「二十四の瞳」2022-08-11

2022年8月11日 當山日出夫

NHKで「二十四の瞳」を放送していたので、これは見ておくことにした。

「二十四の瞳」は、これまで何度となく映画化、ドラマ化されてきている。一番有名なのは、木下恵介監督の映画だろうか。たしか、若いころに映画館で見たかと記憶している。テレビドラマでは、小さいころに放送されたのを見たのを憶えている。

壺井栄の原作も読んだ(はずである)。もう昔のことなので、ほとんど憶えていない。ただ、原作を読むと、岬の分校のことはあまり出てこなくて、戦時中、戦後の出来事がかなりの部分をしめていたかと思う。

思うこととしては、やはりこの作品は名作であるということ。そう思うには、主に二つの理由がある。

第一には、岬の分校の先生という設定。

学校、教師、ということを題材にしては、多くのドラマなどが作られてきているが、その中でも「二十四の瞳」は、一番有名な作品の一つであろう。岬の分校の小学生の十二人、それを教えることになる新米の女性の先生、そこでの子どもたちとの交流が、これはうったえるものがある。まずは、この設定の巧みさということがあるだろう。

そして、その子どもたちを、二代になって教えることになる先生。その間に、戦争があり、時代が変わっていく。この時代の流れを、このドラマは、見事に描くことに成功している。

第二には、二十四の瞳は平等ではないこと。

子どもの世界にも、世の中の理不尽は影を落としている。なかでも印象的なのは、修学旅行の場面だろう。まず、修学旅行といっても、すべての子どもが参加できるわけではない。経済的な理由などにより、参加できない子どもがいる。

そして、行き先の琴平で、奉公に出た子どもと再会することになるシーン。

ただ、原作に沿ってドラマを作ってあるということもあるのだろうが、家が落ちぶれる、困窮するということはあっても、女性の身売りということまでは出てきていない。しかし、これも、この時代を想像するならば、女性の奉公先がどんなところであってもおかしくはない。

以上の二つのことを思って見る。

「二十四の瞳」は、たぶんこれからもドラマ化されることがあるだろうと思う。この作品が描いた時代というもの、あるいは、教師と子どもとの関係、これらはある種の普遍的な問いかけになって、それぞれの時代において考えるべきところがあるように思う。

2022年8月9日記