新・映像の世紀(1)「百年の悲劇はここから始まった」2021-06-18

2021-06-18 當山日出夫(とうやまひでお)

新・映像の世紀 第1回 百年の悲劇はここから始まった~第一次世界大戦~

続きである。
やまもも書斎記 2021年6月11日
映像の世紀(11)「JAPAN」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/06/11/9386677

「映像の世紀」の再放送につづいて、「新・映像の世紀」も再放送するので、これも見ることにした。これは、いくつか見た記憶がある。二〇一五年の放送である。

第一回は、第一次世界大戦。

「映像の世紀」でも、第一次世界大戦は、一つの回をつかって放送していた。やはり、「映像」それも動く映画というメディアで、その全貌をとらえた最初の世界史的出来事というと、第一次世界大戦ということになるのだろう。

「映像の世紀」のときと比べると、その歴史観がより鮮明になっている。あるいは、歴史というものをより批判的に見るようになっているというべきだろうか。

たとえば、アラビアのロレンス。今日まで続く中東における戦乱、それから、パレスチナ問題、この淵源をたどると、第一次世界大戦における、イギリスとフランスの密約……そして、その前面に出たのがアラビアのロレンスということになるのだが……があった。あるいは、少なくとも、憎悪の連鎖のはじまりについては、一〇〇年以上の歴史をさかのぼって考える必要があることになる。

放送は、二〇一五年。最初の「映像の世紀」から見ると、その間には、二〇〇一年のアメリカでの同時多発テロがあり、その後の、イラクなどでの戦争を経た後のことということになる。世界の平和ということが、より混沌としてきた時代である。「映像の世紀」の一九九五年というと、東西冷戦が終結して、共産主義国家の崩壊ということがあって後のことになる。そのときの時代背景のもとに、二〇世紀を考えてみたということだろう。

だが、二一世紀になってからの「新・映像の世紀」では、その歴史に対する見方も、ちょっと変わってきているという気がする。より深く歴史というものの淵源にさかのぼうとする眼差しを感じる。今ある二一世紀の世界がどのような歴史のもとにあるのか、そのよってきたるところを探ろうという姿勢があるといってもいいだろうか。

ところで、興味深かったのは、第一次世界大戦における、兵士と性病、それから、慰安婦の問題。この種の問題をどうあつかうかは難しいことがあるかもしれないが、しかし、百聞は一見にしかず、残っている映像の持つ説得力というものを強く感じる。

ただ、「新・映像の世紀」においても、中国のことはあまり出てきていない。日本軍による青島占領の様子はあつかっていたが、では、その当時の中国の全体像はどうであったのか、分からない。ここのところについては、沈黙している。(あるいは、まだ、中国という国について、このような番組の手法で切り込むのは、時代がまだ早いというべきなのかもしれない。今の中国共産党支配の終わった後、どのような映像資料が発掘されることになるのか、気にはなる。が、その時まで、私は生きてはいないだろうが。)

2021年6月16日記

追記 2021年6月25日
この続きは、
やまもも書斎記 2021年6月25日
新・映像の世紀(2)「グレートファミリー」
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2021/06/25/9391317