ザ・バックヤード「京都国際マンガミュージアム 第2弾」 ― 2023-11-03
2023年11月3日 當山日出夫
ザ・バックヤード 京都国際マンガミュージアム 第2弾
マンガの原画を残すことには、たしかに意味があると思う。
興味深かったのは、描き手が、この色は印刷では出せないだろうと思っていながら、原画を描いているということ。竹宮惠子の時代であれば、紙に描いて、オフセット印刷ということであったろう。その時代にあっても、印刷で表現出来る色には限界があった。しかし、それを超えて原画を描いている。
それから、原画’ということで、レプリカを作成する企画。文化財について、レプリカを展示などで利用することはよくおこなわれる。マンガの原画についても、レプリカの制作と、その展示が行われていることは面白い。
だが、実際の原画について、どのような保存処理をすれば、残すことができるのか。保存科学の観点からのアプローチも必要だろう。(このことについては、番組では触れていなかったが、気になるところである。)
今日、デジタルでマンガを制作するようになっている。この場合ならば、デジタルデータを残せばいいということになるだろう。ただ、使用している機材でどのような色空間を使用するか、というあたりの議論はあるかと思う。
また、事業部で実用マンガを製作していることは知らなかった。特に、会社の社員教育や営業などに利用されているとのこと。さらには、医療マンガも多数作られている。信頼できる専門家の監修のもとに作られてものなら、怪しげなネット情報よりも、よほど信用できるといえるだろう。
2023年11月2日記
ザ・バックヤード 京都国際マンガミュージアム 第2弾
マンガの原画を残すことには、たしかに意味があると思う。
興味深かったのは、描き手が、この色は印刷では出せないだろうと思っていながら、原画を描いているということ。竹宮惠子の時代であれば、紙に描いて、オフセット印刷ということであったろう。その時代にあっても、印刷で表現出来る色には限界があった。しかし、それを超えて原画を描いている。
それから、原画’ということで、レプリカを作成する企画。文化財について、レプリカを展示などで利用することはよくおこなわれる。マンガの原画についても、レプリカの制作と、その展示が行われていることは面白い。
だが、実際の原画について、どのような保存処理をすれば、残すことができるのか。保存科学の観点からのアプローチも必要だろう。(このことについては、番組では触れていなかったが、気になるところである。)
今日、デジタルでマンガを制作するようになっている。この場合ならば、デジタルデータを残せばいいということになるだろう。ただ、使用している機材でどのような色空間を使用するか、というあたりの議論はあるかと思う。
また、事業部で実用マンガを製作していることは知らなかった。特に、会社の社員教育や営業などに利用されているとのこと。さらには、医療マンガも多数作られている。信頼できる専門家の監修のもとに作られてものなら、怪しげなネット情報よりも、よほど信用できるといえるだろう。
2023年11月2日記
司馬遼太郎 雑談「昭和」への道「第十回 青写真に落ちた影」 ― 2023-11-03
2023年11月3日 當山日出夫
司馬遼太郎 雑談「昭和」への道 第十回 青写真に落ちた影
一九八二年の放送である。
坂本竜馬についても、自由民権運動についても、今日ではかなり評価が変わってきているところもあるのかもしれない。
司馬遼太郎は、自由民権運動をあまり高く評価していない。それは、憲法ができ、国会が開設されると、みんな国会議員になってしまって、運動自体が終わってしまったことにある。
はっきりとそう述べたわけではないが、アジアへの膨張主義は、むしろ民権論者にあるもので、国権論者はそうでなかった、という意味のことに触れたところがあった。さらにうがってみるならば、国権論者は、国家のあり方についてのリアリズムがあったということになるのかもしれない。このあたりの議論、いわゆる帝国主義的な国家運営が、どのような思想、人びとに由来することになるのか、興味深い。
そして、この回は、ジャーナリズム論でもあった。ただ、政府を批判するだけの在野ジャーナリズムを、司馬遼太郎は否定的に見ている。これは、現代ではどうだろうか。政府に対する批判も、政権への忖度でゆがめられているというのが、今日の状況なのかもしれない。あるいは、政権の側が、健全な政権批判ジャーナリズムを育てていくべきである、ということも言えるだろうか。
ところで、この回のタイトルにある「青写真」。もうこのことばは、死語といっていいかと思う。ことばとしては残っているが、青写真の実物は、もう使われることはないだろう。私は、かろうじて、青写真の実際を知っている最後の世代かもしれない。
2023年11月1日記
司馬遼太郎 雑談「昭和」への道 第十回 青写真に落ちた影
一九八二年の放送である。
坂本竜馬についても、自由民権運動についても、今日ではかなり評価が変わってきているところもあるのかもしれない。
司馬遼太郎は、自由民権運動をあまり高く評価していない。それは、憲法ができ、国会が開設されると、みんな国会議員になってしまって、運動自体が終わってしまったことにある。
はっきりとそう述べたわけではないが、アジアへの膨張主義は、むしろ民権論者にあるもので、国権論者はそうでなかった、という意味のことに触れたところがあった。さらにうがってみるならば、国権論者は、国家のあり方についてのリアリズムがあったということになるのかもしれない。このあたりの議論、いわゆる帝国主義的な国家運営が、どのような思想、人びとに由来することになるのか、興味深い。
そして、この回は、ジャーナリズム論でもあった。ただ、政府を批判するだけの在野ジャーナリズムを、司馬遼太郎は否定的に見ている。これは、現代ではどうだろうか。政府に対する批判も、政権への忖度でゆがめられているというのが、今日の状況なのかもしれない。あるいは、政権の側が、健全な政権批判ジャーナリズムを育てていくべきである、ということも言えるだろうか。
ところで、この回のタイトルにある「青写真」。もうこのことばは、死語といっていいかと思う。ことばとしては残っているが、青写真の実物は、もう使われることはないだろう。私は、かろうじて、青写真の実際を知っている最後の世代かもしれない。
2023年11月1日記
最近のコメント