『歴史とは何か 新版』E.H.カー/近藤和彦(訳)2022-06-11

2022年6月11日 當山日出夫(とうやまひでお)

歴史とは何か

E.H.カー.近藤和彦(訳).『歴史とは何か 新版』.岩波書店.2022
https://www.iwanami.co.jp/book/b605144.html

「新版」といよりも「新訳」というべきかもしれない。すでに、清水幾太郎の訳で岩波新書出ているものである。この旧版については、最初に読んだのは高校生のころだったろうか、あるいは、もう大学生になっていたかもしれない。とにかく読んだのを憶えている。この清水幾太郎訳は、近年になって、岩波新書のロングセラーをいくつか改版して新しくしたなかで、これも新しい版に改版されてきれいになっているのが出た。これも、久しぶりに買って読んだ。

この新訳であるが……とどのつまり「歴史とは何か」という問いかけについては、旧版で読むのと、そう変わるわけではない。旧版の岩波新書の訳も、かなり読みやすい文章であると思う。(今、手元にないので、比較して読むということはないのであるが。)

新しい本は、まず字が大きい。ゆったりと活字が組んである。これは、ありがたい。そして、脚注が豊富についている。解説も丁寧である。そして、最大の特徴としては、第二版への序文があり、また、第二版のための草稿が掲載になっていることだろう。カーは、この本の第二版を準備していたのだが、ついにそれをはたすことはできなかった。

分かりやすい本であるともいえるし、難解な本であるともいえる。文章は平易である。しかし、その語るところは、素直には分かりにくいところがある。これは、「歴史とは何か」という問いかけの問題もある。これは、きわめて簡単な問いではあるが、答えは簡単ではない。また、カーの歴史家としての専門が、現代のソ連史ということもいくぶんは関係してくるだろう。

この本が最初に書かれたとき……一九六一年……まだ、ソ連という国があった。その後、一九九一年にソ連が崩壊したのは、(私にとっては)まだ記憶に新しいことである。

ソ連の現代史というものの馴染みの無さが、かなりこの本に影響していることは確かだろう。

歴史とは何か、現代と過去との対話である……これは語り尽くされたことばかもしれない。だが、ここからどのような意味をくみ取り、自分が歴史を読む、あるいは、歴史を研究するときに、どんな意味があるのか……これは、きわめて難しい問いかけであるといってよい。歴史学の対象とは何であるか、このことは、一般の読者にとっては、逆に、歴史学が描き出すからそれが歴史として意識される、こう見るべきかもしれない。

もう、自分の楽しみのために本を読む生活である。歴史とは何かということを考えることも重要であることは理解するとしても、その一方で、読んで面白い歴史の本を読みたい、そう思うところもある。

多くの読者が思うことであろうが、カーは、ソ連の崩壊の以前に亡くなっている。もし、この本の著者が、ソ連崩壊のときまで生きていたらどう思ったであろうか、このことをどうしても考えてしまう。

2022年6月2日記

『ちむどんどん』あれこれ「てびち!てびち!てびち!!」2022-06-12

2022年6月12日 當山日出夫

『ちむどんどん』第9週「てびち!てびち!てびち!!」
https://www.nhk.or.jp/chimudondon/story/week_09.html

前回は、
やまもも書斎記 2022年6月5日
『ちむどんどん』あれこれ「再会のマルゲリータ」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/06/05/9497059

暢子は、料理人として一歩前進することになった。

だが、このドラマ、見ていて不可解なところがいくつかある。

屋台のおでんをまかされることになった暢子なのだが、それまでおでんを食べたことがないという。それなのに、ごく普通の基本的なおでんを作るということは、ちょっと無理なのではなかろうか。ここは、いくつかのおでん屋さんをめぐって味見をしてこなければと思ってしまうのだが。

それから、オーナーの房子は、昔、暢子を引き取ろうという話しのあった、父のおばさんであった。そのことに、母の優子はようやく気づく。これも不自然である。娘が働いているところの店のオーナーの名前ぐらい、知っておくべきではないだろうか。また、暢子も、かつて自分がもらわれていくときに、行き先の人の名前ぐらいは確認しているだろう。バスに乗って旅立とうとしたぐらいなのであるから。このあたりの展開も、不自然という気がしてならない。

