「中央公論」8月号「教養と自己啓発の深い溝」 ― 2021-07-26
2021-07-26 當山日出夫(とうやまひでお)
中央公論 2021年8月 教養と自己啓発の深い溝
基本的に雑誌の類は、読まないのだが、この号の「中央公論」だけは特集に関心があったので買って読んでみた。
知識の豊かさが本質ではない 村上陽一郎
修養ブームが生み出した潮流 大澤絢子
格差ゆえに教養が求められた時代 福間良明
「ビジネスマンの教養」の系譜と現在 牧野智和
新たな知の共同体を作れるか 隠岐さや香
独学のススメ 読書猿
付箋をつけた箇所を引用してみる。
自己啓発と教養には、個人の問題なのか、知の共同体かという前提の違いがあると思う。
隠岐さや香 pp.66
真面目な話、まともな書物を一冊ちゃんと読めば、その書物が検索エンジンで収集できる情報のみでできていると信じることはおよそ不可能でしょう。
読書猿 pp.75
「古典は本当に必要なのか」という議論がある。否定論の言い分としては、古典教育は、個人の利益に資するものでなければならないという。具体的にいうならば、それを勉強することによって、年収が上がるということである。また、国家レベルでは、GDPの増大に貢献しなければならない。(みもふたもないいい方になるが、このような議論が堂々と語られる時代になったことはたしかである。)
それに対していろいろと反論はあるが、その一つの論点は、教養としての古典という観点である。
少なくとも数十年前までは、古典……日本のみならず外国をふくめてよいが……についての造詣があることは、教養の中核をしめる部分であった。それが、今はどうだろうか。古典についての好き嫌いはあるかもしれないが、教養として必須であるという価値観は、かなり薄れてきているといっていいのではないか。
教養とはなにか、あるいは、その教養に何をもとめるのかは、時代とともに変わっていく。その時代の変遷のなかに、古典もあると、私は考えている。
「中央公論」を読んでみて思うことであるが、上述の、時代とともに教養にもとめられるものが、変わっていくのであるということへの切り込みが浅いように感じられてならない。まあ、確かに現代においては、社会で生きていくうえにおいて、コンピュータのスキルは必要になってきてはいるだろう。だが、それを、人格を豊かにするものとしての教養といっていいかどうかは、また別の問題があるように思う。
ここで、「人格を豊かにする」と書いてみた。これは、教育、特に教養教育についていえることだろう。だが、教育に何を求めるか、ということも、時代とともに変わりつつある。「古典は本当に必要なのか」の議論は、教養とは何か、教育とは何か、という議論とふかくかかわってくることは確かなことである。
2021年7月25日記
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