『おちょやん』あれこれ「今日もええ天気や」2021-05-16

2021-05-16 當山日出夫(とうやまひでお)

『おちょやん』最終週「今日もええ天気や」
https://www.nhk.or.jp/ochoyan/story/23/

前回は、
やまもも書斎記 2021年5月9日
『おちょやん』あれこれ「うちの大切な家族だす」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/05/09/9375603

このドラマは、傑作といっていい。半年の間、充実した内容だった。

思うことを書いて見る。二点ほどである。

第一に、このドラマは、家族のものがたりであること。

家族の物語といっても、千代に家族があったわけではない。生まれた家は、家庭とはいえない状態だった。幼くして奉公に出される。その奉公先……道頓堀の芝居茶屋の岡安……においても、千代はすぐにとけこむことができなかった。ようやく岡安になじんだかと思う頃、京都に行くことになる。カフェーの女給をしながら、映画に出て女優として仕事をする。それもまた道頓堀に帰って、舞台女優になる。一平と一緒になるものの、それも長続きしない。また、京都に行くことになる。そこには、栗子と春子がいた。三人で暮らす生活があって、ラジオドラマに出ることになる。最後は、また道頓堀にもどって一平たちと舞台にたつ。

このドラマ、千代という女性の不幸の連続である。家庭らしい家庭があったのは、大阪で一平たちと暮らしていたわずかの間、また、京都で栗子たちとのしばらくの間、これぐらいだろうか。

だが、このドラマには、たえず家族というもの存在を感じさせるところがあった。奉公に出された千代にとっては、岡安が自分の家であり、京都にいたときは、カフェーの仲間がいた。鶴亀の劇団もまた、千代にとっては大事な仲間である。ラジオドラマの出演者たちも、家族同然である。そして、最後には、春子をひきとって暮らすことになる。

一方、千代を裏切ることになった一平についても、家庭というものを知らずに育ってきた。その一平は、灯子と新しい家庭をきずくことになる。

特に幸せな家族が登場してきているということではないのだが、しかし、見ていて、千代のいるところの仲間の人びとは、千代にとって家族のようなものであった。不幸のどん底にいるような状態であっても、千代にはそれを見守ってくれる人びとのまなざしがあった。

これは、擬似的な家族なのかもしれない。その周囲の人びとのあたたかさに守られて、女優としての千代の姿があったと思う。

第二に、ことばの問題。

BK制作の、大阪を舞台にしたドラマである。途中で、ちょっとだけ京都の場面があり、最後には千代は京都で春子と暮らすことになるのだが、主な舞台は、大阪、それも、ほぼ道頓堀とその界隈である。そこで話される、大阪弁が、このドラマでは、実に美しいひびきがあった。

大阪のことばというと、どぎついイメージがあるのだが、それを、このドラマでは、道頓堀の人情味のあることばとして、きわめてうまくつかっていたと思う。人間の情感をこめたことばとして、大阪弁が効果的につかわれていた。

以上の二点ぐらいを、まず思って見る。

さらに書いてみるならば、小道具と伏線のたくみさがある。ビー玉、母親との写真、「人形の家」の台本、栗子の三味線……など、ドラマの全編を通じて、非常にたくみに使われていたと感じるところである。

とにかく、このドラマは、人間の喜怒哀楽の情感をこまやかに描いていたと思う。不幸な境遇にあるヒロイン、だが決して、人を心底から恨むことはない。最後には、その存在をみとめて許容している。そして、そのヒロインの周囲にいる人びとの、やさしいこころづかい。情感のきめこまやかな描写が、このドラマの大きな部分をしめていた。

そして、ドラマの作り方としては、劇中劇がたくみにつかわれていた。ドラマのストーリーが、劇中劇に融合しいく、あるいは逆に、劇中劇がドラマに投影される。そして、劇中劇での演技、演出もまたたくみであったと感じる。

概していえば、千代は、決して幸福で順調であった人生ではないが、その生き方に、見ていて共感するところがある。何度も千代がいった台詞……「明日もきっと晴れや」、これは、人を勇気づけることばである。

思えば、このドラマは、COVID-19で世の中が騒然としている時期に放送のあったドラマであることになる。不要不急のことは避けるようにと声高にいわれていた。そのなかにあって、芝居という、まさに不要不急のことに人生をかけたヒロインの生き方は、多くの視聴者の共感を得るものがあったと感じる。

さて、次週からは、新しいドラマ『おかえりモネ』がはじまる。これも、楽しみに見ることにしようと思っている。

2021年5月15日記