が、ともあれ、暢子は料理人としての基本の考え方を確認して、無事にフォンターナに戻ることができた。

ところで、ニーニーはまただまされたということなのだろう。かかわっていた仕事はどうも詐欺っぽいのだが、その主犯格というのではない。さて、もとの養豚場に戻って仕事を再開したようなのだが、これからどうなるだろう。

次週、暢子はさらに料理人としてのステップをあがるようである。楽しみに見ることにしよう。

2022年6月11日記

追記 2022年6月19日
この続きは、
やまもも書斎記 2022年6月19日
『ちむどんどん』あれこれ「あの日、イカスミジューシー」
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/06/19/9501264

『彼は早稲田で死んだ』樋田毅2022-06-13

2022年6月13日 當山日出夫(とうやまひでお)

彼は早稲田で死んだ

樋田毅.『彼は早稲田で死んだ-大学構内リンチ殺人事件の永遠-』.文藝春秋.2021
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163914459

大宅賞の受賞作ということで読んでみることにした。受賞のニュースを見て、さっそく買おうと思ったが、オンライン書店は品切れだった。ようやく重版になったようだ。買ったのは、第2刷である。

私は、一九七五年に慶應義塾大学に入学した。この本で描いているのは、一九七二に早稲田第一文学部でおこった、殺人事件の顛末とその後のことを描いている。読んで思うことはいろいろある。たった、数年のちがいで、東京の大学に入る時期がずれるだけで、こうも世界が違ってくるのだろうかというのが、率直なところである。

私が慶應に入学した時期は、いわゆる学生運動は沈静化した後のことだった。キャンパスにその余韻は残っていたとは思うが、総じて落ち着いていた。学生運動があったことなど嘘のような雰囲気だったといってもいいかもしれない。これは、私が、京都から東京に出て学生生活を送ることになったという事情もいくぶんあるだろう。あるいは、慶應の特殊性ということもあったのかもしれない。

もし、自分の人生の方向がちょっとちがっていたら、早稲田の文学部で学ぶことになったかもしれないと思う。そう思って読むと、他人事とは思えないところが、この本にはある。

事件は、一九七二年に起こった。早稲田の文学部の校内で、革マル派との抗争で、一人の学生が死んだ。その友達だったのが著者。その事件の当時、学生自治の役職にあった。なぜ、その事件は起きたのか、背景に何があったのか、その当時の早稲田における革マル派とはどんな存在であったのか、大学の学生自治はどのようにしておこなわれていたのか……などなど、ノンフィクションとして解きあかしていく。

これだけなら、あの時代の、ある一つの出来事の記録ということで終わっていただろう。

だが、この本はそこにとどまらない。著者は、卒業後、朝日新聞の記者になる。そのなかで遭遇することになったのが、阪神支局の銃撃事件である。

早稲田での死、朝日新聞阪神支局での死、この二つの事件を経て、著者はさらに追求していく。そして、最後には、事件の当事者の一人であった人物との邂逅をはたす。この本の一番の読みどころは、最後のその人物との対話の章であろう。

寛容と非寛容はどうあるべきか、言論の自由はいかに守られるべきか、大学における学生の自治はいかなるものなのか……さまざまな論点をめぐって、著者は思考をめぐらせる。これは、必ずしも結論を得るというものではないが、その思考の過程が率直に綴られている。

なるほど大宅賞の本だけはあると思って読んだ。いい本である。ヒューマニズムということを考えるうえで、いろいろと考えることのある本である。

だが、確かにいい本であることは分かるのだが、読んでいて、どこか古めかしさを感じる。これは、この著者の世代……学生運動のまっただなかに生きた世代に特有のものかもしれないのだが、どうもしっくりこない違和感のようなものを感じずにはいられない。端的にいってしまえば、革マルがどうしようと、自分のしたい勉強ができるのなら、学生としてそれでいいではないか……私などの経験からは、どうしてもそう感じるところがある。これは、一九七二年の早稲田と、一九七五年の慶應との違いであるのかもしれない。まあ、確かに私自身は非政治的人間だと思っている。しかし、政治や歴史に関心がまったないわけではない。その関心のありかた、どのように関与すべきかについての、感性の方向性が、今一つ、著者のそれと合わないのである。

