NHK特集「幻のイオマンテ 〜75年目の森と湖のまつり〜」 ― 2024-02-21
2024年2月21日 當山日出夫
NHK特集 幻のイオマンテ 〜75年目の森と湖のまつり〜
NHKBS4Kで再放送。最初の放送は、一九八四年である。ちょうど四〇年前の番組になる。
たまたま、その日の夕方、テレビを見ていて気がついて見ることにした。冒頭の部分を少し見逃したのだが、ほぼ全部見ることができた。
今から四〇年前に、アイヌの神事であるイオマンテが復活して、それを記録したものである。その四〇年前の時点で、それは、七五年ぶりのことだという。もうかつての神事の詳細は伝わってはいない。
アイヌは、独自の文字を持たない。(今では、日本語の仮名に手を加えてアイヌ語表記も可能になっている。これは、JIS規格になり、一般のコンピュータで使用可能である。ただ、このことはあまり一般には知られていないことかもしれない。)
神事はすべて口伝による伝承でしか伝わらない。古老の記憶を頼りに、口伝をつなぎあわせてなんとか復活ということになったようである。
見ていて思うことはいろいろとあった。
まず、アイヌの人びとがアイヌ語ではなく日本語で話していること。確かに神事のことばはアイヌ語なのだが(私はアイヌ語を聞き取ることができるだけの知識がないけれど)、通常の会話は日本語である。この番組の時点で、アイヌ語は、人びとの日常生活のことばではなくなってしまっていた、と理解していいだろうか。
それから、少しだけ言及があったことだが、アイヌの人びとが、北海道で生計をたてることができるのは、観光業などで、それも夏の間だけ。冬になると、出稼ぎに出なければならない、という。まだ、日本において、出稼ぎということばがリアルな意味を持っていた時代である。
アイヌの人びとの民族的な文化が残るとするならば、まずはアイヌ語で生活できることであり、その土地で暮らすこと……それは、かつてのような狩猟採集生活ではもはやありえないのだが……が、最低限必要であろう。そのなかで、信仰も守られることになる。ことばと宗教とコミュニティの維持、これがなければ、民族として生きのこることはできないと言っていい。
しかし、一方で、今の時代である。人びとの生活も変わらざるをえない。近代社会に適応した生活様式に変わっていくという流れをとめることはできない。
アイヌの神事……イオマンテ……には、シマフクロウを使う。それを殺してその魂を天に送る。しかし、シマフクロウは、絶滅危惧種である。動物園から借りることになった。実際に殺すことはしていない。(このことは、昔、ニュースで知ったかと憶えている。)
シマフクロウを殺すことは無理だとしても、川の鮭を捕るぐらいはいいのではないか、という気もするが、どうだろうか。
人びとのこころのなかに、古くからの神々への信仰がどのように伝わっていくことになるのか、これが課題かと思う。
2024年2月20日記
NHK特集 幻のイオマンテ 〜75年目の森と湖のまつり〜
NHKBS4Kで再放送。最初の放送は、一九八四年である。ちょうど四〇年前の番組になる。
たまたま、その日の夕方、テレビを見ていて気がついて見ることにした。冒頭の部分を少し見逃したのだが、ほぼ全部見ることができた。
今から四〇年前に、アイヌの神事であるイオマンテが復活して、それを記録したものである。その四〇年前の時点で、それは、七五年ぶりのことだという。もうかつての神事の詳細は伝わってはいない。
アイヌは、独自の文字を持たない。(今では、日本語の仮名に手を加えてアイヌ語表記も可能になっている。これは、JIS規格になり、一般のコンピュータで使用可能である。ただ、このことはあまり一般には知られていないことかもしれない。)
神事はすべて口伝による伝承でしか伝わらない。古老の記憶を頼りに、口伝をつなぎあわせてなんとか復活ということになったようである。
見ていて思うことはいろいろとあった。
まず、アイヌの人びとがアイヌ語ではなく日本語で話していること。確かに神事のことばはアイヌ語なのだが(私はアイヌ語を聞き取ることができるだけの知識がないけれど)、通常の会話は日本語である。この番組の時点で、アイヌ語は、人びとの日常生活のことばではなくなってしまっていた、と理解していいだろうか。
それから、少しだけ言及があったことだが、アイヌの人びとが、北海道で生計をたてることができるのは、観光業などで、それも夏の間だけ。冬になると、出稼ぎに出なければならない、という。まだ、日本において、出稼ぎということばがリアルな意味を持っていた時代である。
アイヌの人びとの民族的な文化が残るとするならば、まずはアイヌ語で生活できることであり、その土地で暮らすこと……それは、かつてのような狩猟採集生活ではもはやありえないのだが……が、最低限必要であろう。そのなかで、信仰も守られることになる。ことばと宗教とコミュニティの維持、これがなければ、民族として生きのこることはできないと言っていい。
しかし、一方で、今の時代である。人びとの生活も変わらざるをえない。近代社会に適応した生活様式に変わっていくという流れをとめることはできない。
アイヌの神事……イオマンテ……には、シマフクロウを使う。それを殺してその魂を天に送る。しかし、シマフクロウは、絶滅危惧種である。動物園から借りることになった。実際に殺すことはしていない。(このことは、昔、ニュースで知ったかと憶えている。)
シマフクロウを殺すことは無理だとしても、川の鮭を捕るぐらいはいいのではないか、という気もするが、どうだろうか。
人びとのこころのなかに、古くからの神々への信仰がどのように伝わっていくことになるのか、これが課題かと思う。
2024年2月20日記
ETV特集「令和の“トキワ荘”〜熊本から世界をめざせ〜」 ― 2024-02-21
