『詩歌の待ち伏せ』北村薫2021-02-01

2021-02-01 當山日出夫(とうやまひでお)

詩歌の待ち伏せ

北村薫.『詩歌の待ち伏せ』(ちくま文庫).筑摩書房.2020
https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480436801/

もとは雑誌連載。ただ、この文庫本にはここのところの書誌が書いてないのが残念である。その後、文春文庫で、『詩歌の待ち伏せ 1』(2006)、『詩歌の待ち伏せ 2』(2006)、さらに、『詩歌の待ち伏せ 3』(2009)と刊行され、ちくま文庫版は、それを合冊して加筆訂正を加えたものということになる。

これは、以前にも書いたことだが、北村薫は、デビューのころから読んできている。まだ、覆面作家であった時代。ミステリ作家であったころである。その後、折りにふれれ、その書いたものは手にしてきた。

北村薫の書いたものを読むと、(先日書いたことだが)「文化資本」ということを、ふと思ってしまう。特に、その父君のことを記した『いとまもうして』のシリーズなど読むと、このような父親、家庭があって、北村薫という人となりがあるのかと、思うところがある。

が、ともあれ、北村薫とほぼ同時代に生きて、その書いたものを読むことができているというのは、ある意味で幸運なことであったかと思う。

この本は、そのタイトルにあるように「詩歌」……詩や俳諧・俳句、さらには和歌にいたるまで……古今東西の詩歌について、連想のおもむくままにつづった随想である。それは、現代詩から、昔の和歌、「百人一首」などにもおよぶ。また、西欧近代の訳詩も登場する。次から次へと、詩歌をたどっていく。そこには、いたるところに「待ち伏せ」がある。

雑誌連載ということもあるのだろう、どの章も短い。その短い文章が連続するつながりが、また詩的な感興にみちている。次は、いったい何に出会うことなるだろうかと、期待しながら読むことになる。

著者は、そのようなことは意図していなかっただろうが、読んでいくと、すぐれた古典論、詩歌論になっている。すくなくとも、そこへの入り口のところまではたどり着ける内容になっている。古典を読む意味、詩歌を読む楽しさとは何か、あらためて気づかせてくれる本である。

ところで、私自身はというと、どうも短詩型文学が苦手である。大学は、国文科というところで学んだから、一通り古典詩歌については、読んできたかと思う。だが、その後、詩歌とはあまり縁のない方向の勉強をすることになった。思い返せば、最も詩歌を読んだのは、高校生のとき、中央公論社の「日本の詩歌」のシリーズにおいてであったかもしれない。

読んでいくと、『百人一首一夕話』が出てくる。なつかしい思い出のある本である。大学の一年のとき、日吉の教養のときだった、池田彌三郎先生の授業で、「百人一首」を読んだ。その後、国文科で勉強するようになって、岩波文庫の「一夕話」が出て、これは、何回か読みかえしたのものである。(国文学、日本文学の古典を勉強するうえで、この本は非常に勉強になる。)

この本を読んだら、北村薫のものをさらに読みたくなってきた。初期のミステリ作品は今でも読める。検索してみると、「名短篇」のアンソロジーを出している。これなど、まとめて読んでみようかと思う。COVID-19のこともあって、外に出ることもない。自分の部屋にいて、古典、名作を読んで時間をつかいたいと思う。

2021年1月31日記

『麒麟がくる』あれこれ「闇に光る樹」2021-02-02

2021-02-02 當山日出夫(とうやまひでお)

『麒麟がくる』第四十三回「闇に光る樹」
https://www.nhk.or.jp/kirin/story/43.html

前回は、
やまもも書斎記 2021年1月26日
『麒麟がくる』あれこれ「離れゆく心」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/01/26/9341089

いよいよ本能寺の変にむけてドラマは動いていく。

この週の見どころとしては、次の二点がある。

第一には、帰蝶のこと。

光秀と帰蝶の対話が印象的であった。光秀はたずねる。道三であったならば、どうするであろうか。それに対して、帰蝶はこたえる。毒を盛る、と。

このあたりの光秀のこころのうちの動きが、本能寺の変につながっていくのだろうとは思う。しかし、あえて帰蝶の口からそのように語らせた脚本は、大胆である。

第二には、信長のこと。

信長は暴君である。その暴虐、理不尽はとどまるところをしらない。これに対して、家臣たちは、ただだまって耐えるだけのようである。その中にあって、光秀はひたすら我慢するしかない。