このような読後感を感じるのは、やはり自分自身の学生時代の体験が大きく影響してのことだろうと思う。同世代で、早稲田で学んだ人たちはどう感じるだろうか。また、より若い今の人たちは、この本を読んでどう感じるだろうか。このあたりが、気になるところではある。

2022年6月1日記

『鎌倉殿の13人』あれこれ「狩りと獲物」2022-06-14

2022年6月14日 當山日出夫

『鎌倉殿の13人』第23回「狩りと獲物」
https://www.nhk.or.jp/kamakura13/story/23.html

前回は、
やまもも書斎記 2022年6月7日
『鎌倉殿の13人』あれこれ「義時の生きる道」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/06/07/9497636

『曽我物語』は、若いときに手にしたことのある本である。岩波の古い古典大系のなかの一冊である。文学史的には、中世の軍記物語のなかの一つということになる。また、「曽我物語」は、近世文学にも大きな影響を与えている。特に、歌舞伎などの理解には、「曽我物語」の知識は不可欠といってよい。

だが、これまで『曽我物語』を作品として、通読したということはない。手にして読んでみたことはあるのだが、どうにも、その筋が頭に入ってこない。背景となる人物関係、歴史的なことがらが、かなり複雑である。その予備知識がないと、どうにも歯が立たない。

『鎌倉殿の13人』であるが、この回は「曽我物語」に材料をとって、曾我兄弟の敵討ちを描いていた。思い起こしてみるならば、「曽我物語」をドラマのなかに組み込むことは、当初から予定されていたことなのだろう。ドラマが始まってすぐのころから、曾我兄弟の敵討ちにいたる伏線が仕込まれていたと思い出すところがある。

ただ、ドラマでも、その人物関係の背景を細かく説明するということはなかった。富士での巻き狩りにまぎれての、敵討ち、あるいは、謀反ということで描いていた。

見どころとしては、次の二点ぐらいだろうか。

第一には、巻き狩り。

これは、かなり大規模な撮影をこころみたものであろう。富士の裾野のあたりの平原で、巻き狩りが行われたとするならば、あんなものだったのだろうかと、想像力をめぐらせる展開であった。

どうでもいいことだが、これまでドラマを見てきて、後白河院の院のセットがどうにもショボいと思ってきたのだが、たぶん、予算の関係で、巻き狩りのところにちからをつぎ込んだためであったのかと、思ってしまうのだが、どうだろうか。

第二、頼朝と義時。

曾我兄弟の一件が終わったあとでの、頼朝と義時の話のシーンが興味深い。あるいは、頼朝は義時のことを疑っていたのかもしれない。しかし、義時を始めとして北条氏の存在がなければ、鎌倉殿はたちゆかない、このことを最も知るのも、頼朝である。そして、鎌倉殿がなければ、北条氏もありえないことを知っているのも、義時である。この意味では、共犯と言ってよいのかもしれない。

鎌倉殿の側にあって、権力の座にいる。このことに、義時は自覚的であろうとしている。

以上の二つのことを思ってみる。

これから、頼朝の死があるはずである。比企も粛正されることになる。実朝も死ぬことになる。このあたりにつながる伏線が、これまでに張りめぐらされていると感じるところがある。次週以降の展開を楽しみに見ることにしよう。

2022年6月13日記

追記 2022年6月21日
この続きは、
やまもも書斎記 2022年6月21日
『鎌倉殿の13人』あれこれ「変わらぬ人」
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/06/21/9501938

ガマズミ2022-06-15

2022年6月15日 當山日出夫

水曜日は写真の日。今日はガマズミである。

前回は、
やまもも書斎記 2022年6月8日
青もみじ
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/06/08/9497957

