コナラ2020-11-11

2020-11-11 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日なので写真の日。今日はドングリである。

前回は、
やまもも書斎記 2020年11月4日
ムラサキシキブ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/11/04/9313022

コナラのドングリだと思って見ている。我が家から少し歩いたとこにある。普段の散歩道とは逆の方向になる。秋なって、そろそろドングリの実がなっているだろうと思って、カメラを持って家を出た。

日本国語大辞典、『言海』については、以前に触れたのでくりかえさない。

やまもも書斎記 2019年11月6日
コナラ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2019/11/06/9173439

今年は、180ミリのレンズを使ってみることにした。散歩に持って出るには大きくて重いので、普段は、遠くまで持っていくことはない。が、今年は、このドングリを写そうと思って、持って出てみた。

我が家の近辺にドングリをつける木はいくつかある。ドングリの図鑑など買って眺めたりしてはいるのだが、なかなかそれと見極めをつけるのが難しい。今年の秋は、COVID-19の影響もあったりして、家にいることは多いのだが、カメラを持って散歩に行く機会が減っている。冬にかけて、どうなるかわからないが、身のまわりの整理……まあ要するに本の片づけであるが……をどうにかして、時間を作ってカメラを持って外に出たいと思っている。

冬には冬の景色があり、草花の様子がある。我が家の紅葉……これも何種類かあるが……すでに紅葉して赤くなっているものもあれば、まだ青いものもある。万両の実が赤くなってきている。千両の実も色づき始めている。

コナラ

コナラ

コナラ

コナラ

コナラ

Nikon D500
TAMRON SP AF 180mm F/3.5 Di MACRO 1:1

2020年11月9日記

追記 2020-11-18
この続きは、
やまもも書斎記 2020年11月18日
白い万両
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/11/18/9317731

『新ハムレット』太宰治/新潮文庫2020-11-12

2020-11-12 當山日出夫(とうやまひでお)

新ハムレット

太宰治.『新ハムレット』(新潮文庫).新潮社.1974(2009.改版)
https://www.shinchosha.co.jp/book/100612/

続きである。
やまもも書斎記 2020年11月7日
『二十世紀旗手』太宰治/新潮文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/11/07/9313948

ここに収録されている作品は、次のとおりである。

「古典風」
「女の決闘」
「乞食学生」
「新ハムレット」
「待つ」

太宰の文学でいえば、中期、戦争中……日中戦争から太平洋戦争への時代……の作品であり、「新ハムレット」など、古典作品の枠組みをかりて、その創作へむかったものである。

解説を書いているのは、奥野健男であるが、その解説によると「新ハムレット」は、上演されることがあるという。現代演劇にうとい私には、このあたりのことが今はどうなっているのか、さっぱり分からない。ただ、読んだ印象としては、戯曲の形式をとってはいるが、これは、会話文を軸としてなりたっている小説なのだと思う。

そういえば、「ハムレット」を読んだのは、いつのころだったろうか。若いときに、いろいろと読んでいたなかで、読んだ記憶はあるのだが、今となっては、さっぱり忘れてしまっている。(ただ、シェークスピアの作品は、現代日本語訳で読んだのでは、今一つ隔靴掻痒の感がつきまとう。といって英語で読むほどの語学力があるわけでもないのだが。)

「新ハムレット」であるが、確かに「ハムレット」の枠組みをかりている。しかし、その書かれていることは、まぎれもなく太宰治の文学である。この作品においては、戯曲という形式をつかっているせいもあるが、とにかく語り口がうまい。特に、オフィリアなど女性の登場人物の語り口が魅力的である。

印象に残るのは、「女の決闘」。小説としても面白いが、これを読むと、鷗外の「全集」を見たくなってくる。もってはいるので(しまいこんであるが)、これも取り出してきて、読んでおきたくなった。

それから、最後に収録してある「待つ」。これがいい。いったい何を待っているのだろうか。この作品が書かれたのは、太平洋戦争がはじまってからのことになる。その時代のことを思って読むと、ただひたすら待つということにこめられた、時代へのまなざしのようなものを感じてしまう。しかし、このようなことを抜きにしても、魅力的な掌編である。

