の知識である。)

前近代、非近代であるところから、「近代」を成立させようとする、さまざまなとりくみがなされてきた。このような日本の文学史を知った上で読むと、なるほど「近代」に直面するとは、このようなことなのか、と感じるところがある。

以上の二点が、この作品を読んで感じることなどである。

アフリカ文学として、安易に共感するところはないのであるが、しかし、いま普通に思っている「小説」という文学が、決してアプリオリに普遍的なものではない、ということは感じとれる。そして、それを、新しい現代日本語訳ということで、読めるというのも、また、一つの事実ではある。

アフリカ文学も、かなりの作品が日本語訳で読める。これを機会に、この分野の作品を読んでおきたいと思う。

2020年11月5日記

『二十世紀旗手』太宰治/新潮文庫2020-11-07

2020-11-07 當山日出夫(とうやまひでお)

二十世紀旗手

太宰治.『二十世紀旗手』(新潮文庫).新潮社.1972(2003.改版)
https://www.shinchosha.co.jp/book/100609/

続きである。
やまもも書斎記 2020年11月5日
『晩年』太宰治/新潮文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/11/05/9313341

太宰治の昭和一一年から一二年にかけての作品を収めてある。この時期は、太宰にとっては、薬物中毒、また、心中未遂と、波乱に満ちた時期であった。また、時代の世相としては、日本が、いよいよ本格的に日中戦争にかかわろうという時代になる。しかし、そのような時代的背景、さらには、作者の伝記的な事情をわかって読むとしても、不思議な魅力に満ちた作品であると感じる。

昭和戦前の文学、特に小説というものが、これほどまでに、多様な表現でありえたのかというのが、まず思うところである。様々な小説の方法論的こころみがなされている。

今の観点から読んでみて、ここに収められた作品はどれも面白い。特に、独自の文体、その多様な語り口がいい。読みながら、思わずその文章を読みふけっていることに気づく。これほど文体の魅力をもつ作家が、現代にどれほどいるだろうか。

太宰治が死んでから、七〇年以上になる。もう昔の作家と思っていたところもあるのだが、今こうして読みかえしてみると、その文章の新鮮さにおどろく。たしかに、過剰な自意識、また、小説を書く自分自身を見るメタな視点というものを感じるところはある。太宰が死んで数十年が経過し、また、読んでいる私自身も、もう若くはない。若いときに読んだ太宰治の印象からはなれて、距離を持って読むことができるといっていいだろう。その余裕を持って読むからこそ、ようやく太宰治の文学というものを、楽しむことができる。

続けて太宰治の新潮文庫版を読んでいきたいと思う。

2020年11月2日記

追記 2020-11-12
この続きは、
やまもも書斎記 2020年11月12日
『新ハムレット』太宰治/新潮文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/11/12/9315672

『エール』あれこれ「夢のつづきに」2020-11-08

2020-11-08 當山日出夫(とうやまひでお)

『エール』第21週「夢のつづきに」
https://www.nhk.or.jp/yell/story/week_21.html

前回は、
やまもも書斎記 2020年11月1日
『エール』あれこれ「栄冠は君に輝く」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/11/01/9311821

史実として、古関裕而の夫婦がどのようであったか、ということとは別に、これは「ドラマ」として、「内助の功の物語」になっている。

オペラのオーディションをうけることになった音は、なんとか審査を通った。しかし、それは、夫である裕一の名前によってであった。そこから、さらに頑張ることもできただろうが、しかし、音は身をひく決心をする。

そして、教会での慈善音楽会。そこで、裕一の作曲した曲を歌う。大きな劇場で歌うのとは違った、これはこれとして非常に充実した時間ということになった。(もうこれで最終回で終わってもいいぐらいだった。)

また、ここでたくみに描かれていたのが、娘の華。いろいろと思うところがあるらしい。その年頃の少女の思いが、うまく描かれていたと感じる。

次週は、福島に舞台がうつるようだ。放送ものこり少なくなってきた。楽しみに見ることにしよう。

2020年11月7日記

追記 2020-11-15
この続きは、
やまもも書斎記 2020年11月15日
『エール』あれこれ「ふるさとに響く歌」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/11/15/9316637

『ソクラテスの弁明』プラトン/納富信留(訳)2020-11-09

2020-11-09 當山日出夫(とうやまひでお)

ソクラテスの弁明

プラトン.納富信留(訳).『ソクラテスの弁明』(光文社古典新訳文庫).光文社.2012
https://www.kotensinyaku.jp/books/book156/

これは、確か若いときに読んだはずである。だが、もうすっかり忘れてしまっている。『文学こそ最高の教養である』の本を読もうと思って、新しい本で読んでみることにした。そう分厚くもない文庫本である。本文の「ソクラテスの弁明」は半分ほど。残りは、解説である。この解説が、実に親切丁寧である。

