『金閣寺』三島由紀夫/新潮文庫2022-04-23

2022年4月23日 當山日出夫(とうやまひでお)

金閣寺

三島由紀夫.『金閣寺』(新潮文庫).新潮社.1960(2000.改版)
https://www.shinchosha.co.jp/book/105045/

『金閣寺』を読んだのは、いつのときだったろうか。読んだことは憶えている。高校生のときだったか、あるいは、大学生になっていたか。記憶は定かではないが、読んだことだけは憶えている。

何十年ぶりかに読みなおしてみて、こんなに観念的な小説だったのかと感じるところがあった。この小説において、「金閣寺」というのは、「美」の象徴である。だからこそ焼かれねばならなかった。しかし、それが現実の金閣寺であるべき必然性は無いようにも感じられる。何かしら非常に観念的なのである。

ところで、京都の金閣寺(鹿苑寺)には行ったことがないと思う。あるいは、小さいときに行っているのかもしれないが(学校の遠足かなにかで)、だが、はっきりと金閣寺と意識して行ったことはない。私のなかにあっても、「金閣寺」というのは、非常に観念的な存在である。リアルの金閣寺よりも、小説のなかに登場する「金閣寺」の方に意識が向いてしまうというべきであろうか。あるいは、焼けて亡んでしまったからこそ「金閣寺」であると言うべきかもしれない。

金閣寺の事件のことは、確か水上勉も小説に書いている。三島由紀夫の『金閣寺』とどちらを先に読んだことになるか、もう忘れてしまっている。だが、同じ事件をもとに、別の小説が書かれているということは、強く憶えていることである。

『金閣寺』で重要なキーになるのは、世界を変えるのは、意識なのか、行動なのか、という論点がある。この命題は、あるいは三島由紀夫の生涯にわたる問題であったのかもしれない。『金閣寺』において主人公は、行動を選ぶ。だが、その裏側には、「金閣寺」というものへの意識が確固たるものとしてある。

若いときに『金閣寺』を読んで思ったことであるが、三島由紀夫は、その作品の最後に余計な一言があると、強く感じるところがある。特に、『金閣寺』のラストのシーンにそれを感じる。(他には『午後の曳航』もそうであるが。)私が、三島由紀夫の作品にひかれるところがありながらも、あまり良い読者として読んでこなかったのも、どこかその作品の最後の余計な一言というのが、気になっていたからかもしれないと思うところがある。あるいは、その余計な一言こそが、三島由紀夫の文学の本質なのかもしれないけれども。

2022年4月18日記