以上の二点が、この回で印象に残っているところである。

もう光秀のこころのうちには、信長を討つことが決まっているのかもしれない。ただ、その意識下のことに、光秀自身がはっきりと気づいていないだけのように見える。

信長は討たれるべくして討たれることになり、その役割は時代の流れのなかで光秀のものとなる……このようなある種の歴史の必然的な流れのようなものを、どことなく感じるドラマになっているかと思う。信長は天下を治めるに足る人物ではない、このように見定めたとき、光秀のこころはきまるのだろうか。

ともあれ、いろいろあって、このドラマは、一年以上続いてきたことになる。最後のクライマックスにむけて、次週を楽しみに見ることにしよう。

2021年2月1日記

追記 2021-02-09
この続きは、
やまもも書斎記 2021年2月9日
『麒麟がくる』あれこれ「本能寺の変」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/02/09/9345477

松の葉に雨の滴2021-02-03

2021-02-03 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日なので写真の日。今日は、松の葉の雨の滴である。

前回は、
やまもも書斎記 2021年1月27日
センリョウ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/01/27/9341420

冬の間は、花がすくない。咲いているのは、せいぜい椿の花ぐらいだろうか。千両も万両も鳥が食べてしまって、その実がなくなっている。梅の花もまだ冬芽である。木瓜もまだ咲かない。沈丁花の花もまだである。

雨が降った翌日の朝、庭に出て、松の葉の雨の滴を写してみた。いつものカメラに、タムロンの90ミリを使う。もちろん接写になるので三脚をつかう。だいたい松の木のうちで、目の高さぐらいにあるものを選んで、その松の葉の先端に雨の滴がついているものを探す。

写すのはちょっと難しい。オートフォーカスで狙ったところにピントを合わせるのに、困ることになる。ちょっと構図を変えてみると、ピントもはずれる。何枚か写してみたものから選んである。現像処理のとき、ピクチャーコントロールを「風景」にしてあるほかは、特に何もしていない。植物の写真でも、花ではなく葉を主体として写すときは、「風景」を選ぶと、その葉の色がひきしまって見えるようになる。これが花であるならば、基本は「スタンダード」にして、いくぶんの補正を加える程度である。

花は咲いていないが、庭に出て写すものがないわけではない。冬は冬なりに、その目で見ると、被写体になるものを見つけることができる。

滴

滴

滴

滴

Nikon D500
TAMRON SP 90mm F/2.8 Di MACRO 1:1 VC USD

2021年2月2日記

追記 2021-02-10
この続きは、
やまもも書斎記 2021年2月10日
万両
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/02/10/9345745

『プルーストへの扉』ファニー・ピション/高遠弘美(訳)2021-02-04

2021-02-04 當山日出夫(とうやまひでお)

プルーストへの扉

ファニー・ピション.高遠弘美(訳).『プルーストへの扉』.白水社.2021
https://www.hakusuisha.co.jp/book/b553080.html

高遠弘美訳の『失われた時を求めて』は、光文社古典新訳文庫の既刊分については、昨年に読んだ。その高遠弘美が訳した本ということで手にしてみた。

訳者あとがきによれば、どうしてもこの本は自分で訳しておきたかったとのことである。

この本は、次の三部からなる。

第一部 マルセル・プルーストとはどういう人間だったのでしょうか

第二部 なぜプルーストを読むのでしょうか

第三部 そう、プルーストは読めない作家ではありません

読んでいって、第一部、第二部のあたりは、なるほどとは思うものの、そう斬新なプルースト論ということでもないように読める。第一部は、簡略なプルーストの評伝。第二部は、『失われた時を求めて』の概説。まあ、だいたいこんな印象である。

この本の眼目は、第三部にあるのだろう。プルーストの文章……それは、とても息の長いものであるが……の、分析になっている。ここを読んで、なるほど、このところが、この本について、訳者が注目したところかと思った。この部分は、すぐれた文学の文章論になっている。

さて、次に期待したいのは、高遠弘美訳の『失われた時を求めて』の翻訳のつづきである。たぶん、全訳の見通しがたっているからこそ、ちょっと寄り道という感じで、この本を訳してみることになったのではないだろうか。ともあれ、光文社古典新訳文庫版での『失われた時を求めて』の完結に期待しておきたい。

2021年2月3日記

『和歌史』渡辺泰明2021-02-05

2021-02-05 當山日出夫(とうやまひでお)