四月に撮った写真のストックからである。

我が家の庭にある。それから、ちょっと敷地を出たところにある。今年は行っていないのだが、家から一五分ほど歩いたところにもある。春になると白い花を咲かせる。花の時期は、比較的短い。気がつくと咲いていて、気がつくともう終わっている。

今年は、庭にある木を注意して見ていた。その咲きはじめのころから見ていて、ほぼ花が咲いたころに写したものである。(これも今見ると、青い小さな実がついているのを確認できる。これが、秋になると赤くなる。)

このような花を写真に撮るのは、ちょっと難しいかなと思う。今年は、150ミリのマクロを使ってみた。これが、散歩に出て写真を撮るような場合なら、軽い85ミリを持って行くところである。

そろそろ雨の季節になってきた。ギボウシの白い花、それから紫陽花が咲いている。紫式部の花も咲いている。合歓木は、まだ少し先のことになるだろうか。

ガマズミ

ガマズミ

ガマズミ

ガマズミ

ガマズミ

ガマズミ

Nikon D500
SIGMA APO MACRO 150mm F2.8 EX DG OS HSM

2022年6月14日記

追記 2022年6月22日
この続きは、
やまもも書斎記 2022年6月22日
山吹
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/06/22/9502220

100カメ「鎌倉殿の13人」2022-06-16

2022年6月16日 當山日出夫

NHK 100カメ 鎌倉殿の13人

火曜日の夜の放送。これも録画しておいて、翌日の朝にゆっくりと見た。

『鎌倉殿の13人』で巻狩りのシーンがあったのは、この前の日曜日(一二日)の放送。その富士での巻狩り撮影の舞台裏を見せていた。これは面白かった。なるほど、ドラマ、大河ドラマの野外ロケの舞台裏とはこんなふうになっているのかと、興味津々というところろである。

野外ロケだから、天気が重要。これは、予定を組んで、予報を見るのだけれども、最後は神頼みという他はない。いたしかたないかという気もするし、まあ、こんなもんだろうなあ、という気もする。

イノシシのシーン、たった数秒であるが、これは、他の場所で撮影したものであった。これも、動物が相手だけに大変である。

面白かったのは、偽物の鹿が倒れるシーン。テレビで見ていても滑稽であった場面なのだが、撮影するのは大変である。リアルすぎてもいけないだろうし、また、あまりに偽物であってもいけないだろう。まさに偽物であるということが分かってのドラマである。この部分をどう作ることになるのか、面白い。

それにしても、テレビの放送で感じないのだが、ロケの日は雨が降り、雪が降り、風が吹き、大変だったようだ。

これから、『鎌倉殿の13人』大がかりなロケがあるというと、実朝暗殺のところだろうか、あるいは、承久の乱ということになるのかもしれない。撮影の裏の事情が分かると、テレビを見ていても面白くなる。これは、いい企画の番組だったと思う。

2022年6月15日記

『林達夫 編集の精神』落合勝人2022-06-17

2022年6月17日 當山日出夫(とうやまひでお)

林達夫 編集の精神

落合勝人.『林達夫 編集の精神』.岩波書店.2021
https://www.iwanami.co.jp/book/b587779.html

林達夫は若いとき、学生のころに、いくつか手にした。その当時、平凡社の著作集が刊行されていて、全部揃えるということはなかったが、そのうちのいくつかを買って読んだ。文庫本で、『共産主義的人間』が出ていたのも、読んだ。

とにかく、若い私にとって、林達夫という人はかっこいい人であった。

この本は、基本的に林達夫の評伝という形をとっている。が、その記述の主体となっているのは、編集者としての側面。読んで思うこと、感じることは多くあるが、二点ばかり書いておく。

第一には、出版史として。

昭和の戦前から戦後にかけての、出版史のある一面をうかびあがらせている。その中心になるのは、京都学派という存在であり、あるいは、岩波書店ということになる。岩波書店にける、「思想」や、「日本資本主義発達史講座」のことなど、戦前の思想と出版にかかわる、いろいろと興味深い記述がある。これはこれとして、通読して面白い読み物になっている。

