「シリーズ 歎異抄にであう 無宗教からの扉 (6)「慈悲の実践」」2024-04-13

2024年4月13日 當山日出夫

こころの時代 シリーズ 歎異抄にであう 無宗教からの扉 (6)「慈悲の実践」

批判的に見ようと思えばいくらでも言える。特に、思想史、文献学、歴史学の立場からするならば、かなり粗雑な議論であるだろう。だが、そんなことは、安満利麿は十分承知の上で語っているにちがいない。それは、最終回で、高木顕明のことについてふれたことからも、そうであると思う。

念仏とは呪文ではない。また、個人のなかにとどまるものではなく、社会的な実践をともなうものでもある。このこと自体に異論はない。

だが、それが宗教のすべてである、と言っていいかとなると、問題を感じないではない。また、仏教=親鸞=歎異鈔、という結びつけは、どう見ても強引にすぎるところがあると感じざるをえない。

余計なことかと思うが、ベトナム戦争のときのことを持ち出してくるのは、やはり生きてきた時代を感じるところがある。ここもあえて天邪鬼に批判的に見るならば、ベトナム戦争は、軍事力の戦いだけではなく、イデオロギーを背景にしたプロパガンダの戦いでもあった。ベトナム反戦運動についても、今日の観点からは、絶対平和主義だけではなく、多様な見方が可能であるかと思う。

仏教も、浄土思想も、そのおかれた歴史的な背景のなかで成立し、人びとに信仰されてきたという側面から考えてみることも、大切なことだと私は思う。そのうえで、なお普遍的な価値として何を見出すことができるか、ということである。そして、経典、啓典は、常に時代の流れのなかで読み継がれ、再解釈されていくものである。

2024年3月18日記

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