『どうする家康』「徳川幕府誕生」 ― 2023-11-20
2023年11月20日 當山日出夫
『どうする家康』第44回「徳川幕府誕生」
関ヶ原の戦いが終わって、次の大阪の陣までの間のことになる。
家康は征夷大将軍になり、江戸に幕府を開く。一方、大阪の豊臣の方では秀頼が成長し、茶々は豊臣の行く末を秀頼にかけることになる。
この回で描いていたこととして、印象に残るのは次の二つになるだろうか。
第一には、世代交代。かつての徳川の家臣は、いずれも歳を取って現役からしりぞき、また、この世を去っていく。これは、時代の流れとして、いたしかたのないことである。
第二には、二代目。家康は秀忠を次の征夷大将軍に決める。ここには、家康の深謀遠慮があってのことなのかもしれない。秀忠は、傑出した武将というのではない。凡庸、平凡である。あえて秀忠を二代目の将軍にするということは、幕府を継承していくシステムを家康が作っていくということになる。優れた武将が一代で終わってしまった事例は、これまでのこのドラマで描かれてきたことである。(おそらく、今川、織田、武田というあたりの戦国大名が思いうかぶのだが、具体的な名前はドラマのなかで言及されることはなかった。)
以上の二つのことが印象に残る。
また、家康は秀忠に人の上にたつものの心得をさとす。どんなに理不尽なことであっても、その結果の責任を負うのが人の上にたつものの役目であると。
ところで、この回からオープニングの音楽の演奏が変わった。このドラマも最終である。あと何回になるのか。徳川の太平の世がどのように作られることになるのか、楽しみに見ることにしよう。
2023年11月19日記
『どうする家康』第44回「徳川幕府誕生」
関ヶ原の戦いが終わって、次の大阪の陣までの間のことになる。
家康は征夷大将軍になり、江戸に幕府を開く。一方、大阪の豊臣の方では秀頼が成長し、茶々は豊臣の行く末を秀頼にかけることになる。
この回で描いていたこととして、印象に残るのは次の二つになるだろうか。
第一には、世代交代。かつての徳川の家臣は、いずれも歳を取って現役からしりぞき、また、この世を去っていく。これは、時代の流れとして、いたしかたのないことである。
第二には、二代目。家康は秀忠を次の征夷大将軍に決める。ここには、家康の深謀遠慮があってのことなのかもしれない。秀忠は、傑出した武将というのではない。凡庸、平凡である。あえて秀忠を二代目の将軍にするということは、幕府を継承していくシステムを家康が作っていくということになる。優れた武将が一代で終わってしまった事例は、これまでのこのドラマで描かれてきたことである。(おそらく、今川、織田、武田というあたりの戦国大名が思いうかぶのだが、具体的な名前はドラマのなかで言及されることはなかった。)
以上の二つのことが印象に残る。
また、家康は秀忠に人の上にたつものの心得をさとす。どんなに理不尽なことであっても、その結果の責任を負うのが人の上にたつものの役目であると。
ところで、この回からオープニングの音楽の演奏が変わった。このドラマも最終である。あと何回になるのか。徳川の太平の世がどのように作られることになるのか、楽しみに見ることにしよう。
2023年11月19日記
司馬遼太郎 雑談「昭和」への道「第十一回 江戸日本の多様さ」 ― 2023-11-20
2023年11月20日 當山日出夫
司馬遼太郎 雑談「昭和」への道 第十一回 江戸日本の多様さ
降る雪や明治は遠くなりにけり
この句を憶えたのはいつのころだったか忘れてしまった。ただ、学生のころ、授業中に池田彌三郎先生が、この句について語っておられたことは記憶している。
この回で印象にのこることは……司馬遼太郎が子どものころ、明治生まれの老人が昔の明治時代のことを、実に楽しそうに語っていた、という経験譚である。たしかに明治時代は、「女工哀史」の時代であり、「野麦峠」の時代であった。だが、江戸時代から続く多様性のなかで明治という時代が作られてきた。司馬遼太郎は、この回で、明治の前の江戸時代のことを高く評価している。
無論、江戸時代について、前近代の封建社会としてイメージすることもできよう。しかし、その一方で、司馬遼太郎が語るように、各地方、各藩ごとに多様な文化のはぐくまれた時代であることも確かである。その中から、富永仲基が生まれ、安藤昌益も生まれてきた。
現代においても「多様性」ということは強く言われる。だが、そこで主張される多様性はいかにも窮屈である。寛容であるべきだと、非常に強く高圧的に語るのは、ある意味で逆に不寛容でもある。日本ははたしてこれから本当に多様性を尊重する社会になっていけるだろうかと思ってしまう。
2023年11月16日記
司馬遼太郎 雑談「昭和」への道 第十一回 江戸日本の多様さ
降る雪や明治は遠くなりにけり
この句を憶えたのはいつのころだったか忘れてしまった。ただ、学生のころ、授業中に池田彌三郎先生が、この句について語っておられたことは記憶している。
この回で印象にのこることは……司馬遼太郎が子どものころ、明治生まれの老人が昔の明治時代のことを、実に楽しそうに語っていた、という経験譚である。たしかに明治時代は、「女工哀史」の時代であり、「野麦峠」の時代であった。だが、江戸時代から続く多様性のなかで明治という時代が作られてきた。司馬遼太郎は、この回で、明治の前の江戸時代のことを高く評価している。
無論、江戸時代について、前近代の封建社会としてイメージすることもできよう。しかし、その一方で、司馬遼太郎が語るように、各地方、各藩ごとに多様な文化のはぐくまれた時代であることも確かである。その中から、富永仲基が生まれ、安藤昌益も生まれてきた。
現代においても「多様性」ということは強く言われる。だが、そこで主張される多様性はいかにも窮屈である。寛容であるべきだと、非常に強く高圧的に語るのは、ある意味で逆に不寛容でもある。日本ははたしてこれから本当に多様性を尊重する社会になっていけるだろうかと思ってしまう。
2023年11月16日記
最近のコメント