和歌史

渡辺泰明.『和歌史-なぜ千年を超えて続いたか-』(角川選書).KADOKAWA.2020
https://www.kadokawa.co.jp/product/321803000328/

大学は、文学部の国文科というところで学んだのだが、どうも短詩型文学……和歌とか俳句とか……が苦手である。ひととおり、勉強したつもりではいるが、この方面からとおいところを専門にすることになってしまった。

だが、日本文学を論じるときに、和歌というのが重要な位置をしめる、ということはきちんと認識しているつもりでいる。その和歌について、古く万葉集から、近世の和歌にいたるまでを、概観した内容になっている。

基本的に作者別になっている。
額田王
柿本人麻呂
山上憶良
大伴家持
在原業平
紀貫之
曾禰好忠
源氏物語の和歌
和泉式部
源俊頼
西行
藤原俊成・定家
京極為兼と前期京極派
頓阿
正徹
三条西実隆
細川幽斎
後水尾院
香川景樹

いずれも、日本の和歌史を論ずるうえでは、欠かすことのできない歌人ばかりである。これらを時代順にとりあげて、代表作をしめし論じてある。和歌史の研究書という面もあるが、全体としては、日本の和歌についての、総合的な概論といったところだろうか。

この年になって……とうに還暦をすぎた高齢者である……このような本を読むと、ある意味で感慨深い。もし、若いときに、このような本があって読んでいたら、どうだったろうかと思う。国語学の分野で、文字や表記といった方面のことではなく、和歌を勉強しようと思ったかもしれない。

それにしても、今の若いひとはめぐまれていると思う。新編国歌大観はデジタル版がある。また、国語研のコーパスもある。さらに、新日本古典文学大系で、万葉集から八代集、それに、その後の主な和歌については、注釈つきで読むことができる。それから、和歌文学大系もある。和歌の勉強をしようと思ったとき、すぐれたテクストと注釈、それにデジタルのツールが、容易に手にすることができるようになっている。

今更、和歌の勉強をしなおそうとは思わないのだが、これぐらいの本なら買って読もうかという気持ちは残っている。また、近世までの和歌と、近代になってから短歌については、これはこれとして、いろいろと興味深いことだとも思う。

ただ、この本の特徴といっていいと思うことは、古代から近世にかけての和歌の歴史を、コンテンポラリーな文学として読む視点を持っていることだろう。近年の和歌の研究というと、受容史、あるいは、その時代にどのような意味があったのか、という観点から研究されることが多いように思う。その流れにあって、あくまでも現代の我々が読んで何を感じ取ることがあるのか、という観点が、この本の底流にある。このように、昔の文学作品……「古典」といっていいだろうが……を、コンテンポラリーな視点から味わうということは、現代において貴重な意味があると感じる。

2021年2月3日記

『名短篇、ここにあり』北村薫・宮部みゆき(編)2021-02-06

2021-02-06 當山日出夫(とうやまひでお)

名短篇、ここにあり

北村薫・宮部みゆき(編).『名短篇、ここにあり』(ちくま文庫).筑摩書房.2008
https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480424044/

北村薫、宮部みゆきの手になるアンソロジーとして、この本が出ていること、さらにその続編もいくつかあることは知っていたが、読むのが今になってしまった。COVID-19のこともあって、基本的に居職の生活である。外に出る(教えに行く)ことも、来年度まではない。おちついて本を読もうかと思う。このシリーズをまとめて読んでみようかと思って手にした。

収録されているのは、次の作家。

半村良
黒井千次
小松左京
城山三郎
吉村昭
吉行淳之介
山口瞳
多岐川恭
戸板康二
松本清張
井上靖
円地文子

どの作家についても、ひととおり名前は知っているし、その作品のいくつかを読んだことがある。しかし、このアンソロジーに収録されている作品は、読むのが始めてである作品ばかりである。(たぶん、そうだろうと思う。読んだことがある作品もあるのかもしれないが、さっぱり忘れてしまっている。)

どれも面白い。が、中には私の好みとしては、どうかなという作品がないではない。しかし、全体としては、とても興味深い短篇集になっている。文学を読むたのしさ、小説を読む面白さ、というものが凝縮されたアンソロジーといっていいだろう。

続けて、このシリーズを読んでいきたいと思う。

2021年2月2日記

追記 2021-02-08
この続きは、
やまもも書斎記 2021年2月8日
『名短篇、さらにあり』北村薫・宮部みゆき(編)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/02/08/9345136

