『らんまん』あれこれ「スエコザサ」2023-10-01

2023年10月1日 當山日出夫

『らんまん』最終週「スエコザサ」

最後まで見終わって思うことをいくつか書いてみたい。

牧野富太郎をモデルのドラマである。かなり忠実にその人生をなぞっている。だが、大きく作り変えているところもある。例えば住まい。実際の牧野富太郎は、何度も引っ越しをしている。これがドラマでは、ずっと長屋住まいをすることになっている。このあたりは、長屋の隣人との交流を描きながらも、大量の植物標本と書物を持つことになったことを、うまく折り合わせてドラマにしてある。また、牧野富太郎は東京帝国大学の助手から講師になって、晩年までつとめていた。これを、助手になったところまでにして、南方熊楠との関係をからめて、その後は在野の植物学者として生きたということにしてあった。それから、人生の後半のことは描いていなかった。植物の愛好家たちと植物観察会にを組織することは出てこなかった。ドラマは、妻の寿恵子(寿衛子)と一緒にすごした時間を中心にしてあった。

朝ドラという枠のなかで作ったドラマとしては、近代の学問の成立についてはかなりふみこんだ描写になっていたところもある。総じて、近代日本の大学とナショナリズムは、かなり関係があると言えるだろう。それを、特に否定的に描くということはしていないと、私は見ていて感じた。明治という時代、近代日本の黎明期にあって、近代的な学問を立ち上げることが急務であった時代、たまたまその時代に生きた人間の一人としての槙野万太郎ということであった。大学にいる教授たちも、万太郎に対して悪意を持っているということではなかった。その時代の流れのなかにあって、近代の植物学の確立に尽力している姿が、それぞれにあった。

ここで思うこととしては、日本人による日本の植物を網羅した図鑑を自分の手で作りたいという万太郎の気持ちも、またナショナリズムにつながるものがあるということがある。ナショナリズム(愛国心)ということばが適当でないとすると、愛郷心と言ってもいいかと思う。どれだけ国家というものを意識するかどうかということはあるが、日本の国のフロラを日本人によって明らかにしたいという気持ちは、帝国大学の教授の立場であった人間にも共通してあったことだろうと思う。朝ドラということもあるが、このドラマでは帝国大学教授は決して悪役にはなっていなかった。

だが、その一方で、草木の精としての側面もある。ただ純粋と植物画好きである。知的な営みとしての学問、この側面もまた描かれていた。このあたりのバランスは、うまくできていたと感じる。

槙野万太郎という人間の半生をたどりながら、近代の日本の学問の確立にかかわることになった人間のあり方というものを描いたドラマであったと思う。

2023年9月30日記

『どうする家康』あれこれ「さらば三河家臣団」2023-10-02

2023年10月2日 當山日出夫

『どうする家康』第37回「さらば三河家臣団」

歴史の流れとしては、その後の三河以来の譜代ということになるのだろう。

ドラマはここにきて、三河の徳川家康から、江戸に移ることになった。それにともなって、徳川の家臣団の武将たちは、それぞれに領国を持つことになった。このあたりは、歴史のとおりということになる。

見どころとしては、独立して領地を持つことになっても、徳川家康の家臣であったことの結束は変わらないということになるだろう。おそらくは、この結束の強さが、この後の関ヶ原の戦い、大阪冬の陣、夏の陣へとつながっていく布石になるのだろうと思って見ていた。

先週、於愛の方が亡くなったと思ったら、今週になって、阿茶の局が登場していた。阿茶の局は、以前の大河ドラマで家康が登場するときも、側にいたように憶えている。これからの家康の決断に影響を与えることになるのだろうか。

ところで、秀吉であるが、遂に朝鮮に出兵し、明の国まで攻めようとしている。これまで、大河ドラマを始め、秀吉の朝鮮出兵は多く描かれてきていると思う。私の記憶だと、朝鮮とのことがメインになり、最終目的として明を考えていたことは、あまり出てこなかったように憶えているのだが、どうだろうか。(歴史の結果としては、この戦いは無益なものであり、今にいたるまで禍根を残すことになっているのだが。)