名高い「日本資本主義発達史講座」であるが、このシリーズの刊行の実態というのは、どういう出版や販売のシステムによっていたのだろうか。現在の、出版社から取り次ぎがあり小売り書店というのとは、ちがっていたようなのだが、このあたり、戦前の出版流通のシステムの歴史的記述が、もうすこし丁寧にあるとよかったと思う。

第二に、百科事典。

これは、この本で書いていないことである。林達夫は、平凡社の百科事典の編集の仕事をしている。私としては、ここのところに非常に興味があるのだが、この本では、あえてであろうが、まったくといっていいほど省略している。たぶん、このところについて書こうとすると、この本の分量でおさまらない、あるいは、かなり方向性の違ったものになるという判断があってのことと思う。

今、WEBの時代である。百科事典的な知識というものは、大きく変容しようとしている。また、雑誌、講座という出版についても、変革の時代であるといえる。この時代背景を考えて、かつて、林達夫はどんな仕事をした人であったのか、あるいは、林達夫の仕事から、将来にむけてどんな展望を描くことができるのか、いろいろと考えることはあるかと思う。

以上の二点が、この本を読んで思ったことなどである。

さて、林達夫は、もう賞味期限が切れたというべきなのだろうか。あるいは、これからも読むべき人として生き残っていくだろうか。編集者としての林達夫という観点から考えてみた場合、どうだろうか。社会における知のあり方を考えるとき、林達夫は、参照すべき古典として生きのびることになるだろうか。

新しいインターネットの時代にあって、「編集」とはどういう意味をもつのか。この本を起点として、考えるべきことは多くあるだろう。

探せば、昔読んだ著作集が残っているはずである。久しぶりに林達夫の文章を読んでみたいと思う。

2022年5月31日記

『郵便配達は二度ベルを鳴らす』ケイン/池田真紀子(訳)2022-06-18

2022年6月18日 當山日出夫(とうやまひでお)

郵便配達は二度ベルを鳴らす

ケイン.池田真紀子(訳).『郵便配達は二度ベルを鳴らす』(光文社古典新訳文庫).光文社.2014
https://www.kotensinyaku.jp/books/book194/

読んでいない、あるいは、遠い昔に読んだ本の再読、ということで、あれこれと読んでいる。さて、この作品はどうだったろうか。若いときに手にしたような記憶はあるのだが、はっきりと憶えていない。

池田真紀子の訳ということで、光文社古典新訳文庫版で読んでみることにした。解説によると、ノワール、あるいは、ハードボイルドの傑作という位置づけになるようだが、たしかに読んで面白い。

あるいは、この作品については、映画が有名かもしれないのだが、私は見ていない。

ストーリー、状況設定は、比較的単純である。一九三〇年代、不況のころのアメリカである。流れ者の主人公。ふと立ち寄ったレストラン。そこにいるギリシャ人の夫と妻。結局のところは、その夫を殺すという犯罪小説として展開することになるのだが、それが、男の視点から描かれる。

解説を書いているのが、諏訪部浩一。これが良く書けている。アメリカ文学史における、ハードボイルド論、ノワール論、である。読んで、なるほど、ハードボイルドをそのように考えることができるのかと、興味深い。

私が読んで感じるところとしては、次の二点ぐらいがある。

第一に、ダメ男の物語。

この小説の主人公は、ダメ男である。たしかに、ある意味ではタフといえるかもしれないのだが、読んでいてなんとなく歯がゆい。さっさと女とどこかに行ってしまえばいいのにと思ってしまう。

この主人公に共感するところはあまりないし、また、その行動や思考を肯定的にとらえることはないのであるが、しかし、読んでいて、こういう男もいるのかと、ついつい読みつづけることになる。まあ、このあたりは、人物造形のうまさと、小説としてのたくみさある。

