二〇二一年に読みたい本のことなど2021-01-01

2021-01-01 當山日出夫(とうやまひでお)

今年(二〇二一)に読んでみたい本のことなど書いてみる。

一昨年、夏目漱石を新潮文庫版で読むことをしてみた。昨年は、芥川龍之介、森鷗外、それから、太宰治について、新潮文庫で今出ている本で読んでみた。今年は、このつづきとして、谷崎潤一郎、三島由紀夫、川端康成など、読んでみようかと思っている。

今その「全集」を手にいれようと思えば、かなり安価で簡単に買えるようになってきてはいる。しかし、「全集」を読むのはやや気が重い。ここは割りきって、今の新潮文庫で読める範囲と限って読んでみるのも、一つの方針かと思う。

岩波文庫の『源氏物語』は、今年には完結するだろうと思う。これも、本編の部分については、読んでいる。残っているのは、「宇治十帖」である。全巻完結したら、最初にもどって、岩波文庫版のテクストで、通読してみようと考えている。(これも、新日本古典文学大系のテクスト……大島本に忠実……について、いろいろ考えることもあるだろう。だが、老後の楽しみの読書である。テクストは、読みやすければそれでいいと思うようになってきた。)

昨年の暮れから冬休みの読書と思って読んでいるのが、向田邦子。そのエッセイ、小説などを読んでいる。昨年末に読んで印象に残っているのが、柳美里の『JR上野駅公園口』。柳美里の他の作品も読んでみたい。また、日本の現代作家として、小川洋子とか、多和田葉子とか、読んでおきたくなっている。

昨年から話題の本といえば、『ディスタンクシオン』がある。これは読んでおきたい。

その他には、村上春樹の翻訳作品などで、まだ読んでいないものがかなりある。小説家としての村上春樹については、評価の分かれるところがあるかと思うが、海外文学の目利き、翻訳ということについては、非常にいい仕事をしていると思っている。村上春樹訳ということで、読んでおこうと思う。

COVID-19の影響がどうなるか、まったく予断をゆるさない。たぶん、この年も居職の生活になるかと思う。家にいる限りは、本を読む生活をおくりたいものである。古典を、文学を、読みたいと思う。そして、時間があるときは、カメラを持って外にでて身近な草花の写真など撮っていきたい。

2021年1月1日記

『思い出トランプ』向田邦子2021-01-02

2021-01-02 當山日出夫(とうやまひでお)

思い出トランプ

向田邦子.『思い出トランプ』(新潮文庫).新潮社.1983(2014.改版)
https://www.shinchosha.co.jp/book/129402/

川本三郎の本を読んだら、向田邦子を読みかえしてみたくなって読んでいる。

やまもも書斎記 2020年12月24日
『向田邦子と昭和の東京』川本三郎
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/12/24/9329899

この本が、向田邦子の直木賞受賞作ということになる。

向田邦子については、『父の詫び状』以来の読者でいるつもりである。これが出たとき、まだ学生のころだったろうか。テレビを持たない生活をしていた私にとっては、向田邦子は、脚本家であるよりも、まず、エッセイストであった。それが、小説も書くようになって直木賞をとることになった。

だが、この作品については、読んだという確かな記憶がない。手に取ったようにも覚えているのだが、いまではもう過去のことになってしまっている。新しい文庫本で読むことにした。

どれも巧いと感じさせる。短編小説の名手といっていいのだろう。特徴として思うこととしては、次の二点ぐらいがあるだろうか。

第一には、凝縮された時間。

どの短編も、非常に短い時間のながれをえがいている。その短い時間のなかに、過去の回想があり、思い出があり、小説の世界はふくらんでいく。そして、最後の一瞬のシーンで鮮やかに幕切れとなる。

これは、テレビドラマという時間の制約のある仕事で身につけた、作者ならではの感覚のなせるわざなのだろうと思う。

第二には、古風なことば。

これは、川本三郎が指摘していたことなので、特に留意して読むことになったのだが、この作品においては、ことばづかいが古風である。しかし、その文章、文体はまぎれもなく現代のものである。だが、そこで使用されることばにおいて、あえて古風な用語をえらんでいる。