次週、朝鮮出兵ということになるようだ。秀吉の欲望をどのように描くことになるのか、楽しみに見ることにしよう。

2023年10月1日記

100分de名著「“シャーロック・ホームズスペシャル” (4)人間性の闇と光」2023-10-03

2023年10月3日 當山日出夫

100分de名著「“シャーロック・ホームズスペシャル” (4)人間性の闇と光」

探偵小説、推理小説、ミステリ……というジャンルの文学は、何故生まれたのか、読者はそれに何を求めるのか、これはこれとしてとても興味深いテーマである。

個人的な思いを書いてみるならば、探偵小説は何よりも論理で謎を解きあかすところに、その存在意義がある、というのが、まず思うところである。ホームズの作品は、中学生のころから読んでいる。その時に魅力であったのは、何よりも論理で考える文学だということになる。

その後、いろいろと読んできた。高校生のころは、日本では、いわゆる社会派ミステリの全盛期であった。同時にそれに対する反動だろうか、江戸川乱歩や横溝正史などがはやった時期でもある。そして、大学生になったころに、日本では新本格という作品群が登場することになる。

今でも楽しみの読書としてミステリを読む。毎年、年末のベストが発表になるころには、特に海外の翻訳作品は読むことにしている。

このごろ感じることは、特に英米のミステリに佳品が多い。ミステリとしての論理の完結ということと同時に、人間と社会が描けていると感じる作品が多くある。日本のミステリとくらべるつもりはあまりないが、その文学的芳醇さは、背景にある文学的伝統と無縁ではないのだろうと思っている。

ミステリが人間をどう描くのか。その問いかけが、ホームズの作品のなかにも見いだせることになる。人間を描く文学としてのミステリの魅力である。

2023年9月28日記

ブラタモリ「利尻島」2023-10-05

2023年10月5日 當山日出夫

ブラタモリ 利尻島

利尻島は名前を知っているだけである。

利尻山のこと、昆布のこと、ウニのこと、それから、ニシンのこと、それぞれに面白かった。昆布などの海産物を運んだのが北前船であることは、分かっているのだが、具体的にどのように運行され、事業として経営されていたのか、そのあたりのことについての知識がない。日本における海上交易史のうえできわめて重要な存在であることは認識しているのだが。

幕末の英語学習については、日本語学の方面からも研究のテーマとなるところである。アメリカ人のマクドナルドが、利尻島をめざして日本にやって来たというのも興味深い。

もう北海道に行くこともないだろうと思っているのだが、もし機会があれば行ってみたいところの一つということになる。

2023年10月1日記

「牧野富太郎の大冒険」2023-10-05

2023年10月5日 當山日出夫

「牧野富太郎の大冒険」

牧野富太郎については、いろんな番組が作られたが、そのなかで面白かったものになる。

興味をひいたところがいくつかある。

マキシモヴィッチのこと。牧野富太郎についての本とか読むと、名前は出てくるので知っているが、いったいどんな人物であったか、あまり紹介されてはいなかった。そのマキシモヴィッチについて、ロシアの植物学者として、日本の植物の学名をつけたことなど、この番組で知った。

標本の作り方。植物の標本の作り方が具体的に説明してあって、なるほどと思った。牧野富太郎の残した標本が、現在の東京都立大学で整理が完了したが、つい最近のことになることは知っていた。が、牧野富太郎自身が残した標本もある。その標本を見ると、現場で採取して根についた土をすぐに洗い落としていたとのことであった。

それにしても、牧野富太郎が、北海道の利尻島での採集旅行は、現在の常識からすると無謀と言ってもいいかもしれない。が、そのなかにあっても、植物の標本採取をしていたことには、驚くしかない。

都立大の牧野標本館にあるボタンキンバイは、タイプ標本であった。

2023年9月30日記

100カメ「ゲームメーカー」2023-10-06

2023年10月6日 當山日出夫

100カメ ゲームメーカー

PCでゲームはしない。遊んだことがあるのは、ニンテンドーのスーパーファミコン、64、ぐらいが主になるだろう。まだ子供が小さいときのことである。

ストリートファイターもバイオハザードも、名前は知っているが実際にゲームをしたことはない。

その製作の現場がどんなものなのか、興味深かった。

まず、モーションキャプチャで実際の人間の動きをコンピュータで扱えるようにするところから始まる。このあたりのことは、以前、モーションキャプチャについての研究発表に接してきたので、現在の技術がどんなものか興味のあるところである。