読んで、なるほどソクラテスの語ったことはこういうことであったのかと思ったり、あるいは、プラトンはこのようにソクラテスのことを描いているのかと感じたりである。とはいえ、もう余生の読書である。ただ、たのしみとして読んでいる。

そういえば、学生のとき、教養の科目でギリシャ哲学の講義を履修したのを思い出す。(これも、今となってはさっぱり覚えていないが、しかし、これは履修しておいてよかった思う科目の一つでもある。)

ふと思うことなのだが……あるいは、学生には時々語っていることなのだが……ソクラテス自身は、自分自身で何も書き残してはいない。また、釈尊(ブッダ)も何も書いていない。孔子もまた同様である。キリストも自身で書いたものが残っているということはない。

過去の偉大な人は、自らは何も書き残していないのである。しかし、その弟子たちの手によって、啓典が編纂され今に残っていることになる。

偉大な思想・宗教と、「書く」ということは、どのように考えればよいのであろうか。

ともあれ、これで、『文学こそ最高の教養である』の本を一通り読んだことになる。『失われた時を求めて』は、別にすでに読んだ。「方丈記」は、これは、現代語訳ではなく、新日本古典文学大系で読むことにしようかと思っている。(本は、買って持っている。)

『文学こそ最高の教養である』の本を読んでみようと思い立って読むことにしなければ、手にすることがなく終わってしまったかもしれない本が多い。このような方針の読書というものがあってもいいだろう。これを契機に、関連する著作、作品など読んでみようかと思うものが、いくつもある。

とりあえず、今のところ、この秋に読む本としては、新潮文庫版の太宰治を読むことにした。いまから「全集」を見ようとは思わない。文庫本で手にはいる範囲で、読んでおきたい。三島由紀夫とか、川端康成とか、主な作品は若いときに読んだりしているのだが、まとめて集中的に読むということはしてきていない。これらの作家の作品を順次読んでいこうかと思っている。

2020年11月8日記

『麒麟がくる』あれこれ「逃げよ信長」2020-11-10

2020-11-10 當山日出夫(とうやまひでお)

『麒麟がくる』第三十一回「逃げよ信長」
https://www.nhk.or.jp/kirin/story/31.html

前回は、
やまもも書斎記 2020年11月3日
『麒麟がくる』あれこれ「朝倉義景を討て」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/11/03/9312628

だが、結局は光秀は謀反をおこして信長を殺すことになる。その結果がわかったうえで見ると、いろいろと面白い展開の回であった。

越前の朝倉を討ちに出陣した信長。しかし、その背後を浅井に攻撃されることになる。かろうじて逃げ帰る。このところで、見どころは二点ぐらいだったろうか。

第一に、信長と光秀。

光秀は、信長に逃げることを進言する。しかし、信長は素直にはうけいれない。ここでの二人のやりとりは、実に緊迫した場面であった。光秀は、信長こそ、天下静謐のために重要な人物であると認識している。そのためには、ここはなんとしてでも生きのびてほしい。

その光秀が、最終的には、本能寺の変をおこすことになる。大きな国、麒麟の現れる世の中をめざしている光秀にとって、信長はどんな存在になっていくのであろうか。これからの展開が楽しみになる。

第二に、秀吉と光秀。

このドラマ、秀吉の登場はそう多いということではないようだ。だが、信長の配下にあって、独特の存在感がある。この時点では、秀吉と光秀は盟友といってよいのだろう。これも、最終的に本能寺の変の後、時代の大きな流れは秀吉に傾くことになるのは、歴史の結果を知っている今日だから思えることである。ドラマの、この時点において考えてみるならば、秀吉と光秀が仲良く、信長のもとで、大きな国、天下をめざしてともに戦う姿を見ることになる。

以上の二点が、見ていて思ったことなどである。

ところで、前から気になっていたことだが、このドラマ、女性が床に座るときは立て膝である。しかし、駒は将軍義昭の前でも、正座していた。このあたりの時代考証の考え方としては、身分による立ち居振る舞いの違いということなのだろうかと思う。

ドラマは、ここにきて、ようやく「天下」ということが表に出てきたように思う。足利将軍の治める天下なのか、あるいは、誰かがそれにとってかわることになるのか。歴史の結果としては分かっているのだが、このあたり、ドラマとしては天下をめぐって展開していくことになるのだろうと思う。

次回、信長を軸にして大きく世の中が動くようである。楽しみに見ることにしよう。

2020年11月9日記

追記 2020-11-17
この続きは、
やまもも書斎記 2020年11月17日
『麒麟がくる』あれこれ「反撃の二百挺」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/11/17/9317360