『舟を編む ~私、辞書つくります~』(第1回)2024-02-23

2024年2月23日 當山日出夫

舟を編む ~私、辞書つくります~ 第一回

私の国語学の恩師は山田忠雄先生である。始めてあったのは、学部の三年の終わりのころだったと憶えている。慶應義塾大学での恩師である太田次男先生につれられて、渋谷にある山田忠雄先生の研究室に行った。

慶應の文学部で国語学を勉強したいと言った私に対して、慶應には国語学の先生はいないから、山田忠雄先生を紹介しよう、ということで連れていってもらった。これを契機として、その後、国語学を学ぶ方向に進むことになった。

山田忠雄先生は、言うまでもなく三省堂の『新明解国語辞典』の編纂者である。

その後の私の人生のことを思ってみると、あるいは、辞書編纂者という道を歩むことになったかもしれない。そうふりかえることがたびたびある。もし、国語学のうちで訓点語研究……太田次男先生のもとで「神田本白氏文集」の索引を大学院のときに作った……という分野にいかなければ、おそらくは辞書の編纂という仕事に携わっていたかもしれない。

ドラマであるが、辞書ということが分かっている作り方になっている。

さりげないシーンだが、辞書の編集部の机の上の辞書が、上下逆においてあった。これは、辞書を頻繁に使う人間にとって正しい置き方である。上下を逆にしておいてあった方が、手に取って手元でそのまま開くことができる。これが、普通に並べてあると、手元で一回ひねってやる必要がある。この一手間を惜しむのが、辞書を使うプロである。

それから、「右」の語釈を訊ねるシーンがあった。ここでは、思わず笑ってしまった。国語辞典において、「右」をどう説明するかは、国語辞典の語釈の特色や方針をしめすものとして、最も有名な事例である。おそらく、ほとんどの国語学者、日本語学者なら、このことは知っている。

つまりは、辞書というもの、それを作る現場のものの考え方を、きちんと踏まえて作ってあるドラマといってよい。辞書監修として山本康一さんの名前があった。このあたりは納得できる。

このドラマでは、登場する辞書が実際に刊行されている辞書である。これはNHKのドラマの作り方からすると異例かもしれない。しかし、現実に刊行されている辞書が登場してこそ、リアリティが生まれる。が、『広辞苑』を持ち歩くのはどうかと思わないではない。二〇一七年のころなら、デジタル版ということになるかと思う。スマホアプリか、あるいは電子辞書(これはもう古びてしまっているが)でないだろうか。

時代設定が二〇一七年というのは、かなりうまい。世の中の趨勢として、デジタル化資料が多く登場しているころになる。BCCWJは使えるようになっている。しかし、『大渡海』の完成予定である三年後の二〇〇〇年には、まだ生成AIによる言語という問題は起きていない。

二〇一七年のころには、『大渡海』のようなタイプの辞書はもう時代遅れになっている。このあたりは、まあドラマということである。

2024年2月22日記

「ローティ“偶然性・アイロニー・連帯” (3)言語は虐殺さえ引き起こす」2024-02-23

2024年2月23日 當山日出夫

100分de名著 ローティ“偶然性・アイロニー・連帯” (3)言語は虐殺さえ引き起こす

もう今年度(二〇二三)で、国語学、日本語学を教える仕事は終わりにした。いろいろと理由のあってのことだが、最大の理由の一つは、生成AIのことである。これからの時代に、人間にとって言語とはなんであるか、考えるのが非常に困難な状況になると考えた。もうここいらで隠居しようと思った。

これまで、国語学、日本語学を教えてきて、一番注意して使ってきたことばが、「日本人」と「日本語」である。「日本語」は言語の名称として使用する。そして、その「日本語」を使うのが「日本人」であるとは言えない。

私の場合、これまで極力「日本人」ということばは授業で使わないできた。「日本人」と言わなければならない場合、それは、日本列島に住んで日本語を話している人びとのことぐらいの意味でつかっておくことにしますが……というような断りを必ず入れるようにしてきた(無論、「日本人」をめぐてはこれで十分ではなく、さらなる議論が必要である。最低限、無反省に使わないことである。)これはかなり面倒なことではある。しかし、このような面倒なことわりを入れることで、「日本人=日本語」という概念にとらわれない見方がありうるのだということは、伝えることができればと思ってのことである。

言語と本質主義というのは、いつの時代にも議論になることである。

人権ということばを語る人が、意見の異なる立場の人に対しても、人権を尊重しているかどうか……昨今のSNSでのやりとりを見ていると、どうかと思うことが多い。強いていえば、人権はマイノリティの特権ではない。少なくとも人権は平等であるという理念は必要である。(アファーマティブ・アクションの価値は認めるのだが。)

旧ユーゴスラビアのことについては、いろいろと思うことがある。少なくとも、私の若いころ、それは東西冷戦の時代であったが、旧ユーゴスラビアを始め、東欧社会主義国を礼讃することが多くあった。ソ連や中共(今はもうこのような言い方はしないが)には賛同できないが、東欧社会主義を理想的に語ることが、左翼的な立場からは多くあったと記憶する。(今のリベラルを自称する人たちは、このような歴史がなかったかのごとくである。)

配偶者のことをどう呼ぶかで気になるのはNHKの方針である。街頭インタビューなどで、女性が「主人」と言ったとき、字幕では「夫」に改めている。ひとのことばを勝手に変えていいのかと思うが、どうだろうか。これなど、時代の変化、世代の移り変わりとととも自然に変わっていくものだと思うのだが。(ついでに書けば、同様にいわゆる「らぬきことば」は訂正するのを基本としていると観察される。これも、ほうっておけばいいものだと思うが。)

「わたしたち」というとき、それは確かにある種の排他性を持つ。「わたしたち」ではない人びとのことを前提にする。しかし、人間というものは、「わたしたち」という仲間を作りそのなかで生きてきたという歴史がある。

一方、最近言われることとして、コミュニティの再生、というようなことがある。

良い「わたしたち」と、悪い「わたしたち」があるのだろうか。問題は、そのメンバーが、自分たちのことをどう自己認識しているか、ということ、そのことに常に反省的でありうるかどうかということではないかと思うが。

2024年2月21日記