それにしても、ゲームの企画から開発のプロセスは、とても大変である。何よりも面白いのは、スタッフがゲーム好きということである。まあ、このような仕事は、根っからのゲーム好きでないとつとまらないとは感じるが。

CGによるキャラクター造形は、細部までこだわっている。現在のCGでどのような作品ができるのか、興味のあるところである。

この番組のなかでは、AIについての言及がなかった。しかし、ゲームの製作現場にもAIの影響はあるだろうと思う。

2023年10月5日記

雑談「昭和」への道「第六回 ひとり歩きすることば〜軍隊用語〜」2023-10-06

2023年10月6日 當山日出夫

司馬遼太郎 雑談「昭和」への道 第六回 ひとり歩きすることば〜軍隊用語〜

特にこの回の内容はいろいろと考えるところがあった。国語学、日本語学の研究からはもうリタイアしようとは思っているのだが、それでも、この回の内については、思うところがある。

やはり近代になってからの日本語のことである。国民国家としての近代の日本と言語、これについては、いろんな立場からの研究があることは承知しているつもりでいる。

このことについて、司馬遼太郎は、そのプラスの面を見ている。近代になって、軍隊で使える日本語ができて、昭和になって日本国民に共通の日本語が使えるようになった、このこと自体はたしかに意味のあることだと私は考える。(ただ、その一方で、外地における国語としての日本語ということ、また、方言の否定ということについては、まったく問題がないということではないのだが。)

国民が共有できる日本語があっても、その使い方を誤って空疎にしてしまったのが、昭和になってからの日本の軍隊である、と司馬遼太郎は語る。昭和戦前の軍隊用語、軍人のことばは、勇ましいだけで内容がともなわない、あるいは、嘘だらけであった。

練度の高い正直さが必要であると、司馬遼太郎は語っていた。たしかにそのとおりだと思う。これは、今の時代にあっても、政治家のことばが、どのように人びとに受けとめられているかということを考えてみれば、かつての昭和の戦前とそう変わりはないと思わざるをえない。練度の高い正直さには、リアリズムがあると同時にユーモアがある。このどちらも、今の日本の政治家のことばには無いものである。

2023年9月30日記

「獄友たちの日々」2023-10-07

2023年10月7日 當山日出夫

ETV特集 獄友たちの日々

再放送である。最初は、二〇一七年。

冤罪事件はニュースになる。その多くは、警察、検察の非を語るものが多い。

冤罪事件の当事者……犯人とされてしまった人……が、どのような思いで刑務所のなかですごしているのか、また、そこから出られたとしても、どんな生活を送っているのか、このことについては、ほとんど一般に知られることがなかったと思う。

それぞれに事情はあると思うが、確かに一種の極限状況のなかで長い年月を過ごすということが、その人間にどのような影響を与えることになるのか。それでも、生きているということは何であるのか、いろいろと考えるところがある。

ただ冤罪事件について、警察や検察のことをせめるばかりではなく、世の中に法というものがあることと、そのなかで人は生きていることの意味を考えることの必要を感じる。

死刑という制度については、私の考えとしては理念的には否定はしない。だが、実際にそれがどのよう行われるのか、また、死刑囚であるひとがどのような生活を送ることになるのか、この実態は広く議論されるべきことであるとも思う。死刑囚として獄中をすごすことは、刑の執行よりもさらに残酷な刑罰であると言ってもよいかもしれない。死刑という刑罰については、最大限の慎重さと熟慮が必要である。

ところで、狭山事件については、ある思い出がある。私がまだ学生だったころ、この事件の証拠の鑑定をめぐって、国語学会の研究会で話しを聞いたのを憶えている。話をしたのは、大野晋。たしか、会場は京都だった。

