『光る君へ』「約束の月」 ― 2024-01-08
2024年1月8日 當山日出夫
『光る君へ』第1回「約束の月」
いきなりの苦言になるが、平安貴族にとって、死のけがれはもっとも忌むべきもののひとつであったはず。公卿階層の貴族が、自ら刀を手にして人を殺すなど、ありえない設定だと思う。そういう暴力的行為を担当することになったのが、後の武士ということだと思っている。
まひろの家でも、母の遺体を安置していたが、これもどうだろうか。
『源氏物語』を読むと、死の汚れに触れた人間を訪問しても、床に座ることをしていない。立ったままで話しをしている。
史実にもとづいたドラマとはいえ、このあたりの脚本はあまり納得できるものではない。ドラマであるから歴史のとおりである必要はない。だが、死のけがれというようなことは、重要な生活感覚であるから、ないがしろにすべきではないと考える。
まひろと三郎の出会いが、逃げた小鳥(ヤマガラ)を追いかけることがきっかけになっていた。これは、明らかに紫上と光源氏の出会いのシーンをなぞったものである。「雀の子をいぬきがにがしつる」『若紫』。昔、高校生のころ、古典の教科書に出ていたのを今でも憶えている。紫式部と藤原道長の関係は、あたかも紫上と光源氏の関係、という意図なのであろう。
出てきた漢籍が、『蒙求』『史記』というあたりは、妥当なところだろうか。
安倍晴明について、「はるあきら」と読ませているのは、異論はない。しかし、女性について、「~子」を訓読で読ませるのはどうだろうか。だからといって、今の通常の習慣のように音読で「~し」とするのがいいというわけではない。このあたり、人名をどう読んでいたかは、史料、資料のないことがらに属する。このドラマの方針も、また一つのあり方ではある。(史料がないから想像でおぎなった部分と、史実として分かっている部分は、分けておくべきだろう。このドラマを見た人たちが、平安時代について後々に何をイメージするかということにつながる。)
それにしても、まひろの家が貧乏すぎる気もするが、はたしてどうであったろうか。除目にはずれたときの様子は、まさに「すさまじきもの」であったが。
ドラマの空想ではあるのだが、興味深かったのは散楽のシーン。古代の芸能がどんなものであった、特に庶民のレベルではほとんど史料、資料がない分野になる。かろうじて残っているうちで、有名なものとしては『新猿楽記』がある。これを思想大系本で読んだのは、学生のころだった。
これが、宮中での舞楽や音楽の演奏であれば、専門的な考証が可能である。
平安京も、このころでは、主に南西部のあたりは荒廃していたと思っているのだが、これはどのように描かれることになるだろうか。また、鴨川の河原は、子どもとはいえ、貴族階層の人間が簡単に訪れる場所だったのだろうというあたりも気にかかる。
気になることはいくつもあるのだが、現代の価値観で見るドラマとしては、よく出来ていると思う。
どうでもいいことだが、伊藤敏恵アナウンサーの声でナレーションがはいると、映像の世紀の雰囲気になってしまう。
さて、次回から吉高由里子の登場になるようだ。楽しみに見ることにしよう。
2024年1月7日記
『光る君へ』第1回「約束の月」
いきなりの苦言になるが、平安貴族にとって、死のけがれはもっとも忌むべきもののひとつであったはず。公卿階層の貴族が、自ら刀を手にして人を殺すなど、ありえない設定だと思う。そういう暴力的行為を担当することになったのが、後の武士ということだと思っている。
まひろの家でも、母の遺体を安置していたが、これもどうだろうか。
『源氏物語』を読むと、死の汚れに触れた人間を訪問しても、床に座ることをしていない。立ったままで話しをしている。
史実にもとづいたドラマとはいえ、このあたりの脚本はあまり納得できるものではない。ドラマであるから歴史のとおりである必要はない。だが、死のけがれというようなことは、重要な生活感覚であるから、ないがしろにすべきではないと考える。
まひろと三郎の出会いが、逃げた小鳥(ヤマガラ)を追いかけることがきっかけになっていた。これは、明らかに紫上と光源氏の出会いのシーンをなぞったものである。「雀の子をいぬきがにがしつる」『若紫』。昔、高校生のころ、古典の教科書に出ていたのを今でも憶えている。紫式部と藤原道長の関係は、あたかも紫上と光源氏の関係、という意図なのであろう。
出てきた漢籍が、『蒙求』『史記』というあたりは、妥当なところだろうか。
安倍晴明について、「はるあきら」と読ませているのは、異論はない。しかし、女性について、「~子」を訓読で読ませるのはどうだろうか。だからといって、今の通常の習慣のように音読で「~し」とするのがいいというわけではない。このあたり、人名をどう読んでいたかは、史料、資料のないことがらに属する。このドラマの方針も、また一つのあり方ではある。(史料がないから想像でおぎなった部分と、史実として分かっている部分は、分けておくべきだろう。このドラマを見た人たちが、平安時代について後々に何をイメージするかということにつながる。)
それにしても、まひろの家が貧乏すぎる気もするが、はたしてどうであったろうか。除目にはずれたときの様子は、まさに「すさまじきもの」であったが。
ドラマの空想ではあるのだが、興味深かったのは散楽のシーン。古代の芸能がどんなものであった、特に庶民のレベルではほとんど史料、資料がない分野になる。かろうじて残っているうちで、有名なものとしては『新猿楽記』がある。これを思想大系本で読んだのは、学生のころだった。
これが、宮中での舞楽や音楽の演奏であれば、専門的な考証が可能である。
平安京も、このころでは、主に南西部のあたりは荒廃していたと思っているのだが、これはどのように描かれることになるだろうか。また、鴨川の河原は、子どもとはいえ、貴族階層の人間が簡単に訪れる場所だったのだろうというあたりも気にかかる。
気になることはいくつもあるのだが、現代の価値観で見るドラマとしては、よく出来ていると思う。
どうでもいいことだが、伊藤敏恵アナウンサーの声でナレーションがはいると、映像の世紀の雰囲気になってしまう。
