『長い別れ』レイモンド・チャンドラー/田口俊樹(訳)2022-05-27

2022年5月27日 當山日出夫(とうやまひでお)

長い別れ

レイモンド・チャンドラー.田口俊樹(訳).『長い別れ』(創元推理文庫).東京創元社.2022
http://www.tsogen.co.jp/np/isbn/9784488131074

新しい訳である。言うまでもないことと思うが、この作品は、『長いお別れ』として、清水俊二の訳があり、『ロング・グッドバイ』として、村上春樹の訳がある。このうち村上春樹の訳は最近になって読んで書いている。

やまもも書斎記 2019年7月5日
『ロング・グッドバイ』村上春樹訳
http://yamamomo.m.asablo.jp/blog/2019/07/05/9111495

この作品自体についての考え方は、村上春樹の訳を読んだときとそう大きく変わるものではない。ただ、すでに、二種類の翻訳があるところに、新しく訳本を出すというのは、それなりの意味があってのことであると思う。

この作品について、村上春樹は「準古典」という言い方をしている。そして、大きく影響を受けた作品でもあると述べていた。なるほど、今となっては、この作品を「古典」のなかにふくめて考えてもいのだろう。これは、ある意味では、「古典」とは何か、改めて考えることにもつながる。

そこに立ちかえって考えることのできるテキスト……大雑把に「古典」をこんなふうにとらえてみる。であるならば、この作品は、現代文学においてすでに「古典」の位置をしめるにちがいない。

何が、この作品を「古典」たらしめているのであろうか。少し考えてみる。結論を先に書いておくならば……近代における市民社会のなかでの孤独感の文学としてのハードボイルドを考えることができると思う。

第一には、ハードボイルドというスタイル。

ミステリ史のうえからは、必ずしもこの作品がハードボイルドの最初というわけではない(ダシール・ハメットなどが思い浮かぶ)。だが、その初期のころの作品であり、もっとも著名であり、また、完成度の高い作品であることは確かである。

ハードボイルドは、一般的にいえば、第一人称で叙述される。近代文学が獲得して樹立してきた、神の視点ではない。あくまでも、探偵の視点のみから語られる。これは、不自由である。だが、その不自由さのなかに、新たな文学的可能性を見出していくのが、このジャンルということになろうか。

おそらく文学史的には、この視点の設定の問題があるだろう。

しかも、そこには、「探偵」という枠がある。事件の依頼をうけ、捜査し、謎を解く。そして、ある種の職業倫理のようなものが、厳格にある。また、探偵は基本的に孤独である。自分で考え、判断し、行動する。その孤独な思考と行動が、ハードボイルドの魅力を形成する。

なぜ、「一人称視点」の「孤独」な「探偵」という設定であるのか。ある意味では制約にちがいないのだが、この制約のなかで書かれる文学の世界には、普遍性に通じるものがある。強いていえば、人間とは「孤独」なものである、ということかもしれない。これは、近代における人間の「孤独」と共鳴するものであろう。この作品が「古典」でありうるとするならば、何よりも「孤独」の近代的普遍性というところにあるのかと思う。「孤独」は、レノックスとの友情によって、より一層きわだつものとなっている。

第二には、ミステリとしての完成度の高さ。

この作品は、ハードボイルドとして傑出しているというだけではない。一般にミステリ、探偵小説、として読んで、よく出来ているのである。これも、重要な要素だろう。魅力的な謎と、意外な犯人。そして、それをつきとめるまでの探偵の思考と行動、そして説明。これらの点において、この作品は、第一級の出来映えの作品となっている。

とりあえずは、以上の二点のことを思って見る。

そして、さらに書いてみるならば、この作品が描き出した、アメリカ西海岸の戦後の都市のある時期の、なんともいいようのない雰囲気……これが、実にいい。ある時代、ある地域、そこの人びとの生活感覚、あるいは、空気感とでもいうべきものを、この作品からは感じることができる。

文学が、ある場所、時代、人びとを描きながらも、同時に普遍的な何かを描きうるものであるとするならば、確かにこの作品は、ある意味での普遍性を獲得している。

その他、この作品について考えるべきこと、あるいは、ハードボイルドという文学のスタイルについて考えるべきことは多々あるだろう。だが、私としては、ただ楽しみのために本を読みたいと思う。この楽しみのために読む、このことにおいて、この作品は、さらに何度か読みなおしてみたい作品の一つである。そういう魅力がこの作品にはある。

2022年5月18日記