2020年11月5日記

追記 2020-11-13
この続きは、
やまもも書斎記 2020年11月13日
『きりぎりす』太宰治/新潮文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/11/13/9316039

『きりぎりす』太宰治/新潮文庫2020-11-13

2020-11-13 當山日出夫(とうやまひでお)

きりぎりす

太宰治.『きりぎりす』(新潮文庫).新潮社.1974(2008.改版)
https://www.shinchosha.co.jp/book/100613/

続きである。
やまもも書斎記 2020年11月12日
『新ハムレット』太宰治/新潮文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/11/12/9315672

太宰治を読んでいる。特にこれといって順番を決めて読んでいるわけではない。積んである本を適当に見て、手にしている。

『きりぎりす』には、戦時中……太平洋戦争中……に発表された短篇を収録してある。いわゆる、太宰治の中期、戦争中の作品群ということになる。

これを読んで思うことは、まず何よりも、語り口のうまさである。どれを読んでも、今の時代になって読んでみてもであるが……退屈するということがない。思わず、その作品世界のなかにひたって読んでしまう。このような文学作品の語り口のうまさという点では、太宰治は、近代の文学者のなかで、やはり群をぬいているといっていいのではないだろうか。そして、その語り口のうまさを味わうという読み方ができるようになったというのも、ある意味で、私自身が年をとってきたせいというのもあるにちがいない。若いときは、とてもこのように距離をおいて読むということはできなかったと、昔わかいときに読んだことを思い出す。

収録作品の中で印象深いのは、「姥捨」。心中未遂事件を題材としている。今となっては、太宰治がどのような人生を歩んだ作家なのか、すべて過去のこととして見ることができる。そのような視点にたってということはあるにしても、こんな作品を書いていたのか、と感慨深く感じるところが強い。

また、女性の一人称語りがうまい。どうして太宰治は、女性の一人称語りでたくみな作品を書くのか……たぶん、近代文学研究の分野では論じつくされていることだろうと思うが、日本語学、国語学の立場からしても興味深い。読んで特に「女性」と明示してあるのではないのだが、読み始めるとすぐに、これは女性の一人称語りだなと気づく。言語、文章と、ジェンダーの観点から見て、なぜ女性の一人称語りであるとわかるのだろうか、このあたりがちょっと気になっているところでもある。

2020年11月7日記

追記 2020-11-14
この続きは、
やまもも書斎記 2020年11月14日
『右大臣実朝』太宰治/新潮文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/11/14/9316325

『右大臣実朝』太宰治/新潮文庫2020-11-14

2020-11-14 當山日出夫(とうやまひでお)


太宰治.『惜別』(新潮文庫).新潮社.1973(2004.改版)
https://www.shinchosha.co.jp/book/100610/

続きである。
やまもも書斎記 2020年11月13日
『きりぎりす』太宰治/新潮文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/11/13/9316039

新潮文庫の『惜別』の巻には、「右大臣実朝」「惜別」の二作品を収録してある。まずは、「右大臣実朝」から。

この作品は、たしか読みそびれていた太宰の作品の中の一つになる。だが、そのなかの有名な文言は知っていた。

アカルサハ、ホロビノ姿デアロウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ。(p.21)

いったい何を読んで覚えたのか、いまとなってはさっぱり忘れてしまっている。しかし、この有名な箇所だけは、妙に鮮明に記憶している。

新潮文庫の解説は奥野健男が書いているが、それによると、この作品は、太宰の中期の作品のなかでも、戦争中のまっただなかで書かれた作品である。暗い世相のなかにあって、文学に活路を見出そうとするとき、書き下ろし長編小説という形式が、残された道であったことが、解説には書いてある。

太宰は、戦争中、何を思ってこのような作品を書いたのであろうか。近現代の文学研究の動向にうとい私としては、よく知らない分野のことになる。が、ともあれ、今日の観点からこの作品を読んで、やはり戦争の時代というものを感じるところがある。このような形式の文学でなければ、表現できない何かがあったことは確かである。