2023年10月2日

「幻の地下大本営」2023-10-07

2023年10月7日 當山日出夫

BS1スペシャル 幻の地下大本営 ~極秘工事はこうして進められた~

松代大本営については、あまり知られていないように思っている。ただ、特にその存在を明らかにしようということもなく、あるいは逆に隠しておこうということもなく、ただ年月が過ぎてしまってきたというのが、私の持っている印象である。個人的な記憶としては、松代大本営のことは、かなり若いときに知識としては知っていたと憶えている。

今回、見つかったのは、そこで働いた朝鮮人労働者の名簿。終戦後、朝鮮に帰還させるべく、特高が作成した名簿であるという。そこから分かることがある。

一つには、日本に来て働いていた朝鮮人労働者は、すべてが徴用された奴隷のような存在ばかりではなかったこと。熟練工として、日本で仕事をしていた朝鮮人もいたことになる。

その一方で、朝鮮から強制的に集団で動員されてきた労働者たちもいた。その労働環境は劣悪であった。

そして、終戦を迎えた後、日本にいる朝鮮人の人びとを、どうあつかうべきか、苦慮したこと。朝鮮人の人びとにとっては、植民地からの解放であったにはちがいないが、それが、すぐに次の生活の再建と安定に向かうということではなかった。

まずは何よりもその実態を歴史的に明らかにする必要があると考える。世界における植民地政策のあり方、外国人労働者のあり方、歴史的に、また、現代の課題として、総合的に判断する必要があるだろう。そこからヒューマニズムにのっとった普遍的な知見をえられるかどうかだと思う。ただ、外交の政争の具としてはならないと考える。

ところで、八月一五日は、玉音放送のあった日であるが、正式に降伏した日ではない。降伏文書の調印は、九月二日。ポツダム宣言を受諾したの、八月一四日である。

負けると分かっていて、本土決戦のために松代大本営を作ったのは、現代からみれば滑稽であり、悲惨でもある。が、国家による巨大なプロジェクトというのはえてしてこのようなものかもしれない、というのが見終わって感じるところである。

2023年10月5日記

『ブギウギ』第1週「ワテ、歌うで!」2023-10-08

2023年10月8日 當山日出夫

『ブギウギ』第1週「ワテ、歌うで!」

笠置シズ子(ふむ、ATOKは一発で変換した)のことは、物心ついた時から知っていたと思う。テレビなどで「東京ブギウギ」は耳にした記憶がある。

ドラマの第一週を見て思うこととしては、BKはかなり力をいれて作っているなという印象である。これは、ここ数年の朝ドラに感じることである。まあ、中には例外もないわけではないが。脚本、キャスト、音楽、時代考証、どれも出来映えはすばらしいと思う。

第一週で描いていたのは、鈴子の子供のころのこと。風呂屋の娘が、少女歌劇団に入るまでのことであった。風呂屋をとりまく雑多な人びとが興味深く描かれていた。どの人物も個性があって面白い。風呂焚きのゴンベエ、記憶喪失のまま風呂屋で仕事をしている。今なら警察や行政の保護の対象ということになるかと思うのだが、大正から昭和のはじめごろ、このような人物が、街のなかにいてもおかしくはなかったのかもしれない。アホのおっちゃんもいい。いつもタダで風呂に入りに来る。それを許しているということも、この時代ならではという感じがする。

ところで、ちょっと気になっていることがある。土曜日のまとめでは省略されてしまっていたのだが、母親が子供を産んで家に帰ってきた場面。二人の赤ちゃんをつれていた。ドラマの始まった冒頭では、双子の男の子がいて、早くに亡くなったとあった。これは、本当に双子だったのだろうか。何かの事情があって、誰かの赤ちゃんを引き受けて育てることにでもなったのだろうか。このあたりのことは、これからのドラマの伏線になっているのだろうか。気になるところである。

それから、この週でも少しあった舞台の場面。おそらくこのドラマの見せ場の一つは、舞台ということになるだろう。これをどう見せるか、ドラマの大きな魅力となるかと思う。

これから昭和の戦前から戦後の時代を描くことになる。この時代をどのように描くか、これも気になっている。ちなみに、再放送が始まった『まんぷく』では、日中戦争が始まったころの世相を明るく描いていた。

次週は、少女歌劇団でのことになるらしい。楽しみに見ることにしよう。

2023年10月7日記