これは、ドラマの脚本では、役者の台詞にはつかえないようなものであったのかもしれない。それを、自由につかうことを楽しんでいるかのごとく感じる。

以上の二点が、読んで思うことなどである。

それから、どの作品も、作品の発表された一九八〇年ごろよりも、ひとつ前の時代のことを描いている、あるいは、作品中に回想としてとりこんでいる。まさに、昭和という時代を描いた作品であると感じるゆえんである。

見てみると、向田邦子の作品の多くは、今でも文庫本で刊行されている。しばらく向田邦子の書いたものをまとめて読みかえしてみようかと思う。

2020年12月24日記

追記 2021-01-03
この続きは、
やまもも書斎記 2021年1月3日
『父の詫び状』向田邦子
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/01/03/9333732

『父の詫び状』向田邦子2021-01-03

2021-01-03 當山日出夫(とうやまひでお)

父の詫び状

続きである。
やまもも書斎記 2021年1月2日
『思い出トランプ』向田邦子
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/01/02/9333235

向田邦子.『父の詫び状』(文春文庫).文藝春秋.2006(文藝春秋.1978 文春文庫.1981)
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167277215

向田邦子の本をよみなおしてみたくなって順に読んでいる。この本は、若いときに読んでいる。書誌を書いてみて、たぶん一九八一年の文庫本だったろうかと思う。

何十年ぶりかに読みなおしてみて……まさに、この本に語られているとおりなのだが……この本を最初に読んだころのことを、ふと思い出す。まだ、若かったころのことである。

としをとってから再読してみると、向田邦子は、人情の機微、人間の生老病死、というものをたくみに書いていると感じる。特に、人間の「老い」とでもいうべきところに、視野がおよんでいる。これは、若いときによんだのでは気づかなかったところである。

留守番電話と黒柳徹子の話しは、どの本で読んだのかは忘れてしまっていたが、この本であったことを確認したことになる。

このエッセイに描かれたいくつかのシーンは覚えているものがある。それほど、最初に読んだときの印象が強かったということである。しばらくして、向田邦子が直木賞を受賞したと知ったとき、当然だろうと思ったものである。

これは忘れていたことになる。この本のなかに、いくつか飛行機のシーンがある。そのなかで印象的なのは、南米アマゾンに旅行して飛行機に乗る話し。飛行機事故があったというのだが、同行の沢地久枝と一緒に飛行機で旅することになる。普通に本を読んでいったのだが、このところで、ふとページをめくる手がとまってしまった。

向田邦子のエッセイは、私のわかい時の思い出のつまった本でもある。

2020年12月25日記

追記 2021-01-04
この続きは、
やまもも書斎記 2021年1月4日
『無名仮名人名簿』向田邦子
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/01/04/9334082

『無名仮名人名簿』向田邦子2021-01-04

2021-01-04 當山日出夫(とうやまひでお)

無名仮名人名簿

向田邦子.『無名仮名人名簿』(文春文庫).文藝春秋.2015(文藝春秋.1980 文春文庫.1983)
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167277031

続きである。
やまもも書斎記 2021年1月3日
『父の詫び状』向田邦子
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/01/03/9333732

向田邦子をまとめてよみかえしている。主な作品……エッセイ……は、若いときにだいたい買って読んできたつもりでいる。何十年ぶりかの再読ということになる。

この『無名仮名人名簿』は、読んだ記憶がある。特に印象にのこっているのは「カバーガール」。タイトルがいい。(といっても、今ではもう「カバーガール」ということばが過去のものになってしまっている。)

向田邦子のエッセイを読んで感じることは、やはり次の二点になるだろう。

第一には、時代が刻印された文章であること。昭和戦前のことから、高度経済成長期のころにいたるまでの、日本の地方都市、それから、東京の町が、細やかな視点で描かれる。どの文章を読んでも、その文章の描いた時代、書かれた時代というものを感じさせる。その多くは、大げさに時代を論じるというものではなく、あくまでも市井の人びとの視線である。

第二には、その普遍性だろう。確かに、向田邦子は、時代とともにあった。だが、そのエッセイに描かれる情感は、ある種の普遍性をもっている。言い換えるならば、文学たりえているということである。ただ、時代のなかで書いた文章ではない。人間を見る目の確かさというべきものがそこにはある。

この二つのことを、向田邦子の作品を読んで思うことである。

さらに書いてみるならば、向田邦子が活躍していた時代というのは、まさに女性が社会に出て活動しようという時代の前夜というべきころになる。その時代にあって、自分でかせいで自立した生き方をしている女性として、向田邦子の作品はある。あるいは、今にいたるまで人びとをひきつける要因のひとつとして、自立した女性の生き方を感じるということがあってであろう。