『おちょやん』あれこれ「絶対笑かしたる」2021-02-07

2021-02-07 當山日出夫(とうやまひでお)

『おちょやん』第9週「絶対笑かしたる」
https://www.nhk.or.jp/ochoyan/story/09/

前回は、
やまもも書斎記 2021年1月31日
『おちょやん』あれこれ「あんたにうちの何がわかんねん!」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/01/31/9342678

千代は、道頓堀にもどることになった。新しい劇団の立ち上げである。その座長になるのが、一平であった。この週は、新しい劇団の準備段階のこと。

この週で描いていたこととして、印象に残るのは、演劇、芸能の世界に生きる人びとの哀惜と矜恃であろうと思う。たしかに、役者という仕事は光のあたる仕事であるかもしれない。しかし、それをつづけていくには、様々な葛藤、苦労がある。新しい劇団をつくるにあたって、まず役者をあつめなければならない、そのなかで、何人かの役者たちの、悲哀とでもいうべきものが、しみじみと描かれていたと思う。

なかなか劇団に入ろうとしない千之助がそうである。また、女形の漆原もそうである。

一平は語る。新しい劇団では、女の役は女優がやることになる。女形はもう必要ない。ここで、一平と漆原は、厳しく対立することになる。

だが、結局は、新しい劇団がスタートすることになった。家庭劇である。しかし、一平も、また千代も、家庭というもののなかで育ってきたわけではない。これは、おそらく、その当時の他の役者たちも同じかもしれない。だが、ここで、あえて家庭劇という形で、新しい喜劇をつくろうとする。

その一方で、芝居茶屋の岡安の将来がどうなるか不安でもある。もう、芝居茶屋という業種が必要とはされなくなる時代になってきている。ライバルの福富は、芝居茶屋に見切りをつけて、商売替えをして、楽器店、それから、喫茶店に鞍替えしてしまっている。

時代背景としては、昭和の初め。不況のどんぞこの時代であるはず。このドラマでは、社会的背景のことはあまり描かないことのようだが、時代の流れととしては、昭和初期の不況から、日本の大陸進出へと大きく動いていくことになる。これから、戦争の時代がまっている。千代や一平たちは、これからどうなるのだろうか。

次週は、いよいよ新しい劇団がスタートするようだ。千代も女優として、道頓堀で再スタートになる。楽しみに見ることにしよう。

2021年2月6日記

追記 2021-02-14
この続きは、
やまもも書斎記 2021年2月14日
『おちょやん』あれこれ「役者辞めたらあかん!」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/02/14/9346969

『名短篇、さらにあり』北村薫・宮部みゆき(編)2021-02-08

2021-02-08 當山日出夫(とうやまひでお)

名短篇、さらにあり

北村薫・宮部みゆき(編).『名短篇、さらにあり』(ちくま文庫).筑摩書房.2008
https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480424051/

続きである。
やまもも書斎記 2021年2月6日
『名短篇、ここにあり』北村薫・宮部みゆき(編)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/02/06/9344506

先に書いた『名短篇、ここにあり』の姉妹編ということになるのだろう。

収録されているのは、次の作家。

舟橋聖一
永井龍男
林芙美子
久生十蘭
十和田操
川口松太郎
吉屋信子
内田百閒
岡本かの子
岩野泡鳴
島崎藤村

『ここにあり』とくらべると、一時代前の作家をあつめたといっていいだろう。このうち、内田百閒は今でもよく読まれるようだが、他の作家の作品は、このごろではあまり目にすることがないように思われる。

舟橋聖一とか、吉屋信子など、その時代にあっては、まさに文壇の華というべき存在だっただろうと思うが、最近では、もう読まれない作家になってしまっているようだ。私も名前は知ってはいるが、その作品に慣れ親しんだということはない。

これを読んでも、まさに「名短篇」という名前がふさわしい。どの作品もたくみである。このような作品が、忘れ去られてしまうのは惜しい。この意味でも、このアンソロジーは、実に貴重な仕事であると思わざるをえない。

近年の作家を読むのもいいが、このような形で、過去の名作を読むのも、また読書の楽しみの一つといっていいだろう。

ただ、思うことを書いてみるならば……日本における、大衆文学、庶民文学の歴史ということを思ってみる。現代のような大衆文学とでもいうべきものが、どのように成立してきたのか。いわゆる純文学ではない、エンタテイメントとしての文学作品の歴史である。