2024年2月21日 當山日出夫
ETV特集 令和の“トキワ荘”〜熊本から世界をめざせ〜
私は漫画は読まない。私ぐらいの世代からだろう、大人になってからも漫画を読む/読まない、という違いがあるのは。私の場合、読まないという道を選んだ。ただ、それだけのことである。
熊本に作った、現代版の漫画家の養成システム。令和のトキワ荘である。海外から若手の漫画家志望者をつのって、仕事(漫画の制作にかかわる)をしながら、自分の作品を作り、漫画家デビューを目指す。
また、この熊本の高森町の高校には、漫画の学科がを作った。いわば、漫画で町おこし(かなり古風な言い方になるが)である。
興味深かったことがいくつかある。
一つには、編集者のこと。漫画の分野では、編集者がその作品の成立に深くかかわる。ストーリーの展開は無論、キャラクターの設定、描画にいたるまで細かく指導する。ここまでくると、編集者というよりも共著者と言ってもよいほどである。これは、日本の漫画の独特の習慣らしい。
それから、漫画の制作過程が面白い。特に機材のことである。高校生は、紙に書いていた。しかし、プロを目指す外国からの漫画家たちは、デジタルで描いている。デジタルの画面に下書きをして、それをレイヤーとして、その上のレイヤーに清書を仕上げていくことになるのだろう。このプロセスは、かつての紙にペンとインクで描いていた時代とは大きくことなる。
使っているのは、Macが多いようだった。プロの映像、画像関係の仕事なら、そうなるのかなとは思う。ただ、色を付けるとなると、表現出来る色空間をどうコントロールするか、専門的な知識が必要になるはずである。
それから、国語学の視点から関心があったのは、漫画の台詞を、横書きで書くか、縦書きで書くか、ということがある。番組に登場していた作品では、横書きのものと縦書きのものがあった。また、台詞の部分に文字の入っていないものもあった。台詞のことばは、誰がどうやって最終決定するのだろうか。
この番組の場合、特に外国出身の漫画家志望者である。日本語教育ということでは、どうなのかという気もしている。まあ、別に、日本で漫画家修業をするからといって、日本語の漫画を描かなければならないということはない。外国語で漫画を描いてもいい。現に、日本の漫画の多くは、外国語に翻訳されて、世界に広まったということがある。
漫画は読まない生活をおくることにしているのだが、これからの漫画家たちがどのように成長していくことになるのか、このことには興味がある。
これからネットとデジタルの時代、紙の本の漫画、というものにどれだけの意味があるのかという気もする。たぶん、紙の本の出版は将来的な展望はないだろう。デジタル版の漫画が主流になるかと思う。漫画とメディアの関係も、これからどうなっていくことだろうか。
2024年2月19日記
ETV特集 令和の“トキワ荘”〜熊本から世界をめざせ〜
私は漫画は読まない。私ぐらいの世代からだろう、大人になってからも漫画を読む/読まない、という違いがあるのは。私の場合、読まないという道を選んだ。ただ、それだけのことである。
熊本に作った、現代版の漫画家の養成システム。令和のトキワ荘である。海外から若手の漫画家志望者をつのって、仕事(漫画の制作にかかわる)をしながら、自分の作品を作り、漫画家デビューを目指す。
また、この熊本の高森町の高校には、漫画の学科がを作った。いわば、漫画で町おこし(かなり古風な言い方になるが)である。
興味深かったことがいくつかある。
一つには、編集者のこと。漫画の分野では、編集者がその作品の成立に深くかかわる。ストーリーの展開は無論、キャラクターの設定、描画にいたるまで細かく指導する。ここまでくると、編集者というよりも共著者と言ってもよいほどである。これは、日本の漫画の独特の習慣らしい。
それから、漫画の制作過程が面白い。特に機材のことである。高校生は、紙に書いていた。しかし、プロを目指す外国からの漫画家たちは、デジタルで描いている。デジタルの画面に下書きをして、それをレイヤーとして、その上のレイヤーに清書を仕上げていくことになるのだろう。このプロセスは、かつての紙にペンとインクで描いていた時代とは大きくことなる。
使っているのは、Macが多いようだった。プロの映像、画像関係の仕事なら、そうなるのかなとは思う。ただ、色を付けるとなると、表現出来る色空間をどうコントロールするか、専門的な知識が必要になるはずである。
それから、国語学の視点から関心があったのは、漫画の台詞を、横書きで書くか、縦書きで書くか、ということがある。番組に登場していた作品では、横書きのものと縦書きのものがあった。また、台詞の部分に文字の入っていないものもあった。台詞のことばは、誰がどうやって最終決定するのだろうか。
この番組の場合、特に外国出身の漫画家志望者である。日本語教育ということでは、どうなのかという気もしている。まあ、別に、日本で漫画家修業をするからといって、日本語の漫画を描かなければならないということはない。外国語で漫画を描いてもいい。現に、日本の漫画の多くは、外国語に翻訳されて、世界に広まったということがある。
漫画は読まない生活をおくることにしているのだが、これからの漫画家たちがどのように成長していくことになるのか、このことには興味がある。
これからネットとデジタルの時代、紙の本の漫画、というものにどれだけの意味があるのかという気もする。たぶん、紙の本の出版は将来的な展望はないだろう。デジタル版の漫画が主流になるかと思う。漫画とメディアの関係も、これからどうなっていくことだろうか。
2024年2月19日記
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