第二に、犯罪小説。

文学史としては、犯罪小説のなかに位置づけることになる。そう巧妙な犯罪計画ということではないが、事件がおこり裁判がある。この作品は、犯罪小説の系譜における傑作である。今の視点から、犯罪小説として読んで面白い。

以上のことを思ってみる。

そう長くない作品であるが、印象に残る。特に犯罪小説の歴史ということを考えてみるとき、やはりこの作品は重要な位置をしめることになるのだろう。

2022年6月2日記

『ちむどんどん』あれこれ「あの日、イカスミジューシー」2022-06-19

2022年6月19日 當山日出夫

『ちむどんどん』第10週「あの日、イカスミジューシー」
https://www.nhk.or.jp/chimudondon/story/week_10.html

前回は、
やまもも書斎記
『ちむどんどん』あれこれ「てびち!てびち!てびち!!」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/06/12/9499151

暢子はストーブ前というところまでたどり着いた。

この週で印象に残っていることとしては、次の二点ぐらいがあるだろうか。

第一には、オーナーの過去。

オーナーの房子と、三郎、それから二ツ橋シェフの間には、かつてどんなことがあったのだろうか。また、父親の賢三と房子も何かあったらしい。だが、この回までですべてが明確に説明されたということではない。たぶん、これからのドラマの進展にともなって、どのような過去があったのか明らかになっていくのだろう。

第二には、イカスミ。

今でこそイカスミを使った料理はかなりポピュラーなものになっているが、しかし、暢子が東京で働いていたころは、どうだろうか。ちょっと時代的には、イカスミパスタをレストランのメインメニューに加えるには、早いような気もする。だが、ここは、沖縄での料理とイタリア料理の出会いということで、このような運びになったということなのだろう。

以上の二つぐらいのことを思ってみる。

さて、ニーニーは養豚場で仕事を続けることになるのだろうか。良子は博夫とうまくやっていくことができるだろうか。このあたり心配ではある。歌子が元気に……とはいえ病気が治ったということはないのであるが……沖縄に帰って行った。次週以降、暢子の仕事も新たな展開があるようだ。楽しみに見ることにしよう。

2022年6月18日記

追記 2022年6月26日
この続きは、
やまもも書斎記 2022年6月26日
『ちむどんどん』あれこれ「ポークとたまごと男と女」
https://yamamomo.asablo.jp/blog/2022/06/26/9503374

ブラタモリ「鴨川」2022-06-20

2022年6月20日 當山日出夫

ブラタモリ 鴨川

土曜の夜の放送。録画しておいて、日曜日の朝にゆっくりと見た。

鴨川、賀茂川については、高校生のときに、その流域のほとんどすべてを歩いたことがある。カメラを持って歩いた。上賀茂神社の競馬の神事もカメラを持って出かけた。

雲ヶ畑の源流のあたりの山道も歩いた。その当時は、京阪の三条駅から京バスに乗って行ったものである。終点のバス停から、かなり歩いた。

番組で取り上げていたのは、貴船、上賀茂、そして、高瀬川。このあたりは、妥当な選択だったかと思う。が、京都の街と鴨川、賀茂川のことを考えるには、平安京の造営にあたって、その流路の変更ということが取り上げられるべきだろうとは思う。しかし、ここのところに言及してしまうと、古代から中世にかけての平安京の暮らしということになってしまう。番組の構成としては無理があることになるだろう。

今見ることのできる、京都市内の鴨川の景観は、近代になってから、あるいは、昭和以降の治水工事の結果である。それまで、鴨川は、幅広く蛇行して流れていた。それを、まっすぐに流れるようにして、護岸工事をきっちりとしたのは、新しいことである。いうなれば、平安京の人びとのみならず、江戸時代の人びとにとっては、賀茂の河原というのは、今のような整備されたものではなかった。刑場にもなったということは、このあたりが、京の街からは域外の地域と意識されていたことを示すものであろう。

ここしばらく居職の生活である。家で本を読んでいる。このまえ鴨川の景色を見たのは、何時のことになるだろうか。もう忘れてしまっている。

2022年6月19日記