映像の世紀(10)「民族の悲劇果てしなく」2021-06-04

2021-06-04 當山日出夫(とうやまひでお)

NHK 映像の世紀 第10回 民族の悲劇果てしなく~絶え間ない戦火 さまよう人々~

前回は、
やまもも書斎記 2021年5月28日
映像の世紀(9)「ベトナムの衝撃」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/05/28/9382039

今、二一世紀になっても、また難民の問題は解決していない。

この回の放送は、一九九六年になる。ベルリンの壁の崩壊、ソ連の解体という共産主義諸国をめぐる一連のできごとが終わってからの放送である。そのせいなのだろう、旧ユーゴスラビアのことから、始まっていた。

難民にヒューマニズムの視点から考えることは重要である。だが、それと同時に冷静になぜそのような難民が生まれることになったのか、背景を考えてみなければならない。この意味では、難民という問題をめぐって、非常に良心的に編集してあるという印象をうけた。

たとえば、パレスチナ難民。ただ、この問題の解決として、イスラエルという国家を悪とするだけでは片付かないということが分かる。その歴史的背景として、ユダヤ人の歴史、なかんずく、第二次大戦におけるヒトラーのユダヤ人虐殺のことを思ってみるならば、そう簡単に、イスラエルを否定すればそれで済むということではないことが理解できるだろうと思う。さらなる憎しみの連鎖を生み出すことがあってはならない。

冷戦の終結ということは、新たなナショナリズムを生み出すことになっている。その結果、多くの悲劇が生まれることになる。旧ユーゴスラビアについては、まさにナショナリズムの生み出した悲劇というべきだろう。(だが、私は、ナショナリズムそれ自体は、悪いものだとは思っていない。)また、同時に、冷戦終結は、新たな独裁者を生み出すことにもなった。カンボジアが、その例かもしれない。

旧ユーゴスラビアについては、かつて、日本においては、一部の人間によって理想的に語られることがあった。チトー大統領は、理想化されていた。(すくなくとも、私の記憶にある冷戦時代の評価として、このような側面があったことは確かである。)

ところで、一九九五年から一九九六年放送の番組ということであるが……「映像の世紀」には、あまり中国のことが出てこない。これは何故だろう。中国に配慮しすぎという印象がどうしても残るのだが、これは天邪鬼にすぎる見方だろうか。

これまでの番組で、スターリンは何度も登場していた。それも悪役として。だが、毛沢東が大きく出てきたということはなかったと記憶する。

そして、今の中国である。その国の内部で、どのようなことが起こっていようと、国境を越えなければ「難民」ではないのかもしれない。だが、今の中国で起こっているいることは、やはり重大な懸念があると言わざるをえないと私は思う。

今の中国共産党が崩壊して、その内実が明らかになる将来がおそらくはあるだろう。だが、そのときまで、私は生きていられるだろうか、そんなことを思うこのごろでもある。

2021年6月1日記

追記 2021年6月11日
この続きは。
やまもも書斎記 2021年6月11日
映像の世紀(11)「JAPAN」
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/06/11/9386677