この作品も、また語りでなりたっている。実朝の近臣の目を通じて、その語りでしか描くことのできない実朝の姿というべきか。あるいは、太宰は、そのたくみな語りの手法で、この小説も書いたというべきか。

ところで、実朝という人は、鎌倉の悲劇の将軍として知られるのみではない。歌人としても名前が残っている。私のむかし習った文学史の知識では、新古今風の歌の流行する時代にあって、万葉風の歌を詠んだ歌人ということになる。

これも、また、今日の知見からするならば、近代における『万葉集』の位置づけと無縁のことではないと理解できるだろうか。

2020年11月8日記

追記 2020-11-16
この続きは、
やまもも書斎記 2020年11月16日
『惜別』太宰治/新潮文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/11/16/9317040

『エール』あれこれ「ふるさとに響く歌」2020-11-15

2020-11-15 當山日出夫(とうやまひでお)

『エール』第22週「ふるさとに響く歌」
https://www.nhk.or.jp/yell/story/week_22.html

前回は、
やまもも書斎記 2020年11月8日
『エール』あれこれ「夢のつづきに」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/11/08/9314291

この週は、裕一の故郷の福島の話し。家族の物語であった。家族のことをあつかって、二つのことが描かれていたのだが、さて、これはもともと独立した週の話しだったのかもしれないと思ったりする。編集の都合で、前半と後半にまとめられてしまったような印象をうけた。

第一には、鉄男のこと。

鉄男のところに、家族をテーマにした曲の依頼がくる。しかし、書けない。家族というものを、福島において、棄ててきてしまったからである。そんな鉄男を、裕一は、福島にさそう。小学校の校歌のおひろめである。そこで、鉄男は、いきわかれてしまった弟と再会をはたす。

結果としては、その後、鉄男は家族を題材にした曲を手がけることができるようになる。

第二には、浩二のこと。

裕一の弟の浩二は、リンゴ農園の娘のまき子に好意を寄せている。しかし、まき子は東京に行くという。そんなまき子に対して、意を決して心中をうちあける。

最後は、二人の結婚式。ここには、裕一の家族も出席していた。

以上の二つの話しがこの週の展開であった。

出てきた裕一の曲としては、「高原列車は行く」があったが、ここは、この曲のことをもっと大きくあつかう脚本、編集であった方がよかったのではないだろうか。が、ともあれ、裕一とその周囲のひとびとの気持ちのつたわってくる週であった。

さて、次回は、娘の華のこと。それから、「君の名は」のことになるようが。楽しみに見ることにしよう。

2020年11月14日記

追記 2020-11-22
この続きは、
やまもも書斎記 2020年11月22日
『エール』あれこれ「恋のメロディ」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/11/22/9319079

『惜別』太宰治/新潮文庫2020-11-16

2020-11-16 當山日出夫(とうやまひでお)


太宰治.『惜別』(新潮文庫).新潮社.1973(2004.改版)
https://www.shinchosha.co.jp/book/100610/

続きである。
やまもも書斎記 2020年11月14日
『右大臣実朝』太宰治/新潮文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/11/14/9316325

この作品には、太宰らしさというべきところがあまりないといっていいだろう。しかし、読み始めていっきに読んでしまった。

登場するの、周さんという中国(清)から留学生。ちょうど日露戦争のころの、仙台が舞台である。仙台医専での、周さんとの交流が描かれる。周さんは、後の魯迅である。

戦争中に書かれた作品である。出版は、都合で戦争が終了してからということになったようだが。そのときに、時局に配慮して書いたのだろうということは、かなり割り引いて読む必要がある。そして、そのところをかなり割り引いて読んだとしても、ふとこの作品に読みふけってしまうことになる。

これは、やはり太宰治ならではの文章のたくみさ、語りのうまさというべきものなのであろう。小説を読む楽しみというものを、十分に知りつくした作品にしあがっている。

ところで、魯迅の作品は、若いときに一通り代表的な作品を読んだことは覚えている。が、近年は手にすることがない。魯迅の作品など、また読みかえしてみたくなった。

2020年11月8日記

追記 2020-11-19
この続きは、
やまもも書斎記 2020年11月19日
『お伽草紙』太宰治/新潮文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/11/19/9318056

