ブラタモリ「秋吉台」 ― 2023-10-24
2023年10月24日 當山日出夫
ブラタモリ 秋吉台
秋芳洞には行ったことがある。かなり以前のことになるが、山口で学会があったときに、ついでに行ってみた。そのとき気づいたのが、「あきよし」と読んでも、「秋吉台」「秋芳洞」では漢字が違うということだった。
カルストの地形のことについては、学校の地理の勉強で習ったかと憶えている。カルスト台地の風景が、毎年、草を焼くことで守られてきたということは知らなかった。が、そういえば、ニュースなどで、秋吉台の山焼きのことは見たようにも憶えている。
秋芳洞は、歩いたのだが、特に記憶に残っているということはない。非常に広い地下空間であるという印象ぐらいである。(他には、たまたま学会の時に行ったので、たくさんの知った人に会うことになったことぐらいである。学会の時に、ついでに近くの観光地に行ったりするとたいていそうである。)
石灰岩はセメントの原料なので、この地域の半分が採掘場になっているということは、この番組で知ったことになる。(どうでもいいことだが、横溝正史の『八つ墓村』の終わりの方で、鍾乳洞のある土地を生かしてセメント業をおこすことが出てきていたのを思い出す。)
興味深かったのは、秋吉台のなかの村落。たまたま流れていた地下水脈を利用して井戸を掘って生活していたとこのことである。見ていると空き地が多かった。今では、過疎の村と言ってもいいのかもしれない。ちょっと気になったのは、この村では、米作はどうだったのだろうか、ということがある。
それから、秋吉台が、米軍の演習場にならなくてよかったと思う。
洞窟学会というのがあることにもおどろいた。
2023年10月22日記
ブラタモリ 秋吉台
秋芳洞には行ったことがある。かなり以前のことになるが、山口で学会があったときに、ついでに行ってみた。そのとき気づいたのが、「あきよし」と読んでも、「秋吉台」「秋芳洞」では漢字が違うということだった。
カルストの地形のことについては、学校の地理の勉強で習ったかと憶えている。カルスト台地の風景が、毎年、草を焼くことで守られてきたということは知らなかった。が、そういえば、ニュースなどで、秋吉台の山焼きのことは見たようにも憶えている。
秋芳洞は、歩いたのだが、特に記憶に残っているということはない。非常に広い地下空間であるという印象ぐらいである。(他には、たまたま学会の時に行ったので、たくさんの知った人に会うことになったことぐらいである。学会の時に、ついでに近くの観光地に行ったりするとたいていそうである。)
石灰岩はセメントの原料なので、この地域の半分が採掘場になっているということは、この番組で知ったことになる。(どうでもいいことだが、横溝正史の『八つ墓村』の終わりの方で、鍾乳洞のある土地を生かしてセメント業をおこすことが出てきていたのを思い出す。)
興味深かったのは、秋吉台のなかの村落。たまたま流れていた地下水脈を利用して井戸を掘って生活していたとこのことである。見ていると空き地が多かった。今では、過疎の村と言ってもいいのかもしれない。ちょっと気になったのは、この村では、米作はどうだったのだろうか、ということがある。
それから、秋吉台が、米軍の演習場にならなくてよかったと思う。
洞窟学会というのがあることにもおどろいた。
2023年10月22日記
ドキュメント20min.「宛先は、わたし」 ― 2023-10-24
2023年10月24日 當山日出夫
ドキュメント20min. 宛先は、わたし
番組の意図とは関係ないことだが、気になったのは、登場していた手紙の文字がどれもきちんとした読める文字であり、特に句読点「、。」がきちんとうってあることだった。近年の学生の書いたものを読むと、基本的に自分の手で文字を書いて人に読んでもらう、ということができないと痛感してきた。(このあたりは、番組の製作のときに、きちんと画面に映しても読める手紙を選んだということもあるのかもしれないとは思ったりするのだが。)
まだ若い人にとっては、一年というのが、ちょうどいい時間なんだろう。学年が変わっている、進学したり、就職したりしているかもしれない。
これが今の私の生活だと、たぶん生きてはいるだろうが、同じような毎日を送っていると思う。いや、逆に、この歳になると、一年たっても同じ生活が送れているならば、それを幸福であると感じるようになっている。こういうのも、自分自身が歳を取ってきたということなのだろうと思う。
時分の書いたブログの文章を、時々読み返すことがある。あのときには、こんな本を読んでこんなことを思っていたのか、考えることがある。
2023年10月23日記
ドキュメント20min. 宛先は、わたし
番組の意図とは関係ないことだが、気になったのは、登場していた手紙の文字がどれもきちんとした読める文字であり、特に句読点「、。」がきちんとうってあることだった。近年の学生の書いたものを読むと、基本的に自分の手で文字を書いて人に読んでもらう、ということができないと痛感してきた。(このあたりは、番組の製作のときに、きちんと画面に映しても読める手紙を選んだということもあるのかもしれないとは思ったりするのだが。)
まだ若い人にとっては、一年というのが、ちょうどいい時間なんだろう。学年が変わっている、進学したり、就職したりしているかもしれない。
これが今の私の生活だと、たぶん生きてはいるだろうが、同じような毎日を送っていると思う。いや、逆に、この歳になると、一年たっても同じ生活が送れているならば、それを幸福であると感じるようになっている。こういうのも、自分自身が歳を取ってきたということなのだろうと思う。
時分の書いたブログの文章を、時々読み返すことがある。あのときには、こんな本を読んでこんなことを思っていたのか、考えることがある。
2023年10月23日記
最近のコメント