無論、その一方で、今では失われてしまった昭和の過去へのノスタルジーに満ちた文章という側面もあるのだが。

二〇二〇年もいろいろとあったが、冬休みの本ということで、向田邦子の作品をまとめて読んでみるつもりでいる。読むと、昔読んだときのことを思いだしてしまう。

2020年12月27日記

追記 2021-01-07
この続きは、
やまもも書斎記 2021年1月7日
『霊長類ヒト科動物図鑑』向田邦子
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/01/07/9335113

『麒麟がくる』あれこれ「本願寺を叩け」2021-01-05

2021-01-05 當山日出夫(とうやまひでお)

『麒麟がくる』第三十九回「本願寺を叩け」
https://www.nhk.or.jp/kirin/story/39.html

前回は、
やまもも書斎記 2020年12月29日
『麒麟がくる』あれこれ「丹波攻略命令」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/12/29/9331552

正月の三日に大河ドラマの通常の放送があるというのは、異例のことかもしれない。いよいよこのドラマも、残り少なくなってきた。

この回で描いていたことで、印象に残るのは次の二点ぐらいだろうか。

第一に、信長。

本願寺を攻めている光秀のもとにあらわれて、自ら陣頭にたつ。いさましくはあるのだが、無謀ともいえる。また、建築中の安土城がいかも自慢の様子である。

このような信長をなんといえばいいのだろうか。戦国乱世の英雄というよりも、むしろ幼児的といった方がいいかもしれない。そのような信長であるから、朝廷に対しても礼を失することもある。このあたりを契機として、光秀は信長とうまくいかなくなる、そのようなこれからの展開を予想させる。

第二に、熙子。

この回の後半は、光秀の病気と、それを懸命に看護する熙子であった。結局、熙子は、この回で死んでしまうことになる。その熙子を思う光秀の愛情が、情感深く描かれていたと思う。

以上の二点が、この回で印象に残っているところである。

このあたりにきて、信長は「天下」ということをかなり強く意識しはじめたようだ。安土城は、その「天下」の象徴でもあろう。この「天下」をめぐる信長と、光秀がどうなっていくのか、これからの展開を楽しみに見ることにしよう。

2021年1月4日記

追記 2021-01-12
この続きは、
やまもも書斎記 2021年1月12日
『麒麟がくる』あれこれ「松永久秀の平蜘蛛」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/01/12/9336833

カナメモチ2021-01-06

2021-01-06 當山日出夫(とうやまひでお)

今年も水曜日は写真の日。今日はカナメモチである。

前回は、
やまもも書斎記 2020年12月30日
公孫樹
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/12/30/9331895

去年のうちに撮影しておいた写真である。もう鳥が食べて無くなってしまっている。

我が家の駐車場の入り口のところにある木である。初夏に白い花を咲かせる。それが、秋になると赤い実がなる。常緑樹である。

身近な草花の写真など撮ろうと思って、その初めのころに、この木の白い花を写したのを覚えている。最初は名前がわからなくて困った。秋になって赤い実をつけるのを確認して、カナメモチだろうと見当をつけたものである。

お正月を過ぎて、家の周囲に花は見られない。千両の赤や黄色の実も、ほとんど鳥が食べてしまったようで、少なくなっている。万両の赤い実は、まだ見ることができる。ヤツデの白い花が目立つ。庭に出て写真を撮ってみようと思うと、梅や木瓜の木の冬芽が目につく。つぼみというには早い。しかし、春になるとこれがつぼみになって花が咲くであろうことを予感させる様子である。

使っているレンズは、タムロンの180ミリ。カナメモチの実を写真に撮ろうと思うと、何よりも風が気になる。少しの風にもゆらぐ。日中、風の無い時間をみはからって、何度か外に出て写したものからである。

この冬が過ぎて、春になって、この木に白い花の咲くころ、また写真に撮れたらと思っている。

カナメモチ

カナメモチ

カナメモチ

カナメモチ

カナメモチ

Nikon D500
TAMRON SP AF 180mm F/3.5 Di MACRO 1:1

2021年1月5日記

追記 2021-01-13
この続きは、
やまもも書斎記 2021年1月13日
ヤツデ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/01/13/9337126