近代の文学史にうとい私にはわからないところが多いが、近代になってから、小説というものが、人びとに読まれるようになってから、ひろまったものであることはたしかである。系譜としては、直木賞の系譜の作品群ということになる。

これが、古くは、落語や講談の速記本であったかもしれない。さらにさかのぼれば、近世の読本、人情本などに、いたるのだろうと思う。このあたり、きちんと勉強してみたい気もするのだが、もうここは、老後の読書である、このようなアンソロジーの類を読んで、いろいろと想像するにまかせることにする。

続けて「名短篇」のシリーズを読むことにしたい。

2021年2月6日記

追記 2021-02-11
この続きは、
やまもも書斎記 2021年2月11日
『とっておき名短篇』北村薫・宮部みゆき(編)
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/02/11/9346016

『麒麟がくる』あれこれ「本能寺の変」2021-02-09

2021-02-09 當山日出夫(とうやまひでお)

『麒麟がくる』最終回「本能寺の変」
https://www.nhk.or.jp/kirin/story/44.html

前回は、
やまもも書斎記 2021年2月2日
『麒麟がくる』あれこれ「闇に光る樹」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/02/02/9343313

ついに最終回、本能寺の変である。なるほど、光秀が謀反にいたる理由は、そのあたりにあったのかと、これはこれで納得のいく本能寺の変であった。

COVID-19のせいで、このドラマも異例の放送となった。途中、収録が中断し、年をまたいでの放送になった。しかし、予定していた回数は、放送になったようだ。

歴史の結果はわかっていても……光秀が本能寺の変をおこし、その後、天下をとることなく敗れ去ってしまうこと……それを、歴史ドラマとして描くことは、難しくもあり、また、興味深くもあることである。そこを、このドラマは、きわめて巧く描いていたと思う。

明智光秀を主人公とする、ということから、もう歴史の結果は周知のことである。だが、そこにいたるまでの、戦国の時代を生きた人びと……武士は無論のこと、上は天皇から、一般の庶民にいたるまで……様々な人びとの情念を、このドラマは描いてきた。その情念のいきつく先を象徴しているのが、「麒麟」ということばなのであろう。

やや偏屈な見方かもしれないが、このドラマは、何よりもタイトル『麒麟がくる』がいい。歴代の大河ドラマのなかでも、傑出したタイトルではないだろうか。

これまで多くのドラマで、明智光秀は描かれてきた。そのなかで、今回の『麒麟がくる』の明智光秀は、印象に残るものである。さらには、織田信長しかり、斎藤道三しかし、また、そう多くの出番があったわけではないが、豊臣秀吉も独特の描き方であった。帰蝶のことも印象深い。戦国時代大河ドラマのなかで、この作品は傑作として残ることだろうと思う。

さて、次週からは、あたらしく『青天を衝け』である。幕末から明治が舞台になる。この時代も、これまでに数多くのドラマで描かれてきた。どんな歴史ドラマになるのか、楽しみに見ることにしよう。

2021年2月8日記

万両2021-02-10

2021-02-10 當山日出夫(とうやまひでお)

水曜日なので写真の日。今日は万両である。

前回は、
やまもも書斎記 2021年2月3日
松の葉に雨の滴
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/02/03/9343638

昨年の一二月のうちに撮影しておいたものからである。

今では、これらの万両の実も鳥がたべてなくなってしまっている。我が家の庭にいくつかの万両の木がある。見ていると、夏になると白い花を咲かせる。それが、秋になると青い実になる。その実が冬になると、赤く色づいてくる。これも、最初のうちは黒い小さな斑点が見えるのだが、それも、赤くなるにしたがってうすらいでいく。そして、実が赤く実っているな、と思うと、今度は鳥のエサになる。ちょっとずつ減っていって、最後にはすっかりなくなる。

庭の万両の実の様子を見ていると、庭の季節を感じる。これも、また夏になって白い花が咲くころにその様子を写真に撮ることができたらと思っている。

梅の木を見ると、冬芽が徐々にふくらんできているのがわかる。すこしずつではあるが、春が近づいてきていることを感じる。

万両

万両

万両

万両

万両

Nikon D500
TAMRON SP 90mm F/2.8 Di MACRO 1:1 VC USD
TAMRON SP AF 180mm F/3.5 Di MACRO 1:1

2021年2月9日記

追記 2021-02-17
この続きは、
やまもも書斎記 2021年2月17日
沈丁花が咲きはじめた
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/02/17/9347954