『きりぎりす』太宰治/新潮文庫2020-11-13

2020-11-13 當山日出夫(とうやまひでお)

きりぎりす

太宰治.『きりぎりす』(新潮文庫).新潮社.1974(2008.改版)
https://www.shinchosha.co.jp/book/100613/

続きである。
やまもも書斎記 2020年11月12日
『新ハムレット』太宰治/新潮文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/11/12/9315672

太宰治を読んでいる。特にこれといって順番を決めて読んでいるわけではない。積んである本を適当に見て、手にしている。

『きりぎりす』には、戦時中……太平洋戦争中……に発表された短篇を収録してある。いわゆる、太宰治の中期、戦争中の作品群ということになる。

これを読んで思うことは、まず何よりも、語り口のうまさである。どれを読んでも、今の時代になって読んでみてもであるが……退屈するということがない。思わず、その作品世界のなかにひたって読んでしまう。このような文学作品の語り口のうまさという点では、太宰治は、近代の文学者のなかで、やはり群をぬいているといっていいのではないだろうか。そして、その語り口のうまさを味わうという読み方ができるようになったというのも、ある意味で、私自身が年をとってきたせいというのもあるにちがいない。若いときは、とてもこのように距離をおいて読むということはできなかったと、昔わかいときに読んだことを思い出す。

収録作品の中で印象深いのは、「姥捨」。心中未遂事件を題材としている。今となっては、太宰治がどのような人生を歩んだ作家なのか、すべて過去のこととして見ることができる。そのような視点にたってということはあるにしても、こんな作品を書いていたのか、と感慨深く感じるところが強い。

また、女性の一人称語りがうまい。どうして太宰治は、女性の一人称語りでたくみな作品を書くのか……たぶん、近代文学研究の分野では論じつくされていることだろうと思うが、日本語学、国語学の立場からしても興味深い。読んで特に「女性」と明示してあるのではないのだが、読み始めるとすぐに、これは女性の一人称語りだなと気づく。言語、文章と、ジェンダーの観点から見て、なぜ女性の一人称語りであるとわかるのだろうか、このあたりがちょっと気になっているところでもある。

2020年11月7日記

追記 2020-11-14
この続きは、
やまもも書斎記 2020年11月14日
『右大臣実朝』太宰治/新潮文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/11/14/9316325

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