さて、次回から吉高由里子の登場になるようだ。楽しみに見ることにしよう。
2024年1月7日記
NHKスペシャル「2024私たちの選択 -AI×専門家による“6つの未来”-」 ― 2024-01-08
2024年1月8日 當山日出夫
NHKスペシャル 2024私たちの選択 -AI×専門家による“6つの未来”-
元日の夜に放送の予定であったものが、能登半島の地震の影響で四日の夜の放送になったものである。
はっきり言ってあまり得るところのない内容であった。だが、強いていえば、当たり前のことを実行する、そのができるかどうか、ということになる。
それを実行する場合、一番重要なのが、国民的な議論と、政府への信頼感である。これが決定的に欠如しているのが、今の日本である。
政府、与党への信頼感は、おそらく最低のレベルにある。国民的議論を形成しようとしても、熟議とはほどとおい非難の応酬になりがちである。対話というよりも、自己の主張の正しさをふりかざすだけの場合が多い。これは、左翼も、右翼もそうである。
たまたまそうなったのであるが、元日の地震について、被災地支援のために政府がどれほどのことをするか、まずこれが試金石になることは確実である。ここで確かな支援の姿を政府が国民に対して見せることができなければ、おそらく政府への信頼感は回復しない。
気になったことがいくつかある。
世界の状況に変化がない、ということを前提にしての議論である。これから、中国がどうなるか、韓国がどうなるか、ということは、日本の行く末にとってきわめて重要なことがらであるが、一切ふれられることはなかった。不確定要因が多すぎるから考えることができない、ということなのかもしれないが、しかし、ここは一言は言っておくべきだろう。
歴史人口学によれば、社会の近代化がすすみ、女性の学歴があがれば、出生率はさがる。これは、どうしようもないことである。これが分かっていながら、なぜ対策がなされなかったのか、ここのところについての言及がなかった。これも、このことについては、自民党政権なかんずく安倍政権の無策ということに触れざるをえないから、黙っていたのかと思う。
日本は、実質的に移民を受け入れるという方向にむかわざるをえないとするならば、これも考えておくべき要素のひとつになる。
これからの社会の鍵は、DXであるという。これはそうだろう。だが、政府がデジタル政府の重要課題としている、マイナンバーカードの普及が進まないのは、何故であるのか、ここのあたりから考える必要がある。(私見としては、制度設計から見なおさないと無理だと思う。だが、それを実行する、過ちを認めるということが、今の政府にはできない。)
凋落していく日本を象徴することになるのが、将来からふり返れば、東京オリンピックの強行開催であり、来年の大阪万博となるだろう。もうこのようなイベントをやったところで、国家の発展にはつながらないということに気づくべきだったし、気づいたら、途中で路線変更すべきであった。どうしてそれができなかったのか、これが日本の政治の実態ということになろうか。
2024年1月5日記
NHKスペシャル 2024私たちの選択 -AI×専門家による“6つの未来”-
元日の夜に放送の予定であったものが、能登半島の地震の影響で四日の夜の放送になったものである。
はっきり言ってあまり得るところのない内容であった。だが、強いていえば、当たり前のことを実行する、そのができるかどうか、ということになる。
それを実行する場合、一番重要なのが、国民的な議論と、政府への信頼感である。これが決定的に欠如しているのが、今の日本である。
政府、与党への信頼感は、おそらく最低のレベルにある。国民的議論を形成しようとしても、熟議とはほどとおい非難の応酬になりがちである。対話というよりも、自己の主張の正しさをふりかざすだけの場合が多い。これは、左翼も、右翼もそうである。
たまたまそうなったのであるが、元日の地震について、被災地支援のために政府がどれほどのことをするか、まずこれが試金石になることは確実である。ここで確かな支援の姿を政府が国民に対して見せることができなければ、おそらく政府への信頼感は回復しない。
気になったことがいくつかある。
世界の状況に変化がない、ということを前提にしての議論である。これから、中国がどうなるか、韓国がどうなるか、ということは、日本の行く末にとってきわめて重要なことがらであるが、一切ふれられることはなかった。不確定要因が多すぎるから考えることができない、ということなのかもしれないが、しかし、ここは一言は言っておくべきだろう。
歴史人口学によれば、社会の近代化がすすみ、女性の学歴があがれば、出生率はさがる。これは、どうしようもないことである。これが分かっていながら、なぜ対策がなされなかったのか、ここのところについての言及がなかった。これも、このことについては、自民党政権なかんずく安倍政権の無策ということに触れざるをえないから、黙っていたのかと思う。
日本は、実質的に移民を受け入れるという方向にむかわざるをえないとするならば、これも考えておくべき要素のひとつになる。
これからの社会の鍵は、DXであるという。これはそうだろう。だが、政府がデジタル政府の重要課題としている、マイナンバーカードの普及が進まないのは、何故であるのか、ここのあたりから考える必要がある。(私見としては、制度設計から見なおさないと無理だと思う。だが、それを実行する、過ちを認めるということが、今の政府にはできない。)
凋落していく日本を象徴することになるのが、将来からふり返れば、東京オリンピックの強行開催であり、来年の大阪万博となるだろう。もうこのようなイベントをやったところで、国家の発展にはつながらないということに気づくべきだったし、気づいたら、途中で路線変更すべきであった。どうしてそれができなかったのか、これが日本の政治の実態ということになろうか。
2024年1月5日記
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