『霊長類ヒト科動物図鑑』向田邦子2021-01-07

2021-01-07 當山日出夫(とうやまひでお)

霊長類ヒト科動物図鑑

向田邦子.『霊長類ヒト科動物図鑑』(文春文庫).文藝春秋.2014(文藝春秋.1981 文春文庫.1984年)
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167901417

続きである。
やまもも書斎記 2021年1月4日
『無名仮名人名簿』向田邦子
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/01/04/9334082

この本もたしか読んでいると思う。向田邦子のエッセイを適当に見つくろって読んでいる。

向田邦子のエッセイの面白さは、いろいろと分析することができよう。ここでは、二つのことを考えてみたい。

第一には、向田邦子は、自立する女性の先がけであったことである。父親のもとを飛びだして、ひとりで生活する。放送作家、脚本家をなりわいとして、自分一人で生きてきている。まさに、自立した女性という側面をもっている。

第二は、その一方で、昭和戦前からの古風な生活感覚の持ち主でもある。特にその家庭は、昭和戦前のサラリーマン家庭であり、家族のあり方は、まことにふるめかしい。そして、その生活感覚を、かなりとしをとってからも保ち続けている。それは、エッセイのなかにふと見られる、ちょっと古風なことばづかいなどに反映されている。

この相反するような二つの側面を、向田邦子は持っている。だから、今になって読みかえしてみても、古びた印象がしない。

ただ、そうはいいながら、やはり文章の書かれたその時代の刻印というものがある。このような箇所は、今の私のような読者にとっては、むしろ懐かしいような感覚で読むことになる。

この本を読んでも飛行機のことが出てくる。読みながら、飛行機のことを話題にした話しになると、ふとページを繰る手がとまってしまう。

2020年12月29日記

追記 2021-01-08
この続きは、
やまもも書斎記 2021年1月8日
『隣りの女』向田邦子
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/01/08/9335501

『隣りの女』向田邦子2021-01-08

2021-01-08 當山日出夫(とうやまひでお)

隣の女

向田邦子.『隣りの女』(文春文庫).文藝春秋.2010(文藝春秋.1981 文春文庫.1984)
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167277222

続きである。
やまもも書斎記 2021年1月7日
『霊長類ヒト科動物図鑑』向田邦子
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/01/07/9335113

文春文庫版で向田邦子を読んでいる。これは、短編小説集。

収録してあるのは、
「隣りの女」
「幸福」
「胡桃の部屋」
「下駄」
「春が来た」

どれも短い作品だが、巧い。テレビのドラマを書くことで培ったであろう、ごく日常的な風景のなかに揺れうごく人間の感情の機微を描いている。読みながら、もしこれがテレビドラマであったなら、こんなシーンになるのだろうか、と創造しながら読んでしまうことになる。

向田邦子は、エッセイで有名になり、小説を書くようになって、そう多くを書かないうちに、飛行機事故で亡くなってしまった。私が大学院の学生のころだったろうか。その死亡のニュースに接して、ある種の感慨を覚えたことを記憶している。

向田邦子の本のかなりは読んでいたつもりであるが、この本は読んでいなかったと思う。

この本のなかの作品に出てくる登場人物は、どれも市井の人物……ごくそこいらに普通にいるような人びとである。ただ、その人生がちょっと屈折していたりする。とはいっても、そんなに大きな不幸をかかえているというのでもない。ちょっとした生活のなかの傷のようなものがある。その傷が、ふと外の風にふれてうずくような、そんな感覚を見事に描写している。

私にとって、向田邦子は、エッセイストであったのだが、小説家としてもすぐれた仕事を残した人であったことを、改めて認識することになった。惜しい人であった、今になったそう思うことしきりである。

2021年1月3日記

追記 2021-01-09
この続きは、
やまもも書斎記 2021年1月9日
『眠る盃』向田邦子
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/01/09/9335851

『眠る盃』向田邦子2021-01-09

2021-01-09 當山日出夫(とうやまひでお)

眠る盃

向田邦子.『眠る盃』(講談社文庫).講談社.2016(講談社.1979 講談社文庫.1982)
https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000212266

続きである。
やまもも書斎記 2021年1月8日
『隣りの女』向田邦子
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/01/08/9335501