『麒麟がくる』あれこれ「反撃の二百挺」2020-11-17

2020-11-17 當山日出夫(とうやまひでお)

『麒麟がくる』第三十二回「反撃の二百挺」
https://www.nhk.or.jp/kirin/story/32.html

前回は、
やまもも書斎記 2020年11月10日
『麒麟がくる』あれこれ「逃げよ信長」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/11/10/9315019

権謀術数のうずまく戦乱の世、なかんずく京の都、そして、畿内にあって、信長は翻弄されている。歴史の結果として、信長が「天下」の覇権を手にする、少なくともその直前まではいく、ということは分かっているのだが、ドラマのこの時点における信長は、地方(美濃、尾張)の一大名である。他には、朝倉、浅井がおり、また、武田信玄も上洛の機会をうかがっているようだ。その影で暗躍するのが、実は、室町幕府ということになるのかもしれない。

摂津晴門はいったい何を考えているのだろうか。また、最後の将軍になる義昭も、なかなか一筋縄ではいかない、単に善人ということでもなさそうである。

この幕府と信長の間にあって、両者の間で奔走することになるのが、今の光秀の立ち位置ということかなと思って見ている。

ところで、ここにきて、駒の存在感が増してきている。義昭の寵愛を受けているようである。このドラマが始まったころの設定では、武士ではなく庶民の視点から見た戦国の世、ということで駒が登場していたかと思い出す。それが、今では、将軍義昭のかたわらにいて、光秀たちとも、通じている、なんだか謎の女性というイメージになってきた。

この週のタイトルの「二百挺」は、筒井順慶からゆずりうけた鉄砲の数である。さて、ここで、筒井順慶と関係をつないでおくことが、これからの信長の「天下」の野望にどうかかわってくるのか、これはこれで面白い展開の脚本になっていると思う。

どうでもいいことかもしれないが、駒は床に座るとき、立て膝では座らないという演出になっている。おそらく、身分とか、出自とかに関連してこのような演出になっているのかと思う。

次週も信長の窮地はつづくようだ。光秀がそこでどのような活躍を見せることになるのか、楽しみに見ることにしよう。

2020年11月16日記

追記 2020-11-24
この続きは、
やまもも書斎記 2020年11月24日
『麒麟がくる』あれこれ「比叡山に棲む魔物」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/11/24/9319822

白い万両2020-11-18

2020-11-18 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日なので写真の日。今日は万両の白い実である。

前回は、
やまもも書斎記 2020年11月11日
コナラ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/11/11/9315341

我が家には、いくつかの万両の木がある。ちょうど今のころになると、実が赤くなる。これも、最初は綠である。そして、黒い小さな斑点が見える。赤く色がかわっていくと、その黒い斑点も見えなくなって、赤い実になる。

そのなかにあって、実の赤くならない万両の木があることに気づいた。実の形状、葉の形など見ても、万両である。WEBで見てみると、万両の中には、実の白い種類もあることがわかった。

このところ、赤い実の万両を写真にとっている。綠色であったものが、徐々に赤くなっていく過程を写真にとっていくと季節が確実に秋から冬に向かってすすんでいることを感じる。

今日、掲載の白い万両の実は、池のほとり、千両の木とか、紫陽花が植わっているところにある。この白い万両についても、これからどうなるのか、観察していきたいと思っている。万両の花は夏に咲く。この夏は、万両の花の写真をとりそびれている。来年の夏、万両の花の写真を写せたらと思っている。そして、白い実になる万両についても見ていきたい。

万両

万両

万両

万両

万両

Nikon D500
TAMRON SP 90mm F/2.8 Di MACRO 1:1 VC USD

2020年11月16日記

追記 2020-11-25
この続きは、
やまもも書斎記 2020年11月25日
ガマズミ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/11/25/9320163

『お伽草紙』太宰治/新潮文庫2020-11-19

2020-11-19 當山日出夫(とうやまひでお)

お伽草紙

太宰治.『お伽草紙』(新潮文庫).新潮社.1972(2009.改版)
https://www.shinchosha.co.jp/book/100607/

続きである。
やまもも書斎記 2020年11月16日
『惜別』太宰治/新潮文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/11/16/9317040

