『最後の大君』スコット・フィッツジェラルド/村上春樹(訳)2022-07-12

2022年7月12日 當山日出夫

最後の大君

スコット・フィッツジェラルド.村上春樹(訳).『最後の大君』.中央公論新社.2022
https://www.chuko.co.jp/tanko/2022/04/005502.html

この作品、「ラスト・タイクーン」の名前の方が有名かもしれない。村上春樹は、新しく訳を出すにあたって、旧来のタイトルとはちょっと違った付け方をする。これは、区別のためということもあるのだろう。

「ラスト・タイクーン」は、若いとき、映画化されたのを見たのを憶えている。どんな映画だったかさっぱり憶えていない。ただ、撮影所が洪水になって、何かセットが流れてきて、それに人がつかまっていたかなと、かすかに記憶にある程度である。

村上春樹の訳のフィッツジェラルドは、これまでにいくつか読んできた。『最後の大君』も、フィッツジェラルドを村上春樹が訳したということで、とにかく読んでみることにした。

思うところは、次の二点ぐらいだろうか。

第一に、映画。

ハリウッドが舞台である。そこでの映画製作の実際がどんなだったか、どんな人びとがどんな役割分担で、どんな仕事をしていたのか……このあたりが興味深い。これは、この本の読み方としては、本来の筋ではないことは分かっている。しかし、今になって、この小説を読むと、歴史的な興味関心で読んでしまうところがどうしてもある。

第二に、小説として。

文学とは、つまりは文体であると言ってもいいのなら、まさしく、この小説は文学である。どの登場人物、シーンもいい。魅力的な人物であり、また、その時代的背景をそこはかとなく感じさせる。未完の小説なのだが、その不十分さを感じさせない。読みながら、フィッツジェラルドの世界に入り込んで行く。そして、それを十分に堪能できる村上春樹の訳である。

これを読んだら、村上春樹訳の、他のフィッツジェラルドの作品を読みなおしてみたくなった。

以上の二点が、読んで思うことである。

この作品は、ある時代のある人びとの生活感覚を確かにとらえており、そして、それが普遍的なところにつながっている。

2022年6月10日記

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