向田邦子の二冊目のエッセイ集ということになる。この本は、昔、若いときに読んだ記憶がある。書誌を書いてみて、講談社文庫版の古いのだったかと思う。

「モジリアーニ」の名前を見ることがあると、向田邦子の文章のことを思い出す。はて、「モジリアーニ」であっているのか、ひょっとして「モリジアーニ」であったのかな……と、思いこんでしまうのである。向田邦子の文章を読むまでは、正しく記憶していたはずなのだが、このエッセイのせいで、私の記憶が混乱することになっている。

「勝負服」ということばも、向田邦子のエッセイを読んで覚えたことばである。

向田邦子の書いたものを読みなおしていると、やはり若いときにその文章を読んだころのことを思い出す。私も若かったし、日本は、高度経済成長が終わり、だが、まだ社会のなかには、昭和の戦前、戦後の余韻がかすかに残っていた時代である。無論、その後のバブル経済のことは、微塵も感じられない、今から思えば、のどかな時代であったかもしれない。

そののどかさを残した昭和の風景が、向田邦子のエッセイからはたちのぼってくる。

ところで、向田邦子のエッセイの魅力はいろいろと語ることができるだろうが、その一つにユーモアがあると思っている。ゲラゲラと笑い転げるおかしさではなく、思わずうつむいてクスッと笑ってしまうような、おもしろさである。そして、そのユーモアには、かすかに、はにかみとでもいうべきものがよりそっている。

(今から思えば)時代の先端を行くような自立した女性の生き方をしていながら、どことなく、古風な昭和戦前の生活感覚を感じさせる、向田邦子の文章には、どこかしらはにかみといっていいようなものを感じてしまうのである。これが、おそらくは、向田邦子の文章が今にいたるまで読み継がれている理由の一つかと思う。

読んでみた講談社文庫版にしても、古い文庫版を改版して、あたらしく活字を大きくしたものになっている。新装版である。文春文庫版でも、同様のあつかいになっている。

2021年1月5日記

追記 2021-01-11
この続きは、
やまもも書斎記 2021年1月11日
『夜中の薔薇』向田邦子
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/01/11/9336489

『おちょやん』あれこれ「女優になります」2021-01-10

2021-01-10 當山日出夫(とうやまひでお)

『おちょやん』第5週「女優になります」
https://www.nhk.or.jp/ochoyan/story/05/

前回は、
やまもも書斎記 2020年12月27日
『おちょやん』あれこれ「どこにも行きとうない」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2020/12/27/9330862

この週から、舞台は京都に移った。

京都にひとりでやって来た千代は仕事を探すことになる。みつかったのは、カフェーの女給である。この当時のカフェーの女給といえば、ほとんど娼婦に近いといっていいのだろうと思う。だが、ドラマでは、そのあたりは柔らかく描いてあった。

女優になりたいという希望をもっていた千代は、東京から来た詐欺師にだまされかける。だが、この事件をきっかけにして、千代の女優志望は固まったといってよい。

そして、印象的なのが千鳥。あまり売れない、女性ばかりの劇団の座長である。京都で興行しているとはいうものの、それまでは地方を巡業していたらしい。このような旅芸人も、カフェーの女給も、ある意味では社会の底辺で生きる生活である。(このような見方で見るとであるが、千鳥が立派な一軒家に住んでいるのは、どうかと思うところもないではない。)

その千鳥も、芸人としての哀愁を感じさせる。このドラマは、演劇、芸能にたずさわる人びとを描くことになるはずだが、そのような人びとは、この時代……昭和戦前……においては、華もあったろうが、一面では、普通の人びとから疎外される存在であったはずである。たとえば、川端康成の『伊豆の踊子』など。

このドラマでは、演劇、芸能の人びとの、疎外者としての側面はあまり描かないですすめるのだろうと思う。だが、そのなかにあって、芸に生きることになる人間の悲哀を、そこはかとなくただよわせる描写がある。以前に出ていた、道頓堀での延四郎といい、京都での千鳥といい、さらに清子などもふくめて、芸に生きる人間の覚悟と悲哀を感じさせる脚本であり、また、役者もそれにこたえていると思う。

次週、千代は舞台にたつことになるようだ。千代の女優としてのスタートになるのだろう。楽しみに見ることにしよう。

2021年1月9日記

追記 2021-01-17
この続きは、
やまもも書斎記 2021年1月17日
『おちょやん』あれこれ「楽しい冒険つづけよう!」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/01/17/9338341