新潮文庫版で太宰治を読んでいる。『お伽草紙』には、

「盲人独笑」
「清貧譚」
「新釈諸国噺」
「竹青」
「お伽草紙」

を収録する。

たしか、記憶では、「お伽草紙」のなかの何かの作品が、学校の教科書にのっていたように覚えているのだが、しかし定かではない。が、この「お伽草紙」は、再読になる。若いとき、高校生のころだったか、大学生になってからだったか、読んだのは覚えている。それ以来だから、四〇年以上前のことになる。

文学史的には、太宰治の中期、戦争中の作品で、日本や中国の昔話などに題材をとった作品群ということになる。「新釈諸国噺」は、西鶴の作品を典拠としたものである。

久々に読んで見て、実に面白い。太宰はこんな面白い小説を書く作家だったのかと、認識をあらたにしたといってもいいだろう。典拠があるというのは、確かに創造にとっては制約かもしれない。だが、太宰は、むしろ制約があってこそ、そこに近現代の人間の目をもちこんで、自在に文学を展開している。ここにあるのは、まぎれもなく太宰の文学である。

一般に太宰は、無頼派などといわれたりするのだが、ここに収められた作品は、あまりそのような印象はない。むしろ、語り口の面白さ、小説としての構築の妙ということを感じる。

この本を読んで、ふと西鶴の作品を読みなおしてみたくなった。西鶴も、読んだのは、大学で国文学、国語学を勉強していたころにことになる。それ以来、とおざかっている。太宰を読んだら、日本の近世文学の作品など、読みなおしてみたいと思う。

2020年11月13日記

追記 2020-11-20
この続きは、
やまもも書斎記 2020年11月20日
『走れメロス』太宰治/新潮文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/11/20/9318366

『走れメロス』太宰治/新潮文庫2020-11-20

2020-11-20 當山日出夫(とうやまひでお)

走れメロス

太宰治.『走れメロス』(新潮文庫).新潮社.1967(2005.改版)
https://www.shinchosha.co.jp/book/100606/

続きである。
やまもも書斎記 2020年11月19日
『お伽草紙』太宰治/新潮文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/11/19/9318056

この巻に収録の作品は次のとおり。

「ダス・ゲマイネ」
「満願」
「富岳百景」
「女生徒」
「駆込み訴え」
「走れメロス」
「東京八景」
「帰去来」
「故郷」

「走れメロス」を読むのは、何十年ぶりになるだろうか。この歳になってよみかえしてみると、その小説としての巧みさが、わかるようになる。おそらく太宰の作品のなかでは、三人称視点で書かれた作品として、数少ないうちにはいるのかもしれない。

それにしても、これほど直接的なテーマの作品は、もう誰にも書けないだろう。この「走れメロス」においてきわまっているといっていいのかもしれない。そして、それは、今になって読んでも面白い。

「富岳百景」は読んだ記憶がある。かなり若いときのことである。「富士には月見草が……」の有名な台詞は、いったいなんで覚えただろうか。たしか、この作品を読む前に知っていて、小説を読んで確認して、なんだかつまらなかった印象をいだいたのを覚えている。

しかし、今になって読みかえしてみると、実によくまとまっている小品であると感じる。太宰の作品で、これまで読んできたものには、あまり叙情性というものを感じなかったのであるが、この作品には、どことなく叙情性を感じる。

「帰去来」「故郷」などの作品。太宰の故郷への思いをつづっている。新潮文庫版で若いときに、この本を読んでいたのであったならば、当然、これも読んでいるはずなのだが……「走れメロス」や「富岳百景」は、読んだのを覚えている……どうも記憶にない。だが、この文庫本のなかでは、この二作が印象に残る。太宰の故郷への思い、家族への思いが、淡々とした筆致でつづられている。デカダンスの文学といわれる太宰であるが、このような作品も書いていたのかと、認識をあらたにするところがある。

2020年11月14日記

追記 2020-11-21
この続きは、
やまもも書斎記 2020年11月21日
『津軽』太宰治/新潮文庫
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/11/21/9318674