バリバラ「芥川賞作家と考える「愛と憎しみの読書バリアフリー」」2023-08-03

2023年8月3日 當山日出夫

バリバラ 芥川賞作家と考える「愛と憎しみの読書バリアフリー」

録画してあったものである。まず、『ハンチバック』を読んでからと思って、後日に見た。

番組の趣旨とはちょっとずれることになるかもしれないが、ここで提起された問題は、テキストとは何か、という問題をはらんでいる。

例えば『源氏物語』。今、この作品を写本や板本のくずし字のテキストで読む読者は、一部の研究者だけである。その研究者でも、普通に読むのは、現代の活字校訂本である。変体仮名を通行の仮名(活字)にして、適宜、漢字をあてたり、句読点をおぎなったりしてある。また、段落ごとに改行して区切ってある。小学館とか岩波などが出している古典の校注テキストである。

現代の校注テキストになった段階で、原文(無論、紫式部が書いたものではなくどれも後世の写本などになるが)、の情報をそのまま伝えてはいない。ひょっとすると大事なものが抜け落ちてしまっているのかもしれない。

だが、それでも、今一般に読むのは、現代の活字校注本においてである。

これで、『源氏物語』のテキストの本質をとらえることができるだろうか。しかし、テキストの本質が残っているとしなければ、現代の古典の研究も読書もなりたたない。

同じようなことは、『万葉集』にも、『古事記』にもいえる。いや、これらの作品になると、もっと事情は複雑である。

さて、書いた作品を、電子的なプレーンテキストで提供することに、何の問題があるのだろうか。紙の本ではなくなったからといって、伝えることのできないようなものは、果たしてその作品の本質的部分なのだろうか。

作家のなかには、自分の作品は、特定の印刷会社で組版したものであることを要求している人もいる。これはこれでいいとして、では、電子的なプレーンテキストになったとき、その作品がそこなわれると言えるだろうか。

これは、日本語のみならず、ことばというものにたずさわっている人間が考えなければならない問題である。昔、PCやワープロが普及し始めたころ、テキストとは何かという問題が一部で議論されたと経験的には思っている。これが、現代の各種のデジタル機器の発達をうけて、新たな段階の議論として、再度検討されなければならないことであると思う。

2023年8月2日記